バニラエア事件から見えてくる、国の「公共」に対する無責任さ。

 まだまだ梅雨が続き、身体の痛みが結構な状況が私は続いてますが、みなさんはいかがでしょうか。おだいじにしてください。
 さて、昔負った大怪我によって車椅子での生活をしている方が、奄美空港LCC・バニラエアの飛行機に乗ろうとして、車椅子の人を乗せる設備がなかったことと、「ルール違反」を理由に乗機拒否されて、この方が抵抗したり批判を述べたことが物議をかもしています。
 色々と論点があって、「”プロ障害者”が因縁をつけてるだけけしからん」と言う意見と、「バニラエアは障害者差別をしてる」と言う2つの声が非常に多いように思いますし、”プロ障害者”が云々はともかく、障害者差別というのには一瞬頷きたくなるわけですが、良くよく考えてみると、それもそれで違うように思うわけですよ。

 なぜ、バニラエアが「車椅子は事前予約しろ」「事前予約したら断る」と言う、ある意味非常にとんでもない内部規定を設けていたのか。と言う事について、少し深く考えていく必要があると思うのです。

 と言う辺りにあって、それは確かに会社の怠慢もあるのかもしれませんが、低運賃を売りにしてるLCCでは、確かに、そういう直接お金を産む訳ではない部分への予算は、普通の会社より出しにくい。普通の会社ですら、法律の縛りがなければ一銭も出さないようなお金でしょうから。
 では、誰がお金を出すのか?と言えば、今回の場合なら、例えば奄美空港を運営してる鹿児島県であったり、国であったりすると思うんですよ。

国がバリアフリーに対して負う義務は、非常に少なくされている。

 で、国はどうであるか。
 いわゆるバリアフリー法には、国が助成するという義務が曖昧にしか書かれてないんですよね。

http://www.mlit.go.jp/common/000207186.pdf
第4条 国は、高齢者、障害者等、地方公共団体、施設設置管理者その他の関係者と協力し
て、基本方針及びこれに基づく施設設置管理者の講ずべき措置の内容その他の移動等円滑
化の促進のための施策の内容について、移動等円滑化の進展の状況等を勘案しつつ、これ
らの者の意見を反映させるために必要な措置を講じた上で、適時に、かつ、適切な方法に
より検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるよう努めなければならない。

 要は、地方公共団体(この場合は鹿児島県)と事業者(この場合はバニラエア)の自助努力に依存してて、とにかく自分たちのお金で何とかしなさい、国も補助しますが補助はあまり期待しないで。と言う構造になってる。
 そして、鉄道の駅に関しては国の助成割合を「指定設備(エレベータなど)の費用の三分の一以内」と言う規定があっても、空港の設備については、調べた範囲では見つからなかった。

起こるべくして起こった、「バニラエア事件」。

 バニラエアーの今回の騒動は、起こるべくして起こったことだと、私は思うのです。
 国が、必要な予算をきちんと付けずに、義務だけおっかぶせて、実際の措置は空港や航空会社の「自己責任」で済ませている。
 これでは、財政的に厳しい自治体が運営してる空港や、お金の余裕のない航空会社が、どんどんバリアフリー化を先延ばしにしても、当然だと思うのです。

公共と、地方を見捨てることで国を壊していった35年間。

 1980年代の中曽根内閣以降、この国の公共交通は「規制緩和」の掛け声と共に、全国均一のサービスを放棄し、国がお金を出さないようになっていきました。
 これは、バリアフリーの問題に限らず、例えば路線バスなんかもそうなんですよね。都会に住んでる人にはわかりにくいでしょうが、その周辺ですら、相次ぐ減便と、運賃の値上げのどちらか・もしくはその両方で、地元の人達がどんどん不便になってる。自家用車の使用に、国が追い込んでいったと言ってもいい。
 例えば一時間に三本あって、誰もが座れたバスが、減便を繰り返して、一時間に一本も来なくなり、毎回満員なのにバス会社が増便をしないものだから、どんどん混雑が酷くなる。と言うような話は、普通にある。
 社会全体が豊かで、若い人も多く、大半の人が自家用車を持てた時代ならば、それでも問題は表に出てこなかったのですが、高齢化や人口減、なにより、貧困の悪化によって自家用車をそもそも維持できない人が増えた現状では、バスに期待される部分は大きいのですが、バス会社は採算性を気にして増便どころか減便や運賃値上げを繰り返す。
 それによって、都会に人は出ていくし、貧困化も進む。
 そして、コンパクトシティという解決策は、単なる問題の先送りだと思います(別の機会に書きますが)。

 地方社会の再生産可能性を国が率先して放棄して、専ら自治体にその責任を押し付け、大都会だけが優遇されるように制度を変えていった。そして、その恩恵を最も受けているはずの東京ですら、人口流入は多くなってるのに、都民の所得も税収も減る一方。

けなすべき相手を間違えてないか?

