余談:社会と科学者から科学哲学が欠落してる件について。

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昨日、こんな匿名ダイアリーがあることを知りました。

その1 「■早野龍五のやっていることは決して科学的手続きではない 」 (1/9)
http://anond.hatelabo.jp/20170109214808

その2 「■早野龍五のアウトリーチとやらはどちらかと言うとニセ科学である」 (1/19、その1の続きの投稿)
http://anond.hatelabo.jp/20170119160109

 


これらは、実は昨日まで存在すら知らなかったのですが、私が1/11に書いたエントリやその直後にスラドに書いた中身と同じ主旨の話をしているという所が相当あって、それが、科学の現場に携わってる方から出たというのが、なんとも救いようのある話だと思うのです。

この人の主張は、

  • 早野龍五・東大教授は、原発事故直後から放射能が安全だと繰り返してきたが、そこに対しては、過去に決められて、既に問題点が多く出されてるIAEAなどの国際基準をオウム返しに主張してるだけだ。
  • そして、その基準の決定の不透明さや、放射能被害の実態に合わないと言う批判的な指摘に対して、ニセ科学だと切り捨てている。
  • 絶対に安全。などの、未来未知の話に対して、「絶対」などと言う言葉を軽々に使いすぎており、それは、科学者として根本的に問題がある態度だ。
  • ストロンチウム90に関しても、汚染や健康被害がないかのような主張を繰り返しているが、ストロンチウム90は測定困難であり、しかも、体内に入れば長期間体内にとどまって臓器を破壊することが分かっているが、ストロンチウムが実際どのくらいの割合で体内に入るかは、未だに確定した割合の数値が出せないくらいに未知の状態だ。そもそも、どのくらいの環境汚染になってるかという具体的なデータも未だに出来ていない。
  • 早野氏が行ってきたような主張の仕方は、多くの人を安心させると同時に、放射能被害を危惧する人たちに対して「放射脳」などの悪意のこもったレッテルと攻撃を招くことに繋がっている。
  • 本文(リンク先の匿名ダイアリー)では、福島の汚染や食品汚染が安全かどうかは論じないが、早野教授たちが安全である(もしくは被曝被害は軽微だ)と主張する時の言い方が、余りに断定調であることは、現実に起こってることや、今分かってる知見の程度を考えると、到底科学的とは言えるものではない(追記)。
  • 早野教授は、科学に対して科学的な態度ではなく、政治的な・自分や周囲の立場を高めるための政治的な態度で接し続けている。このような態度を取る科学者と、そうではない科学者が半々づつという状態が、日本の現状だ。

まぁ、こんなところだと思います。

私が1月11日に書いた「権威主義が壊してる社会」( http://rebuild.hateblo.jp/entry/2017/01/11/151905 )では、科学界で主流である人が、科学的な態度から大きく外れた態度を、2011年3月11日以降取ってることと、その言葉が権威の言うことだから。と言う理由から、多くの人たちが信じてしまい、放射能被害を訴える人々や放射能被害の恐怖に怯える人々を、孤立と社会的排除に追いやってることの酷さ。のような事を書きました。

そして、翌日、議論サイトのスラドで、冒頭に出した匿名ダイアリーが書かれるきっかけになったであろう、早野龍五教授が行った発言に関するトピック(『早野龍五教授曰く、「福島に生まれたことを後悔する必要はどこにもない」』 https://srad.jp/story/17/01/12/0457222/ ) が出て、そこでも私が幾つか書いて「荒らし」扱いされたのですが、その中の一つを再掲しておきます。

https://srad.jp/comment/3142988

棄民を推進する言説(Re:住めなくなったことだけで (スコア:-1, 荒らし)
by Artane. (1042) on 木曜日 1月 12, @06:00午後 (#3142988) ホームページ 日記

こういう言説を、原子物理学とか放射線医学の「権威」の人達が取り続け、それを後ろ盾にして世の中の権威や権力におもねりたいだけの人達が、そうではない人たちを「放射脳」などと、狂人のように扱い続けるという地獄絵図が、今の日本にはあるわけです。

偶然昨日書いたBlogの文 [hateblo.jp]の続きとして、気力体力が出来たら書いてみてもいい問題ではあるんですが、福島県が事故直後に、県民を縛り付けるために、ものすごいコストを払ってるわけですよ。
県内マスメディアが、県が招請して講演活動を始めた「放射線医学の権威」の言葉を援用する形で、浜通り放射能被害の大きかった郡山市などから避難する必要はないとか、NHKを中心に「絆」(今は一番嫌いな言葉です)を強調して、地元で頑張れと、暗に強要したりとか。

メルトダウンが確実に起こってるのがデータから明らかなのに起こってないと強弁し、テレビカメラの間で原発が爆発しても、なんだかんだ言って、認めず、五年経って東電が【メルトダウンでした」と言っても、過ちを自己批判一つしない。
同じような構図が、放射能汚染や「除染」、食品汚染でも起こってるんですよね。

要は、上からの同調圧力と、そこに沿った権威達の言葉によって、宮城の南部や福島や茨城の北部や山形の一部、千葉のホットスポットと言った、放射能汚染が深刻で除染は焼け石に水にしかならないような状態になるのが目に見えてた地域の人達を、棄民に追いやろうとしてるんですよ。
自分たちが間違ってなかった。と言う事を続けたいだけの人たちによって。

そういう流れがなんで起こったかと言えば、今考えるに、原発を推進してきた側が強調している「クリーンな原子力」「温暖化対策には原子力」と言う、根本的に間違ってると考えていいような命題に対して、この国の主流派の学者たちが、総じて自縄自縛に陥ってしまったんだと思うんですよね。

その中の、自縄自縛に陥るに至る大きな役目を果たしてきたのが、今回の早野龍五であり、阪大の菊池誠ではないかと思うんですよね。

マトモに民主主義が機能し、もしくは、公正な刑事行政や司法が機能している国ならば、真っ先に逮捕されて、東側の国なら強制収容所おくりになっていても、当然なくらいの犯罪的行為を行ってるのに、気がついてないとでも言うべきか。

# あ、このままブログに書いてもいいかもしれないな(;´Д`)

 
このブログで、特定個人を非難することは極力避けたいのですが、しかし私は、早野龍五教授にせよ、大阪大の菊池誠教授にせよ、根本的な科学的態度が欠落していて、広い意味での「政治的利用」を、科学に対して行ってると同時に、知的に怠慢で科学哲学の類が著しく欠落していると見ています。
そして、この国で発言力が強くて、しかも研究予算やスポンサーを付けて大きな研究をできる学者さんたちやそのお弟子さん達の大半が、そういう状態なのではないかとすら思ってます。

そうでない学者さんが少なからずいることも、私は知っています。しかし、そのような学者さんの多くは、特にその事を主張すればするほど、最低限の予算での研究を強いられたり、そもそも講師や助教や助手よりも上の地位にはなれないという状態になってる訳ですよ。例えば、昨年京大を退官された、小出裕章先生のように。

そして、更に嘆かわしいのは、この、「主流的な学者さん」達や、そこに追随してる「ジャーナリスト」に、著しく科学哲学や広い意味での倫理観・科学というものに対する根本的な態度が欠落していることと同時に、そのようなことを見抜けず・見抜かず、「被曝を怖れてる人たちや放射能汚染を批判してる人たちは、根本的に頭がおかしい」的な言葉自体やそれを間接的に煽る言葉に対して、コロリと染まってしまってる人が、今の日本では存外に多いということなんですよね。

なんで、そんな状態なのか?確かに、科学は難しいんだけど、どのように現象に向き合うか、常識を抱えつつ、常識の外側にも問題はあるんだ。という事を自分に律し続けるような原理原則で物事に臨むという部分や、科学というものは、なんのためにあるのか。と言う、基礎的な倫理観の部分だけであるなら、多くの人が、この人にはそれらがあるのかないのか。と言う部分は感覚的に見抜けると思うんですけどね。しかし、今の日本では、「常識」に、左翼の多くですら絡め取られていて、常識を超えた状態が起こってると言うとことで原理原則に立ち戻れない人は資質に問題があるし、そのような人たちが信奉して広めてることには、まずは眉に唾をつけて疑わないといけない。と言う慎重さ・臆病さすら、持たないことが正しいかのような話が蔓延してるわけですよ。

こういう、多くの人が根本的な倫理観とか原理原則に注意を払わないで、相手の社会的立場にだけ配慮して、そこで物事の良し悪しを判断してきたことが積もりに積もって、誰もが抜け出したくても抜け出せないような形で、日本社会が破壊されてしまってる。と言うのが、私の主張の根本で、そこを乗り越えていくためにも、放射能汚染とか被曝被害の問題というのは、非常にいいケースだと、私は思うのです。