 バリアフリーと言う問題にせよ、公共交通にせよ、国がきちんとお金を出して、地方や自治体や運用会社の財政規模で、悪い意味での不平等が発生しないようにすることが国という存在の存在意義であるはずなんですが、その部分を放棄して35年が過ぎ、マスコミはこの「ネグレクト」を賞賛こそすれ直そうということを言わないし、世の中の風潮自体も、「地方はワガママばかりいってる」「カネをたかってる」と言う議論ばかりが容認されてきました。
 今回のバニラエア事件で、この問題を告発した方が、「プロ障害者」を自称していたことなどをあげつらって、色々と罵ったりしてる人が相当数いるというのも、その人達にとっては差別してるつもりはなくて、自分たちの取り分すらないのにワガママ言うな。と言う気持ちなのでしょう。

 しかし、考えてほしいのは、なんで取り分減らされてるか。ってことだと思うのです。
 森友事件にしても加計事件にしても、国が、特定の政治家やお役人にとって都合のいい人たちに、色々と便宜を図り、地方公共団体にお金や土地を差し出させたりまでして、身内の業者に利益を提供している。と言う事が非常に当たり前のように行われるようになってる。
 株価や為替の市場に、年金を始めとするお金を何十兆円。ひょっとしたら百兆円以上も突っ込んで、無理やり相場を釣り上げ、大企業の株だけを買い支えるようなことまでしてる。
 その反面、バリアフリーにせよ公共交通の充実にせよ、非常に多くの人の利益になるだけではなく、国全体の衰退を食い止めることにもつながるようなところには、財務省にせよ担当官庁にせよ、お金を出さない。出しても、非常にケチってくる。
 財政悪化を口実にしているのに、減らすべきを減らさず増やし、そして、減らすべきじゃない所を減らすのを、長いこと繰り返してるのに、批判は非常に少ない。

 この構造を、変えていかないといけないのだと思うのです。それをやろうとする・変えていこうとする政治家を支えると同時に、私達の側から政治家を出していく必要がある。お金の出し方を正常化しようとした鳩山内閣は、人々が「水戸黄門」を求めすぎたことと裏腹の「支える意識のなさ」によって、マスコミや一部官僚のウソ・デタラメに振り回されて潰されました。
 それを、こんどは繰り返してはならないと、私は思います。

 明日は、都知事選です。東京都の人は、豊洲市場のように、汚染が酷い上に、今の状況ですら毎年百億円以上の赤字が出るような設備に移転することをいいことだ。と言うような政党に投票することや、棄権すればそのような人達が当選してしまうことが本当にいいことか、考えて、投票に、ぜひ行ってほしいと思います。

前回の書き込みも、どうぞ。
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp

エリートが壊れすぎている。

 最近、政治家・とりわけ、自民党の政治家の暴言や裏献金がいくつも表に出てきただけではなく、公明党が都議選で共産党を(第三者が見てもそうだと思えるようなずさんな形で)誹謗中傷するのを表の広報がしたりなど、ろくでもない話が幾つも出てきています。
 企業も企業で、東芝の破綻問題について、何故か中国資本からの買収を拒み続け、「日米韓連合」での買収を推し進めたのはいいのですが、半導体事業の買収を検討していた合弁相手のウエスタン・デジタルの働きかけを固辞しつづけ、メモリ事業の業務で使っていたネットワークを遮断してウエスタン・デジタルの技術者を締め出すようなことになっている。
www.nikkei.com
 更には、FIFAワールドカップの招致に際して、規定の何十倍もの高額な商品などを開催先を決める人々に、日本側から送ったりなど賄賂攻勢をしていたことが、FIFA側から明らかにされた。
www.asahi.com
 色々と見ていると、この国の中枢を担ってきた人々が、まだまだ隠したいことや表に出したら罪に問われて偉い人たちが皆刑務所に入るよりなくなるような、巨大な犯罪を、複数犯しているのだろう。としか言い様のない状況ですし、それに対して人々がどこまで怒ってるのか。と言うのが見えにくい状況でもある。