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note.mu

「ポスト真実」…日本ではそんな物は、もう、古い。

最近、「ポスト真実」なんていう言葉が一部で流行ってますが、私からすれば「いまさらなんだ」と言う感じしかないんですよね。最低でも日本では、そんな物は15年前から半ばシステムとして作られてて、民主党政権交代した09年あたりには、もう、完全に「商売」として成立していた訳ですから。アメリカのこの間のあれこれは、日本の真似をしてるようにしか私には見えないです。

アメリカの場合の「ポスト真実」と言う言葉には、実は、それを言う人達が信じてきたもの・信じてきた人達の醜悪さや隠したい事実を暴いた人々に対する攻撃も、多く含まれています。(この辺りは、WikiLeaksで、米大統領選のヒラリー・クリントン候補の選挙陣営が、裏で物凄く汚いことや洒落にならないことをやっていたり、ヒラリー・クリントン自身がアメリカ国民に致命的な嘘をついていたのが暴露された、The Podesta emails ( https://wikileaks.org/podesta-emails/ ) 辺りを巡る話が非常に面白いのですが。)
しかし、日本の場合は、そういう構図が殆ど無いんですよね。そこが、最大の問題なのかもしれません。

記事その1。

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1612/28/news105_4.html
はちま起稿を買収したDMM、元管理人・清水氏ら主要メンバーを雇用しステマ関与か 取材に対し隠蔽工作
(中略)

はちま起稿をDMM.comが運営していた場合、何が問題なのか。今後DMM.comが問われるであろう責任や疑念などについて、ここで簡単にまとめておきます。

 冒頭で書いた通り、そもそもはちま起稿というサイト自体、無断転載(著作権侵害)やデマ拡散、偏向報道などの問題行為を過去に起こしてきた、いわゆる「悪質まとめサイト」の1つです。こうした「素行に問題のあるサイト」を、DMM.comという「企業」が運営していた、というコンプライアンスの問題がまず1つ。

 また、はちま起稿がこれまで数々の問題行為を起こしながら、特に大きな罪に問われなかったのは、「個人サイト」であり、「運営元がはっきりしない」という言い逃れの余地があったからとも言えます。しかし今後は、今まで謎に包まれていた「運営元」が明らかになったことで、これまでは見逃されてきた数々の問題の矛先が、全てDMM.comや、売却先のインサイトに向く可能性もあります。

 もう1つ大きなものは「ステルスマーケティングステマ)」問題です。DMM.comがはちま起稿を運営していたとなれば、はちま起稿を隠れみのにして、DMM.comが自社作品のステマ、あるいは他者作品のネガティブキャンペーンを行っていた可能性が出てきます。特にはちま起稿のゲーム記事は日ごろからネガティブなものが多く、ステマネガキャン)を疑いはじめればキリがないほど。その一方で、DMM.comのオンラインゲーム「カオスサーガ」がわずか1日で閉鎖(他ゲームの素材流用が指摘されていた)した時の扱いは、不自然なほど小さかったという指摘もあります。
(後略)


記事その2。

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/korean-news-xyz-2

韓国デマサイトは広告収入が目的 運営者が語った手法「ヘイト記事は拡散する」

「ソウルで日本人女児が強姦された」と拡散された韓国にまつわるデマ。サイト運営者がBuzzFeed Newsの取材に語った目的と手法は。

2017年1月、「韓国、ソウル市日本人女児強姦事件に判決 一転無罪へ」というニュースがあるサイトで公開され、SNS上で急拡散した。BuzzFeed Newsはこれがデマだと突き止め、今回、サイト運営者が直接インタビューに答えた。
(詳細は記事で)

まとめサイト問題は、「政治」が最初だった。

日本での歴史的な経緯を少し書いておきます。2000年代のはじめに、「国立二小事件」と言うのがありました。当時の学校や教師の政治的姿勢を巡って、一部の生徒が教師に詰め寄って土下座させたという、デマです。これは、2ちゃんねるの噂話から、産経新聞が取り上げ、大々的に報道し、右翼団体が学校に押しかけて学校側が全面謝罪するという事件でしたが、この時、2ちゃんねるでは、このデマ報道を加速させるような書き込みがどんどん書き込まれる一方、デマに晒された当事者やデマの標的を擁護する書き込みをする人達が袋叩きに遭うばかりではなく、デマへの反論が優勢になったりすらも、したわけです。

そして、イラク戦争が始まり、そのような傾向が露骨になっていったわけですよ。イラク戦争に反対する人達が意見表明をすれば袋叩き目的だけではなく、意見表明した人達を直接誹謗中傷するためにデマをもとにしたスレッドが多数立ち上げられる一方、その人達を擁護する書き込みが優勢なスレッドや、擁護目的のスレッドが、軒並み停止(スレスト)されたりもした。
そういう事が繰り返されていって、2ちゃんねるがデマを沢山使ってでも、特定の人達…左翼であったり在日外国人であったり…を叩きたい、それどころか私生活まで暴いたり家や職場までストーキングしたい人達が支配的になっていったと言うのが、2012年のお家騒動で西村博之が追い出されるまで、延々と続いて行ってたんですよね。
そして、その2ちゃんねるの書き込みをもとにして、2ちゃんねるで攻撃対象になっていた人達を面白おかしく罵る目的で、スレッドの中身を編集して「まとめる」ブログサイトが、確か2006年位には沢山でき始めていました。
そのような中で、第一次安倍政権が発足し、このような人達が激しさを増していったことは、特筆すべきことだったと思います。時の政権の方針や作ろうとした法律・政策に反対する人達を、とことん軽蔑して罵り・攻撃する「まとめブログ」が、ものすごい勢いで増えていった。

まとめサイトの標的が、政治絡みから企業や個人に。

ここまでは、「政治」が主目的だったのですが、それが、麻生政権から鳩山政権になっていく間に、政治以外にも「まとめ」の範囲が拡がっていった訳です。それまでも、ゲームやアニメの話題で「デマをまとめ」るサイトはありましたが、それは、「政治」に人を引きずり込むための「釣り餌」でしかなかったのですが、そうではなく、そういう話題で人を振り回すのが主目的のサイトができたり、政治目的から離れていくサイトが出てきたのです。特定企業に対して、おもしろおかしくデマを編集して、あたかも事実であるかのように伝えていくサイトというのが、出てきました。

そのような流れの中で、最初に引用した記事のようなサイトが、問題になっていった部分が相当ある訳です。

まとめサイトで注意しないといけないのは、見た目は誰も損をしてないわけですよ。デマの標的にされてる人達を唯一かつ最大の例外として
こういう、デマを撒いてる人達はお金も入るし、色々と精神的にも満たされることも多いでしょう。
デマを撒く事で、経済的だったり政治的だったりの理由で大きな利益を得る人が、いる。
デマに踊らされる人は、気持ちのいい話を見たり聞いたりする訳ですから、そりゃ、気持ちがいいし、考えるという非常に面倒なことも相当部分しないですむから、疲れない。ただし、デマがデマだと気づくまでは。
デマの標的にされた人は、それこそ非常に不幸で、仕事先をクビになったり、商品が売れなくなったりするだけではなく、ネットで荒らさるどころか、知らない人から、怒りのこもった電話が沢山かかってきたり、わけのわからない手紙や荷物がたくさん来たり、果ては家を特定されて張り込まれるようなストーカー被害にあったり、黒い街宣車が押しかけたりする。

日本の「ポスト真実」は、金のなる木になってる

まとめサイトには、沢山お金が出されています。それは、最初は政治がらみの金だったり宗教絡みの金だったりしましたが、それと一緒に、アフェリエイト広告のような形で、ページを見たり、リンクを辿って物を買ってくれた人の数に応じてお金がもらえる広告を沢山貼り付けていますから、そこからの収入も、バカにはならない。

そういう中で、政治絡みのデマもあれば、企業絡みのデマもあり、その上で個人・例えば貧困に苦しんでる姿をテレビに出した人が、実も蓋もないもない罵倒とデマと、下衆の勘繰りを書かれたものがそういうまとめサイトを経由して、あたかも事実であるかのようにばらまかれ続けてる。

そういう時代に、私達は生きてしまってるのだ。と言う覚悟のようなものが必要になってきてると私は思うのです。
面白おかしい話や、わかりやすい話というのも、そりゃ、大事なんだけど、そこだけで終わらせていたら、どんどんデマとかある目的でわざと広められるような、事実をおかしな形にゆがめた話ばかりを信じるようになっていっちゃうんですよね。
かと言って、マスコミがどうかと言えば、当たり障りない話ばかりならまだしも、特定の人達(今の政治の主流であるような人達)に都合悪い話はほとんど報じないで、そこに反する人達や、政治によって痛めつけられてしまうような人たちに対しては、デマも含めてウソを流して恥じないメディアが大半を占めるようになってる。

そうすると、人はどんどんと、世の中に絶望していくし、かと言ってマスコミなどを全部拒絶すれば、「バランスに欠けたおかしな人」と言う、世の評判・レッテルが待っている。

カモにされることばかりの世の中を乗り切る術は?

マスコミに反する話・まとめサイトのような話とは反する話を、ただただ信じていけばいいかと言えば、それはそれで大問題で、それではまとめサイトの類をかるがる信じる、「カモ」にされてる人達となんら変わらないわけでもありますね。
アメリカで「ポスト真実」と言う言葉を喧伝して、批判してる人達の多くは、このような「カモ」にされてる人達と変わらない人達で、そうであるがために、アメリカで、多くの人達から顰蹙を買っていて、「ポスト真実」としてのデマとか思い込みをばらまく人たちの話を信じる人が増えてしまうという極めて皮肉な状況にすらなってしまってる訳です。日本も、この構図はあまり変わりないとも思います。

要は、知識に対する姿勢とか、情報に対する姿勢という物自体が、今の時代、非常にシビアに問われてるという話なんですよね。
一旦疑うだけではなく、疑うにしても自分の考えを確立するために、物凄く広い範囲の情報を集めて、自分の中で重み付けしていかないといけないし、そこで事実とズレたら、なんでずれたのか考えないといけないという事を、日夜繰り返していかないと、自分や支援者・下手するとそれらですらなく自分が所属してるグループ・共同体の利益のために、デマやウソ、事実を大きく歪めた話を、大きな声でばらまく人達に呑み込まれて「いいカモ」にされちゃうんですよね。

カモがカモと自覚してない間は、気持ちがいいものですが、しかし、それで苦しんだり暮らしが壊れていったりするのを背負うのは、自分一人と、せいぜい家族でしかない訳で。カモが欲しい人達からすれば、お金は入るし、権力や権威ももらえるし、世の中振り回すという快感も手に入るし、気に入らない人を蹴落としたり潰したりするのに、自分の手を汚さないで済む訳で。

そういう人達に騙されないようにすることが、この、壊れていってる社会を乗り切り、壊れた先に、自分たちが少しでも暮らしやすい・楽にできる世の中へと建て直すためには、大事なことの一つではないかと、私は思うのです。

 

人を見ない社会運動

最近、内閣支持率が67%、自民党の支持率が38%と言う報道がありました。しかし、物価や(国保や年金の掛け金を含めた)税金は上がる一方だし、社会保障の給付は削る削ると言われてて、教育や学術研究に対しても下げると言い出してる。その反面、海外には「援助」の美名で大金が出され続けてるし、円ドル相場や株価を上げ続ける為のお金は惜しげなく投入されてる。外交に関しても、何かやったかのように見えるけど、実は日本側が一方的に譲歩したり自分から自分の都合の悪い話を申し出ていたりして、しかも、その後日本がいい立場になったという話が、殆ど無い。

しかし、内閣支持率も与党支持率も、高止まりしてる。
確かに私は今の内閣も与党も全く評価してないのですが、その部分を完全に外すとしても、なんとも気持ちの悪い状況なんですね。
このあたりのことについて、少し考えてみます。

事実よりは、真っ赤なウソが流されてしまってる現代。

新聞やネットメディアの半分ちょっとくらいやテレビの多くは、今の政府がやってる事や、与党政治家のやってることに対して、表面的にしか書かなくて、しかも、遠回しかダイレクトにかはメディアによって違うとは言え、今の政府や与党がどれだけすばらしいかと言う事を報じたり、そこに対して文句を言う人々や与党が如何に滑稽かと言うイメージを作ると同時に、今の与党や政府に都合の悪い話や与党政治家の悪事のような話は、本当に当たり障りないようにしか報じず、人々の記憶に残らないようにしてる。
結果として、マスコミやネットメディアの多くから世の中を見てる人たちにとっては、今の政府や与党の「すばらしさ」「格好良さ」と、そこに反対する人たち・その為にひどい目に遭う人達は「みすぼらしい」「滑稽だ」「悪人」などと映ってしまう。そして、今の自分の暮らしが良くないのや将来に希望が全く見えないのは、自分一人の責任だと思ったり、下手をすると、野党の人達が全部悪いんだ。と、全く事実と違う認識を持ってしまってるのではないかと思うのです。

もう少しアプローチを変えてみましょう。
最近と言うかこの数年以上、韓国では日本が第二次世界大戦で行った従軍慰安婦の問題が、政治的な問題として非常に大きくなっています。その中で、従軍慰安婦の問題を世界中に知ってもらうんだ。として、金属製の慰安婦の像を、世界中の韓国人コミュニティを通じて置いていく。と言う事を、韓国政府(朴槿恵政権)もおおっぴらに入る形で、行っていました。
それに対して、元々慰安婦問題などなかったという立場の、日本の極右の人達が猛反発するだけではなく、日本の多くの人達が反発をしました。

慰安婦問題と領土問題を利用して、国民間の対立に火が付けられた

私は、慰安婦問題はきちんと検証して責任を取るべき人達が取ると同時に、慰安婦だった人たちに償うべきだと思いつつも、慰安婦像の動きも非常に危険だし独善的だと、批判してます。慰安婦像に代表される、この五六年の韓国の「竹島(独島)問題」「慰安婦問題」は、日本に於ける「拉致問題」「歴史教科書問題」と同じように、韓国国内の社会や政治が抱えてる深刻な問題から、韓国国民の眼をそらすために、政府と一部の運動がやってるに過ぎないと、私は見ていて思ってるのですね。それに対して、日本の左派運動の「主流」を自称する人達が、全く諌めず・逆に「日本人は反省しろ、韓国の運動は全く正しい」と言ってる訳で、こういう言説や認識を、今の日本の政権に対抗する立場の人達が取ってしまってるというのが、実は、内閣支持率の高止まりを招いてる大きな要因の一つなのではないか。と思うのです。

韓国の、今主流である慰安婦問題運動は、私の目から見たら、韓国人のナショナリズムや自民族優位主義(エスノセントリズムといいます)に訴えかけることによって、自分たちの社会的地位を盛り上げ続ける事が目的と化していて、「自分たち」以外の慰安婦であった当事者の人達の幸福とかは、全く置き去りにしてるように見えるんですよ。(詳しく知りたい方は、「アジア女性基金」と「挺対協」で検索をしてみて下さい)。日本の戦争責任を追究することだけに集中した余り、「日本と戦う自分たち」を盛り上げて社会的権威になる事が先に来ていて、それに対して、朴槿恵政権にせよ李明博政権にせよ、「日本と戦う自分たち」を演出する為に、暗黙の共同戦線を組んでしまっていた。
彼女らの運動は、非常に激しいものであるので、自分たちと意見が違う人達や自分たちを諌める人達は、激しい攻撃の対象になってきました。結局、異論や厳しいことを言う人達が、殆ど運動の中にいなくなってるのではないかと、私は見ています。

そういう中で、慰安婦像という問題が出てきた訳です。慰安婦像を、韓国国内でだけ作ってるのならば、問題はなかったと思います。しかし、彼女ら彼らは、海外の韓国系住民コミュニティを大きく巻き込んで、その土地土地に、慰安婦像を建ててしまったし、地元の議会にも、日本の戦争責任を追究する決議を出すように働きかけたりもした。現地の日本人とそこそこ上手くやっていた人達の考えや利害を押し切る形で、日本人は悪だ・責任を取れという話を、大々的に海外でやりだした。
ここでも、地域社会での和解ではなく、対立を産み出そうとしてる訳ですね。
こういう流れは、慰安婦問題の解決になるかと言えば、全くならないのです。実際、日本が今の政権になってから、慰安婦像や議会決議に対して、日本政府が直接圧力をかけたり、トンデモな中身の歴史書を配布しようとしたりしてしまってる。

(本当の意味での)普通の人たちを無視し見下す、日本の社会運動

 

日本政府が余りにダメだとか、日本政府の動きを後ろで支えてる右派の人達の歴史認識がダメすぎるという話は、置いておきます。
その上で、海外で慰安婦像が大量に置かれようとした時の韓国政府の動きや韓国の慰安婦運動の動きを見ていて、私は猛烈に憤慨したんですよね。この人達は、慰安婦問題の解決・慰安婦だった人達の救済ではなく、世界中のコミュニティで韓国人と日本人が対立することを願ってるんだな。と。余りに、政治利用が過ぎる。と。

私ですら、そう思うわけですから、日本の普通の人達(※ネットとかでわざわざ「自分は普通の人です」と書くような人は、除きます。)が、どう思うかと言えば、大半の人が確実に、「韓国うざい」「韓国と戦ってくれる、今の政権の外交は素晴らしい」となってしまうわけです。
日本の、左派側の運動は、この事を全く分かってないんですよね。あくまで、韓国の過激な慰安婦問題運動が正しくて、彼女ら彼らのやってることが全て正しく、日本側はそれを全て認めないといけない。と言う人達が、今社会で目立ってる左翼の人には、物凄く多い(これは、あとで書ける時に書きましょう)。

そして、それ自体が、日本の左翼とかだけではなく、日本で政府にひどい目に遭わされて困ってることを表明した人達や、政府の酷いことに抵抗し続ける人達への、軽蔑とか色眼鏡のようなものを、より強固なものにしちゃってるんですよね。

事実より、真っ赤なウソに喝采し、受け入れる多くの人々。

例えば、沖縄問題。これは、私が見ている状況だと、米軍の利益云々すらなくて、米軍にまつわる利権で儲けてきた人達の利益維持のために、日本の米軍政策で大きな損害を被る人達を無視する政策とか行政命令が作られて行ってて、沖縄の大半の人達からしたら、そんな利権での利益なんてないも同然だから、今の日本政府には、全県レベルで猛反発してる訳ですし、そこには、昔からの流れで、日本全体の左翼や左翼に近い人達が、加勢してる。
最近、東京MXTVでやっている「ニュース女子」と言う番組で、この反対派に対して「暴力的」「金を貰ってる」と言う、左翼運動の現状を少しでもしってる人がみれば、全く事実に反する・真っ赤なウソが、流されて、それには沖縄の人達や加勢してる人達が猛烈に抗議してるのですが、東京MXは居直り続けてる。
この番組のスポンサー自体が、経営者が今の政権を応援していて・日本会議なんかともつながりの深いDHCだったりするという問題があるんですが、それは置いておいて、東京MXがなんでこんなに頑ななのかと考えてみたんですが、結局は、「日本国民の大半はこのような番組を支持してる」と考えてるからじゃないかと思うのですよ。

日本の戦後と言うか、1980年代おわり位からの風潮として、「上の言うことに従うのは当然」「上の言う事でひどい目に遭うのを抗議したり抵抗したりするのはわがまま」というのが、あります。
そして、それの根拠の一つとしてあるのは、「抵抗する人達や抗議する人達は、上から目線で押し付けがましい」と言う事があるんですよね。これは、「リベラル」な人達だけしか見てない、左派の多くの人達には全く見えてない視線でもありますが、要は、「左翼は自分たちが正しいということを押し付けるだけで、真面目に自分たちと対話しないで、悪だ敵だと攻撃してくる」と言うイメージを、多分、実際に運動に触れたこともある人達の経験も含めて、多くの人が持ってしまってるんですよね。
その流れとして、慰安婦問題や沖縄問題が、乗っかってしまってるんですよ。

人々の心を見ないで正義と快楽に酔い痴れた、報酬。

要は、慰安婦問題で韓国側にばかり立ってるように見られてることが、実は巡り巡って、多くの人達から沖縄がスティグマ・負の烙印を圧されることに繋がっていて、その文脈として、「ニュース女子」に代表される、今の政府に都合のいい真っ赤なウソが、多くの人たちに信じ込まれてしまうという事態になってるんですよ。

どんなに正しいことを言っても、正しいことにだけのっとって動いていても、そことは外れる人達を軽蔑したり、ましてや悪だから罰を与えろと言い出したりし続けていれば、人々から信頼されなくなるし、敵として見られるようになる。(ここらへんには、漫画などの表現規制問題での左翼運動主流派の歴史的経緯も大きく関わってくるのですが、今回は省きます)。

このことに対して、左翼を自称する人達の多くが余りに鈍感すぎた。

鈍感であるだけではなく、押し付けがましいとか上から目線だとか、自分たちのことを見ていないという、至極まっとうな批判に対して、自己責任論まで持ち出して「論破」しようとする運動家が、つい最近まで多くいた上に、そういう人達に限って過剰に目立っていたわけですから、その人たちが支援してる慰安婦問題とか沖縄問題に対して、事実なんか見られる訳もなく、「ニュース女子」のように、あの人たちが如何に不正で犯罪までしてるか。と言う、真っ赤なウソに、ころりと騙されてる訳です。

こういう事が、貧困問題とか障害者大量殺傷事件とか、福祉問題や老人と若者の人口格差問題でも沢山出されてしまっていて、既に、人々は左派とか政権に抗う人たちがどれだけいいことをしていても全く見ようとしなくなり、今の政府のように言葉だけはいいんだけど、口先だけで、後で酷いことして知らんぷりするような、人として余りに酷いような人たちの方を、向いてしまう。

この状況が、2009年に民主党政権交代する前から日本を壊し続け(小泉政権の時にこういう詐欺的な人が沢山出てきたのも、ありますし)、民主党政権が日本を立て直そうとするのに対してマスコミが大きく批判したりなんかして潰れて、自民党に再び政権が戻る。と言う、2000年代の流れの全てで、あった訳です。

ここを、あらゆる立場の人達は乗り越えないとダメだと思うのです。
左翼運動や抗う人々は、自分たちの正当性を他人に押し付けるのをやめ、内輪の論理以外にも目を向けて考え直した上で説得をしていくようにし、そこに乗らない人達や批判する人達を、軽蔑したりそのことだけで社会悪であるかのように攻撃したりするのを、極力抑えていかないとダメだし、それ以外の人達は、今までの歴史を改めて見直した上で、もう少しドライに、自分たちが生きていくために、誰がいいことをしてきたのか・誰が悪いことをしてきたのかを自分自身で考えていき、今まで「上から目線」だった人たちに対してぶつけ、考えをお互いに高めていったり、色んな所で議論を起こしていかないといけないんじゃないかと思うんですよね。

日本に欠けているのは、そういう部分ですから。

権威主義が壊してる社会

※2018年12月28日追記:note.muでも公開しました。

note.mu

今の日本を見てると、「どこの偉い人がこういってる」とか「この偉い学者さん(ジャーナリストなど色々入りますね)がこう言ってるから間違いない」とか、そんなのが物凄く多いですよね?でも、そういう言葉は多く出ていても、自分がどう思うかというのはあんまし出てこないし、出てきても押し付けがましすぎたりして顰蹙買ったりもしてる。そういう辺りが、日本の今の社会の風通しの悪さとか、このまま行ったらとことん破滅するしかない物事を止めることができない状態に繋がってるのではないかと思うんですよ。

この事が露骨に出たのが、2011年3月11日の東日本大震災をきっかけとする、福島第一原発での史上最悪のメルトダウン事故とその後の評価だったと思うんです。あの時、長年原発問題を、原発反対の立場から見てきた人達の多くは、「メルトダウンの可能性が大きい」「放射能汚染が深刻だからとにかく福島県(の浜通り中通りの一部)から人を避難させるべきだ」と、かなり早い段階で主張し始めていましたし、それは、実はチェルノブィリ原発事故やスリーマイル島原発事故がどのようにして被害を拡大させ、周辺地域に未だにどのような影響を及ぼしてるか。と言う歴史的な考察に基づいた「人間重視」の考えから来ていたと思うのですが、しかし、事故直後に日本で起こったことは全く逆の言論が支配的になるということでした。

放射能問題が浮き彫りにした、日本人の権威主義

「原子物理学の権威」を自称する学者たちや、「科学に詳しい」とされてる「ジャーナリスト」などが、揃って「メルトダウンはありえない」とTwitterなどで喧伝し、「逃げる必要はない」「政府が”ただちに”影響はないと言ってるんだから、軽々に避難するな」と言い出し、その上で、「人間重視」から積極的に避難を進めよという事を言う人達を、「デマ吐き野郎」などと半ば口汚く攻撃することが頻繁に起こるようになりました。そして、そのような「人間重視」の人たちに対して「デマゴギー」「放射脳」などのレッテルを貼り出す人がたくさん現れ、避難をきちんとしよう・国が十分に手が廻らず、福島県が御用学者を担いで「ニコニコしてれば放射能は来ない」なんてムチャクチャ言わせてまで地元に人々を縛り付けようとする以上は、民間でなんとか避難を支援しよう。と言う機運自体が、どんどんとしぼんでいった訳です。

この事は、放射能に対する身体的な影響を訴える人達を「仮病」「精神病」と罵る風潮であったり、地元で深刻な放射能汚染があっても、(形だけ)除染しているんだからマスクをするな。防護するな。福島や宮城や茨城の食べ物は安全だから疑うな。絆だ。と言う同調圧力のようなものを、原子力被災地だけではなく、日本全体・最低でも東日本全体に押し付けて、国や地方自治体の不備を批判する人たちに対してクレーマーなどと言う、おかしな状況に直結してしまってるんですよね。

ここでも、「人間重視」の人たちは、専ら排除されていて、これは、この国の崩壊の最たるものと言えるのではないかと思うのです。

その中では、反原発を支持する人達の中でも、放射能の害に対して、国が決めたような非常にご都合主義で実害を軽視してる基準とか被害の見積もりを支持するような人達まで増え始めてしまいました。これも、「権威の人がこのくらいは安全だと言ってるから」と言う、思考停止なんですよね。過去の知見に根ざし、日本の基準が出来たプロセスの乱暴さや、日本の基準や日本での被害の取り上げられ方の不自然さという問題に対しては、眼をつむって見ないで、「権威の人が言うから」と、原発事故から一二年と言う非常に早い段階で、結論を出してしまってる。

「科学的見方」が、「権威の言うとおりが正しい」とすり替わってる社会

この国では、「個人個人が科学的見方を獲得する」と言うのが、「科学の権威の言う事の受け売りをする」と言うことにすり替わってます。そして、これは科学的な話に限らず、あらゆる社会的な話に波及してる。例えば、「企業はリストラするのが正しい」と、財界の偉い人達の代弁者たる「エコノミスト」がTV等で話すと、そのことに対する負の影響・要は労働者が雇われなくなって貧困化が進むとか、労働者がきつい働き方をさせられて壊れることにつながるとか、そういう議論はほとんどされないできた訳です。たまにそういう議論がされても、声の大きな人達が「労働者がワガママを言ってる」「アカの言うことなんかでたらめだ」と言い出し、それをオウム返しのように繰り返す人達が社会全般に溢れ出して、実際、最初に行った人たちの言う事が正しいのか、それとも間違ってるのか。と言う話には絶対にならない。

財務省の高級官僚が「財政赤字だから社会保障が危機です」「社会保障は優先的に削りましょう」「高等教育も基礎研究も金食い虫なだけだから削ります」「文系の研究なんかいりません」「でも、自分たちの利益になるような法人税減税や投資減税、海外”支援”は、削減分より多く増やします」という考えをしていて、与党の政治家や一部ジャーナリストがそれを拡散させていってるのも、そういう構図です。多くの人は、そんなことしたら拙いんじゃないか。自分の暮らしが潰されるのではないか。と危機感を持ってるんだけど、「偉い人たちが言ってる方が間違いないんだ」とも思ってる。要は、多くの問題で、「権威」の言うことに対して、危機感を感じてる自分がおかしいんだ。間違ってるんだ。と思わされてきた事が積み重なった結果として、この国は物凄く複雑な形で、破壊されて、崩壊してる訳です。

自分で調べて議論しないと、権威に喰い物にされるだけでは?

今は、ネットを通じて、いろいろな情報にアクセスすることが容易にできる時代です。だから、何も「権威」の言う事をストレートに受け売りしたりすることなく、そこをきっかけにして、その「権威」が言ってることが本当に正しいのか?間違いがあるのではないか?自分が持ってる(感覚的な)危機感が間違ってるのか?と言う事を、日本だけではなく海外の情報含めて調べていけばかなり簡単に見つけ出すことができるんですよね。で、自分で考えて、いろいろな人と話したり情報交換したりしていく事で、「権威」の言うことに対して、自分が距離を置いていくことも、本来は容易に出来る時代なんですよ。
でも、それを多くの人がやり始められてるとは、到底言い難い。
なぜかと考えたのですが、それは、やはり、学校教育の影響が大きいのだと思います。受験制度が暗記重視であったり、集団の中で偉い人たちが作った「空気」を、間違っていても何も考えずに受け入れて行動するのが一番正しいとされるのを、身体感覚で刷り込まれてる。だから、日本人は「権威」に弱いのではないかと。

でも、その結果として、311以降の社会の極端な崩壊という事態に陥ってるのを、誰も直すことが出来ずにズルズル「今までと変わりないと思いたい」偉い人たちに振り回され続けてるんですよ。
私たちは、「権威」を受け売りするのを乗り越えて、自分で調べ・考え・議論していく中から出てきたものを、社会的な流れにつなげていくような努力を、強くやっていく必要があります。この社会が崩壊しきった後の、建て直しには、それが最も大事になる。


新年だけど、めでたさが感じられず…

新年になりました。
世の中の状況が状況なので、「あけましておめでとうございます」とはいいにくい状況ですね。その上で、書こうと思ってることがいくつもあってなかなか順番を付けられてないのですが、少しづつ書いていきます

権威主義が民主主義と社会自体を破壊する。

日本では、権威主義が過剰に蔓延してきました。ある問題に対して権威を持ってる人が言う事を、その人の専門外の話であってもそのまま受け売りすることで、それに対する反論や異論に目を向けないでしまうという事が、当たり前に「正しい」とされてきました。
しかし、そのことが、日本の今置かれてる破局的な状況を招いた大きな要因なのではないかと、私は思うのです。

例えば、1990年代初頭、日本の給料が高いから・終身雇用で労働者が護られてるから、競争原理が働かずに日本は世界の競争に負ける。と言う、良くよく考えると何重にもおかしな・論理的に破綻してる話が、マスコミを中心にもてはやされました。労働者をクビにして行くことが、株を買ってくれる投資家からいい評価を貰う方法で、クビにした後の新規採用も、絞っていくべきだし、労働者が声を上げたり行動したりするのは、単なるワガママだから、非常に格好悪いし規制されるべきだと。
こういう話をマスコミは勿論、マスコミで持て囃されてる「評論家」が繰り返し行いました。そして、それに対する反論があれば、「社会主義的だ」「労働者はわがままにやってきてるのに味方するのか」と、公共の放送の場で…例えば、朝まで生テレビ!で…激しい口調で罵倒されることすら、珍しくなかった。

結果、「就職氷河期」と呼ばれている、新卒採用が極端に少なくなった15年ほどの期間が起こってしまい、多くの労働者・働く人は給料が高いとは言えず、いつ首を切られるかもわからず、社員食堂で高い金を払わされたりするような差別をされてしまう、派遣社員になるよりなくなりました。
そして、そういう中で正社員もその他も長時間労働をすることがいいことだと思わされるようになり、際限ない長時間労働や心労で心身を壊して働けなくなる人が沢山出ましたし、みんな心に余裕がないものだから、お互いに排除し合うことで社会が成り立つ部分が大きくなり、給料が下がるのに物価が上がる(最低でも下がらない)事もあって、晩婚化や非婚化、孤独死が当たり前の光景となり、極端な少子化が誰も止められない所まで来てしまってる。(ここの部分で、今の日本で主流であるところの「フェミニズム」「女性運動」の果たした、犯罪的な役割があるのですが、そこら辺を書き出すと話がぐちゃぐちゃになるので、別の機会に。)

個人が背負えないものをたくさん背負わされてる現状。

今は、いろいろなことが個人に背負わされすぎて・個人が自分が楽になるようにはやってはいけないと縛られすぎた結果、耐えきれなくなって錯乱したり、見ず知らずの人に暴力を振るうことも頻繁に起こり始めてますが、これも、同根なんですよね。
個人が、徹底的に個人として尊重されず、大きな括りの「人種」「性別」「職種」「会社」などの属性でしか、全く見られなくなったということと、個人に対して過剰過ぎるまでに「わがままを言うな」「泣き言を言うな」と迫られたり、「隣りにいる奴・別の属性の奴は全て敵だと思え」と言いたげな社会風潮や受験制度があまりに長く続いたりした結果、だれもが他人を信用できなくなり、誰もが自分が困っても自分一人で背負い込んで行くのが「政治的に正しい」のだと、思い込んでしまってる。

その大きな転機は、確かに1990年代もあるんですが、その前に実際の転機があって、1980年代初頭、中曽根康弘が総理大臣となり、新自由主義に基づく改革として、教育制度や内容を根本から変えると同時に、労働運動・労働組合を、世論操作してまで(国鉄民営化に関しては近年、当時の運輸省や内閣が、新聞やラジオ等への偽名での投稿などの世論対策を積極的に行なうために資金を投入していたのが明らかにされましたが)孤立させ、労働運動に頼らずにやるのが「政治的に正しい個人」なのだ。と刷り込んで行ったわけです。「金持ち・富豪・大企業は政治的に正しい・政治的に素晴らしいのだ」と言うメディア戦略を伴って。(「メザシの土光」とか…)
後、「恋愛資本主義」と呼ばれてるような、個人同士が競って上に立つことを良しとするような恋愛観の普及というものも、無視は出来ないでしょう。恋愛資本主義である以上、おびただしい数の「敗者」が出ますが、それは、社会では基本的に蔑ろにされ・別の属性を構成する歯車としての最適化を要求されてる個人が、恋愛でなんとか個人の尊厳を取り戻そうとする時に、恋愛資本主義で「資本」を持たない・例えばブサメンとか陰キャとか呼ばれてる人たちは、「恋愛市場」に参加しても「負ける」し、そもそもいろいろな社会的風潮…これは、手を変え品を変え未だに新しく出来ては消えてますが…が、「資本を持たない奴は参加するな」みたいなことを、テレビとかの番組や雑誌含めて猛烈に繰り返してきた訳です。

新自由主義改革と恋愛資本主義の結果起こってる荒廃

個人として尊重された経験があまりなく、他人の良し悪しを属性でフィルタリングするのが当たり前のようになってて、その中での相互の対立が激化してる。しかも、個人に背負わされた苦労や苦難をその属性が分担して背負うでもなく、専ら個人が「2つの苦労」を背負い続けてる。と言うのが、2000年代末期から2010年代半ばの社会風潮で、それは未だに続いてるのですが、しかし、そのことが何を巻き起こしたかと言えば、街角での無意味とも言える暴力事件の頻発や、個人が過剰に自信を喪って何も出来ないようなところに追い込まれて抜け出せなくなってる事なんですよね。
結局、少子化とかそういう問題の根底にあるのは、個人が徹底的に蔑ろにされ・これは後で書ければば書きますが個人がとことんエゴのために他人を利用するのが「政治的に正しい」と言う社会風潮が長く続いてきたことと、「上からの改革」ばかりを待望する風潮・「上からの改革」は中身がどんなにひどくても素晴らしいものなんだ。と言うメッセージが民主党政権に交替する前までと自民党に再び政権が移ったあとは(ここがキーポイントになります)繰り返しマスコミ等で流されていて、人々が半ば洗脳されたままだという事に繋がってくるように思うんですよ。

社会福祉制度の欠陥や人為的な不備の問題も、勿論あります。今の政権になってからは、社会福祉制度全般がものすごく薄っぺらくなったし、最優先で犠牲にされるようにもなってるので、この問題は非常に深刻ですが、これについても後で書ける時に書きましょう。

「上からの改革」が、現状期待できないですし、仮にいま野党(かつ自民党太鼓持ちをやってない政党)に政権が移ったとしたら、どうなるかといえば、今までのような状況で得をしてきた高級官僚・特に財務省の高級官僚たちがいろいろなところに手を回して状況の改善をしようとする政権を潰しにかかるでしょう。マスコミに「非現実的だ」などと言わせ、付き合いを持ってた議員たちに政権の足を引っ張らせ、総理大臣の首をすげ替えようとする。民主党政権時代に二度もそういうことがありましたよね。鳩山政権も菅政権も、結局はマスコミが高級官僚側に付き、党内で権力闘争をしたい人たちがマスコミや官僚の尻馬に乗り、官僚の一部が徹底したサボタージュとウソ情報を内閣に出し続けたことで、退陣に追い込まれたのですから(Cable Gateで調べると色々悪事が出てきます)。

そうならずに世の中を(大半の人にとっていい方向に)変えるのに何が必要かと言えば、「下からの改革要求」がものすごい分量と熱量を伴わないと、改革は出来ないし、改革できたとしてもそれはごくごく一部の金持ちや資産家が国の財産や私らの財布を私物化するものにしかならない。と言うのは、散々経験してきてるわけでして。

「下からの上に対する改革」こそが今の日本に欠けてる

個人が徹底的に責任を負わされて、重圧に耐えきれないのに耐えてる結果、他人に対して徹底的に攻撃的になったり、意見の違いで排除するのを最優先にしていたら、それこそ、「何も変えたくない偉い人達」の思う壺だということです。
今の、生き地獄とも言えなくもない現状を変えるには、今まで何十年間にも渡って刷り込まれてきたことや背負わされてきたことが、本当に正しいことだったのか。と一旦疑って考えた上で、それでも社会や政治の現状はすぐには動かないし黙ってても動かないんだから、まずは意見表明や(ストライキのような)具体的行動を一人からでも始め、似た方向の人たちが自然に・緩やかに繋がって行くことで、「川」そ作り、その川が更に合流することで、何本かの大河となり、政治や行政や企業が、動くより内容にしていくと同時に、政治にも行政にも企業にも、数は少ないけれど善意を持って、状況が悪くなろうとするのを体を張って止めようという人たちがいるのですから、そのような人たちと繋がれる時に繋がって、彼らの「後ろ盾」となって彼らが負けないようにすると同時に、彼らの考えや行動をこちら側から、積極的にアップデートさせていくのがものすごく大事なんですよね。

これは、日本では、戦後70年間、その時々では多少は起こってきたし、東京都青少年健全育成条例改悪反対運動が2009〜2010年に実際に行い、児童ポルノ・買春禁止法の(フィクション作品や絵画などを規制対象に含めようなどの)改悪反対運動でも、長年緩やかな枠組み・状況として出来てきてるのではあるのですが、別の問題だとなかなかそうはならずに、その場限りの問題提起や運動が仕掛け花火のように激しく火を吹き出しては消えていき、その後殆どの人たちから忘れられて行く。ということの繰り返しになっていったんですよね。ここを、全ての社会問題・全ての政治問題で、不利益を受けたり強い疑問や反感を持って反対したりしてる人達は、乗り越えていかないと駄目なんですよね。

一本の、激しくも強い川だけで某かを変えようというのは、最低でも今の日本の政治システムや社会システムでは無理になってきてる。何本もの緩やかな流れと激しい流れが交じり合い、交じらない何本かの流れとなっていき、交じらない同士が潰し合うのは相手に害をなしたときくらいにしておこう。と言うモデルで、「太く長く」物事を改善したり悪くさせないように、それなりに権力を持ってる人たちに圧力と対話と力の後ろ盾をこちら側から出せるように構築していくことでしか、この国は根本から変わらないかのような、複雑怪奇な末期的症状に陥ってるのですから。

さて、横道にそれすぎました。「権威主義」の弊害に関しては、稿を変えます。

空気のとりこ

さて、年の瀬も年の瀬になりました。
最近読売新聞が調べた世論調査では、安倍内閣の支持率が、とうとう63%となったそうです。このことに対して、特に左側の人達はどう理解していいものか困惑してるのを隠さない感じがあるのですが、簡単な話で、世間の空気というものに対して、今の時代は人々が過剰に配慮する・空気としてはこうだろうから、そこから外れないようにしようと必死になっている風潮が強くて、その中で、安倍内閣はろくなことはしてないんだけど、代わりになる人達もいないし、空気が「内閣支持」を望んでるから、支持をしておこう。と言う程度の話なのではないかと思うのです。
このことは、構図としては単純なんだけど、このまま行ってしまっては、世の中が破壊されていくのを止められもしないという、非常に深刻な問題になってきてる訳ですよ。

「空気が言う」から、政権を支持する。

なぜ、「代わりがいないから安倍内閣支持」と言う空気ができてるかを、少し考えてみます。
マスコミの大半は、安倍内閣の政策を批判しないか、多少は批判しても根本的な部分は報道しない。世間一般に生きて暮らしてる人たちに対して大きな負担や不都合を強いるような政策や法律が無理やり通されても、その中身を真面目に深く報じることもなければ、与党がいい加減な答弁やえげつないヤジばかりをし続けて、非常に短い時間で審議を打ち切ったり形だけ整えた上で、中身に対する審議や修正はアリバイ程度に抑えて、数の力で採決を押し切ってることはほとんど報じないし、野党側が抗議を示すのにプラカードを出してるのはなぜかという話はせずに、半ばけなすようにその映像だけを報じてる傾向がものすごく強い。
一方、外交では大失敗と言うか余りに滑りすぎてたり自国の思い込みやエゴばかりゴリ押ししようとするので、諸外国から呆れられてる領域にすらなってるのですが、そのこともほとんど報じない。例えば、12月にあったロシアのプーチン大統領との会談で、功を焦ってか北方四島での共同開発事業はロシアの法律のみの支配下に置かれる・要は、事実上北方四島の領有権主張を放棄する。と言う重大な失敗を、安倍総理プーチンとの二人だけでの会談でしてしまってるのですが、そういう話は全く報じられないで、私達は海外メディアからそうだと言う話を知る状況な訳です。

もう少し書いておくと、2012年に安倍政権に再びなって以降の、生活保護や福祉を受けてる人達への、ネット言論を含めたバッシングや事実のねじ曲げに対しては、批判のまな板に載せられた人達や支援してる人達から「そんなにお金を貰うことはありえない」などの批判が出てはいるのですが、マスコミがそれを取り上げて検証することもない訳です。マスコミの能力から考えて、多少調べれば自分たちの報道の内容が事実に反することがわかりそうなものですが。そのような、事実を政権の政策に沿う形にねじ曲げた上で、政策を実行させて、わたしたちのくらしが苦しくなったことは、実はものすごくたくさんあるのですが、しかし、マスコミはほとんど全てと言っていいくらい、そのことは無視し続けてる。

要は、日本のマスコミの報道を見てる限りに於いては、「安倍内閣に失策なし」「野党はあまりに滑稽な道化だ」と言う、変に事実と反する情報しか目に入らなくなってしまってる訳です。

食事やお金を出す政権は、マスコミがほめる

安倍総理や閣僚は、非常に頻繁に、マスコミ各社の要人や政治部記者との「会食」を行ってきています。この「会食」は、基本的に安倍総理側が食事代を持つものでして、そのことから、今の政権はマスコミを買収してるという批判の声が少なからずある訳ですが、あまり大きくはなってない。表には出てないでしょうが、「お車代」名目での多額のお金が、毎回要人たちには渡されてるでしょう。この費用は、基本的には官房機密費が使われてるとも言われています。
民主党政権下でも総理大臣などとマスコミ要人や政治部記者の会食はありましたが、頻度が小さかったのと、費用はワリカンでした。それ故に、マスコミの要人や政治部の記者からは「ドケチ」と嫌われていたようです。民主党側がケチだったのではなく、「マスコミと一定の距離を置いて、批判をきちんとしてもらう」という、善意から敢えて行われてきたことで、実は、欧米諸国の政権とマスコミの関係としては、法律として規定されてすらいる重要な内容でもあるのですが。

この状況というのは、民主党に一旦政権が移るずっと前から布石としてはあった訳です。小沢一郎が実際には違法行為がされてなかったにも拘らず、違法行為をたくさんした・真っ黒だとマスコミが報じた陸山会事件。この時に、あることないこと検察(東京地検特捜部)がデマを含めた情報をマスコミに流して小沢一郎民主党政権の内閣に入れさせなかったわけですが、この時マスコミで色々と言って回っていた要人たちはみんな、昔の総理・金丸信が作ったとも言われる、政治記者を集めた勉強会の出身者であるという話が取りざたされてました(詳しくは調べてみて下さい)。
そして、そのことは抜きにしても、2001年から2005年の小泉政権では、「小泉劇場」がマスコミで持て囃され、その中では今でも私達の生活や人生を苦しめ続けているような法律や政策が、たくさん通されていた訳ですが、しかし、その中では、このような法律や政策を通しては将来に問題が出る。と言う真っ当な批判や、政権自体や政権の周辺にまつわる犯罪行為を指摘する人達が、おもしろおかしく批判され、それでもくじけない人たちに至っては、冤罪で逮捕されたり極めておかしな形での「自殺」をするまでに至ってる訳です。(りそな銀行の国有化問題や、プチエンジェル事件で調べてみて下さい)

節度をわきまえる政権は、徹底的に批判される

一方、民主党政権では、細かい所まで批判が行き届いていました。政権内部での大臣や政治家同士がお互いの政策や方針を批判したり議論することも、あけっぴろげに報道されてきました。これが、「民主党情けない」と言う「空気」の根底にあることは、確実だと私は思うのです。

要は、最低でも小泉政権以降の自民党政権では、政権の本質的な批判というものは、徹底的にけなされたりバカにされたりしてきていて、批判自体の中身というものが問われることが非常に少なくなった訳です。
それが巡り巡って、時の政権の批判が全くされてないに等しくなってるという、今の状況になってると言えるでしょう。

このことからわかるのは、

・時の政権を円滑に進めるには、マスコミ等に批判をさせないようにしないといけない。
・マスコミに批判をさせずに、野党の印象をわるくするためには、積極的にマスコミを買収しないといけない。

という、非常に身も蓋もなく情けない現状なんですよね。
しかし、それが本当に社会の維持のためにいいか?と言えば、却って社会を壊してる訳ですよね。私達の生活は苦しくなる一方だし、街を歩いたり近所付き合いをしても息苦しさが増す一方だし、ネットでは多少のイデオロギーや感性の違いで他人を罰しようという人達が余りに多くのさばるようになっていて、ネットですら真面目な議論もやりにくく、キツくなってる。
でも、そのことは、事件にでもならない限り報道されないし、事件になったとしても、なんで事件が起きたのか。と言う事がきちんと報じられることも少なくなってる。
しかも、そういう状態で、上の方では道徳とか自分たちの「正しさ」だけで法律や政策を決められて、反対したり修正を求めたりする人達が無視されている状態が、年々ひどくなってる訳ですから、悪い方向にしか世の中が進んでない訳です。

日本は、なぜアメリカと戦争したか。マスコミの責任は何か。

こういう状況は、2000年代になってからだけではないです。実は、1920年代から1945年の敗戦までの、日本もそうでした。詳しく知りたい方はこの時代の新聞とか雑誌の写しを図書館などで見てほしいのですが、当時の日本軍の軍部は、積極的にマスコミ関係者を宴会などに誘い、豪華な食事と酒と芸者でもてなしました。結果、当時のマスコミは、総理大臣は弱腰だ、中国大陸にどんどん侵攻しろ、軍は頑張れ。と戦争を煽り続けてた訳です。そして、軍の青年将校によるテロ事件が繰り返されたこともあり、戦争を拡大する事を批判してはいけない。と言う空気が、世間を覆い尽くしました。
この事があって、第二次世界大戦でのアメリカに対する開戦についても、軍の委託を受けた研究者たちは国力から見ても無理だ。絶対に負ける。と言う研究結果を出したにも拘らず、軍部はそれを握りつぶし・マスコミを通じて早期講和で勝利できるという報道を繰り返し、対米開戦を望む世論を作り、多少の愚痴すらも警察や憲兵に取り締まらせ・そもそも住民の間で自発的に密告し合う状態を作っていった訳です。

結果、戦争には大敗し、1945年8月に核爆弾を落とされ・ソ連の参戦もあり、最近の研究では9月まで戦争を続けたら日本で社会主義革命が起こるという分析を国がするに至って、やっと敗戦を受け入れるという、社会をとことん破滅させる所までずるずる戦争を続ける羽目になった訳です。

わかりやすさに騙されないために自分の手と足と眼で調べるしかない

では、どうすれば、社会を破滅から救えるか・または、社会が破滅した後に速やかに立てなおせるか。
結局は、マスコミが色々おもしろおかしく時の政権を持ち上げたり・批判したり、野党を持ち上げたり批判したりしたとしても、自分の眼で見直していく必要があると思うのです。「心地のいい嘘」「アヘンのような甘い言葉」「おもしろおかしく比較的立場の弱い人・立場の強くない人をけなす報道」。そういう物を、どうにかはねのける必要もあるでしょう(これについては、あとで書きます)。
一見、わかりやすくまとめられてる話やわかりやすく報道されてる話を、そのまま受け入れるのではなく、わかりやすさ自体に秘められてる胡散臭さを嗅ぎ取り、自分の手を使っていろいろ調べ、確かめていく癖をつける必要もあるでしょう。場合によっては、英語の報道を積極的に見ていく必要も出てきます。今は機械翻訳が使い物になる段階に来てるので、自動翻訳でなんとか出来る部分も大きいと思います。

その上で、「言ってはいけない空気」「嘘を付いてでも言わないといけない空気」を、まずは個人と個人の付き合いの中での話や言葉から、きちんと打ち破るように努力を始めないといけないと思うんです。空気に支配されていては、自分にうそをつくし、世の中が壊されていくのに対して眼をふさいでしまう事に、ストレートに繋がってしまいますからね。

千里の道も一歩からということで。

今年、このブログを始めることに、半ば成り行きでなってしまった訳でして、その上で、わかりやすい言葉といいつつ難しい言葉も結構使ってしまってるし、何より暑苦しくて、しかも読む人たちに辛いことを突きつけたり働きかけたりする中身が続いていますが、来年も、どうかよろしくお願いします。

皆様、どうか、よいお年を。

「ホンネの議論」と言いつつ、ホンネが語られない社会。

少し、間が空いてしまいました。

今日(12/25)、朝日新聞のWEBサイトにこういう記事がありました。

http://www.asahi.com/articles/ASJDS6WFQJDJUCLV02G.html?ref=nmail

SMAP、寂しい幕引き 解散理由語られないまま

 年内いっぱいで解散するアイドルグループ「SMAP」。大みそかのNHK紅白歌合戦への出演も見送られ、8月の発表以来、メンバーの口から解散の理由が語られないままの幕引きとなりそうだ。一方で、従来のアイドル像を変える彼らの楽曲や活動に、心励まされてきた人々がいる。
(以下、リンク先の記事で)

 

この記事では、SMAPの解散の理由というものについて「本人の口から語られない」として深く言及することを避け、SMAPの芸能活動に勇気づけられた人達のエピソードを紹介して「プチ美談」を記事にまとめている訳ですが、実際の解散の真相なんてのは、既に一部メディアが報じてる顛末と、テレビを通じて出されてきた事態を見れば、明白な訳ですよね。
まず、SMAPを育て支えてきた飯島マネージャが、ジャニーズ事務所の実際のボスであるメリー喜多川の娘を出世させるのに邪魔になったから首を切られそうになり、飯島氏が独立を模索するのにSMAPの内の、木村拓哉以外の四名がついていこうとしたものだから、メリー喜多川が飯島氏を解雇し、芸能マスコミを通じて、あることないこと飯島氏を批判する記事を搔かせたり、テレビの情報番組で批判的な論調を流させた上で、独立を支援しようとした動きを潰し、テレビの生番組にSMAPのメンバーをさらし首のように出して「私達が間違ってました」と言わんばかりの「釈明」をさせるという「公開処刑」があり、そのことにマスコミの大半が批判をできずにいる間に、ジャニーズ事務所側が手を変え品を変え四名の慰留を試みたけれども、結局、「公開処刑」までしてしまったことで却って「処刑」された側のハラが固まったのか、契約切れまでは事務所に残留するが、SMAPの活動自体はやらない。と言う形に至ってる訳ですよ。
芸能マスコミの多くが既に、木村拓哉とそれ以外の四名との間に長年あった軋轢と、この間の状況で出来た溝が埋まらないどころかどんどんひどくなってるという話を報じてるわけで、そこをきちんと触れて、ジャニーズ事務所と言うよりメリー喜多川がやったことが、明白なパワーハラスメントであるという論調を取ることすら出来ないマスコミというのには、社会的な使命感がないのだろうかとすら思うわけです。

みんな、奥歯に物を挟んでるのに、決まりごとは歪んだ守り方をしてる


もう少し話を拡張していくと、最近年末の風物詩になりつつある「ブラック企業大賞」、今年のノミネートには、ジャニーズ事務所も入ってなければ、11月に給与明細が暴露され、偽装請負と超低賃金による搾取構造が改めて社会的な問題になったアニメ企業(暴露されたのはP.A.ワークス)についても何らノミネートがされなかった訳です。
これも、朝日新聞ジャニーズ事務所パワーハラスメントを言及できなかったのと似た状況ではないかと危惧するのです。

この国では、「コンプライアンス遵守」「法令遵守」と言う掛け声が盛んにあり、ちょっとした逸脱行為を個人が行なうと、ネットの多くの人達が袋叩きにして、個人が謝罪するだけではなく退職に追い込まれてしまうような事が頻繁にある一方、企業が労基法を守らなかったり露骨なパワハラをしても、それを批判したり炎上させる人はたしかに少なからずいるんだけど、それが「罰」として機能することは非常に少ないし、労働者や当事者が精神を病んで自殺でもして、遺族が記者会見をして会社を非難するような「おおごと」にでもならない限り、企業が態度を改めることも、社会的風潮に歯止めがかけられようとすることも、最低でも可視化されることが殆ど無いわけです。

そういう不公正さやそこになかなか切り込んだ話を、この社会の主流の人達が手控えすぎていると言うことが一つあって、その上で更に考えないといけないのは、そういう状況に対する人々の不満というのは確かにたくさんあるのだけど、それをマスコミやネット言論が汲み上げようとする場合に、非常におかしな方向に向けられてしまうことが非常に多いことも、もう一つ大きな問題として考えないといけないのではないかと思うのです。

「ホンネ」といいつつ、「敵」への憎悪を煽って利益を得ようとする人たち


首都圏以外で長年放送されてきた番組として、「たかじんのそこまで言って委員会」と言うのがあります。今はやしきたかじんが死んだので(敬称したくない)、番組の名前が変わっていますが。そして、最近では東京圏での似た論調の番組として「ニュース女子」と言う番組が、東京MXで放送されてるようです。
これらの番組の特徴というのは、「ホンネの番組」を目指すと謳った上で、今主流の政治体制と言うか、宗教がかった極右路線や新自由主義路線を賞賛しつつ、その部分に異を唱える人や実害を被って嘆いてる人たちに対して、悪いレッテルを一方的に貼ったり、本当かどうか怪しかったり嘘だと証明されてる話を繰り返し持ち出した上で、そういう人たちのことを悪いイメージを伴う言葉で馬鹿にしたりするところなんですよね。

要は、前に書いた「水戸黄門願望」に乗っかる形で、人々の不満に対する「わかりやすい」解答を示すふりをして、自分たちの一方的な話を人々に吹き込んだり、自分たちやスポンサーに都合の悪い動きを社会的に見て孤立に追い込んできたわけです。こういう「積み重ね」の延長に、今の政権の傍若無人さであったり、社会の崩壊があると、私は思うのですが。

「右ばっかし批判してたらいけないだろう」と言うツッコミがあるだろうからもう少し書いておくと、そういう悪意的な歪め方を使って、自分たちに都合の悪い人たちを攻撃したり、社会的に孤立に追い込んで行くというやり方自体は、左翼を自称する人達の中でも結構あって、最近の状況であれば、例えば「レイシストしばき隊」や「反差別男組」の系列の人達が、自分たちのやってることに対する批判を行なう人達を、右だろうが左だろうが関係なしに「差別者」「レイシスト」と罵倒したり、いろいろな所と連携して社会的排除を狙おうとしたり、フェミニズム運動を自称する人達が、自分たちがやってることが純潔教育と何ら変わりない部分が相当あって、その事で基本的人権を奪われそうになってる人達が、抵抗の意思を示し始めたら、「レイプ魔」「セクシスト」などの的はずれな罵倒を行ったり、その人達の切実な声を取り入れたりして、道徳観を強制する法律や条例に対して待ったをかけようとした議員たちに対して「エロ議員に投票するな」と根回しして廻り、心を折ろうとしたことがある訳ですね。

憎悪を煽ることで利益を得た上で、社会が破滅していく。


そういう流れで、相手に対してレッテルを貼り付けて、事実と関係なしに言いたい放題言ったりして人々からの憎悪を向けていこうということ自体は、自分たちが主導権を握ろう・難しい言葉を使えばヘゲモニーを掌握しようと言う時には、歴史的によく使われてきたことですが、その事が、実は独裁的な政治であったり、政治や社会運営を自分たちだけでやりたいような人達ばかりが賞賛されたり勝ち誇ったりするような不公正な社会のありようというものを形作ってきたんですよね。

その結果として、アメリカの場合には、社会が戦争依存症から抜けられないままに、多国籍資本がのさばって生きるか死ぬかのラインに一億人前後の人達が追いやられていますし、日本の場合には、そのことによって利益を受けるような企業や資産家だけが大儲けして、そのお膳立てをするような政治家だけが増えてしまい、社会では多くの人を不幸にするだけの道徳や倫理観だけが法律や空気で強制される一方、喰うに困ったり文化的に生きる権利やその他の多くの基本的人権を奪われたりして困ってる人たちに対しては、声を上げることすら暴力的な攻撃に晒されてままならずに、自分一人が我慢して朽ち果てることを迫られ・それらは個人間の相互不信や異性間の相互不信を前提とした社会づくりへとつながり、殆どの人が生きづらくも自分と同じか下の立場の他人を叩いて溜飲を下げるだけの社会になって行った訳ですね。

私達が決別しないといけないこと


だからこそ、今回挙げた2つの「態度」問題…波風立てないために本質に切り込まない事を美徳とする態度と、「敵」に対しては幾らでも罵詈雑言や嘘を並べ・悪魔的な振る舞いすらして叱るべきとする態度…を、私達は意識的に克服していかないといけないと思うのです。さもなくば、誰がトップになったところで、社会の破綻は深まり解決から遠のく一方、人々の生きづらさや苦しみというものは雪だるまのように増えていくでしょう。
人間は聖者ではないので、時折そういう方向に向かうこともあるし、それが悪いこととは限らないと考えているのですが、しかし、それが主流であったり、唯一正しいやり方や精神性・風土となっては、より拙い訳で。

結局、単一の文化性が正しいとか単一のイデオロギーや道徳に立って世の中がまとまって動くのが正しい、あるべき姿なんだ。と言う部分を、きちんと捨て去っていく必要があるんですよね。その部分の姿勢、物事に対する立ち位置というもののとり方がきちんと出来てる人たちであるならば、複数ある動き・流れであっても、それが時折対立することがあったとしても、大きな方向性や個別の物事への具体的な対処のありようとしては、概ね「よい」方向に向くのではないかと私は思うのです。
要は、違いを認め、言うことは言うし間違ってるとか辛いとか困るとか言うこともためらわず・情けもなく言うことこそが今の世の中を破綻から救うかもしくは破滅の後に立てなおしていくためには必要とされる態度で、そういう「流れ」が複数あるならば、それぞれ細かい方向性は違っても、ある種のイデオロギーに支配されるとかイデオロギーに序列がつくとかそういう社会ではないのかもしれないけど、今の状況よりは数段マシな社会や人と人の関係の有り様になるのではないかと、私は思うんですよね。