「積極的に自民党支持」の次世代のエリートたち。

 さて、四月ですから森友事件が盛り上がっていて加計事件はまだ本格化するかしないかの頃ですが、東大生に対して、あるアンケートが取られて、その結果が話題になっています。
 「東大生の約四割が自民党支持で、野党支持者は、その十分の一くらいしかいない」。
 こんな結果だったのですが、今の内閣だけではなく、統治構造そのものが、長期間続いてきたことでの著しい腐敗や傲りの自重に耐えきれなくなり始めてるのは、夜のニュースであったり国会中継であったりを見ているなら相当部分感じ取れるはずなのですが、なぜ?と言う事を考えるわけですよ。
www.businessinsider.jp
 数年前から、若い人たちの間で「自民党を支持してないと恥ずかしいから、自民党に投票する」と言う言葉が結構出てるらしいという事を目にしていて、それも含めて、非常に危ういなと思っていたのですが、上に挙げた記事の中身を見ていると、更に拍車をかけて危ういな。と思うのです。

 結局、場の空気や目先の利益ばかりが大事で、それが長期的にどういうことをもたらすかとか、歴史的に、どのような役割を果たし、この社会がどのように変化し・壊されていったか。と言う部分への視線がごっそり抜け落ちている。
 これは、今の若い人に限ったことではなく、私が若かった30年前も、殆ど変わってなかったんですよね。その前の世代では、まだ空気に呑み込まれてはいけないという風潮が相当残っていたのですが、私の世代になってくると、場の空気であったりサル山のボスであったりの言う事が正しく、それが酷い結果を産んだり著しい不正や汚職の結果行われたとしても、それはどうでもいい。と言う風潮が、非常に強くなっていた。

 しかし、少し将来のエリートが、ここまで現状肯定と言うより、腐敗してる上に「下」にいる、「仲間」でもない普通の・沢山の人々を大事にしないでサル山のボスの利益のために使い捨てにするのが当たり前のような構造に全部乗っかって、そこにしがみつくことこそが正しいと、曇りなく信じているというのは、非常に恐ろしいことだと思うのです。

過剰に現状を肯定して流されることで、この国は壊されていった。

 まぁ、私が学生であった30〜25年前とさほど変わらない気もしますし、それ故に、今の日本の崩壊に対して、社会の実務を主導してる私達の世代が有効な策を講じることなく、その少し上の世代が作った腐敗や日本破壊の構造を唯々諾々と受け入れて流されてるとも、私は思うのですが。

 国にせよ社会にせよ、うまく廻っていて、98%の人にまともな暮らしと人間らしい生活を保証できているならば、現状を丸呑みするのでもいいでしょうけど、そのような状況というのは、ものすごく意識して続けていかないと長続きしないし、すぐに腐敗する。そして、今の日本はと言えば、団塊世代の引退によって起きた人手不足のお陰で新規採用やアルバイトは増えてきたものの、未だに給料は安く、給料が上がる 以上に税金や公共料金が値上げさせられ、仕事に就けたはいいけど長時間のサービス残業や休日出勤は当たり前・結婚できても子供を産み育てるための育児休暇を取れば罰を受け、そもそも結婚相手を見つける気力すら残らない。と言う人が大半を占めていて、しかも、働くのが容易ではない人たちへの福祉はどんどん削られて、生きづらさが増すばかり。
 これは若い人に限らず、メディア露出を頻繁に行ってる、東大在学中に若い時に革新的な見解を出したはずの「哲学者」「思想家」やその他の多くの「文化人」ですら、現状肯定に過剰に傾いていて、政権批判や一部の官庁批判は間違ってるだなんだと屁理屈中心に話を捏ねて、それを老若男女問わず多くの人が拡散してる始末ですので。

知識人にもエリートにも「教養」が欠けている状況を、乗り越えないと。

 ある程度、現状を見通して、それが一体何であるか考え・何が大事であるかという哲学があるならば…それは、エリート予備軍であるからこそ強く求められている「教養」なのですが…、現状は徹底的に変えられねばならないし、今の与党や内閣や内閣に付いている官僚というものが、支持すべき対象ではなく、排除されるべき対象だと言う事が、感じ取れると思うのですが。
 しかし、そうではないということが、この国の「知」の崩壊を象徴しているように思うのです。

 私達に必要なのは、現状が苦しいなら・辛いなら、それを変えたいという意思表示し、動ける能力のある人は積極的に動いていくということだと思うのです。市民運動だなんだと徒党を組むだけがやり方でもないし、政治家にロビー活動するだけがやり方でもなく、もっと色々と未開拓なことがあるとも思うのです。「知識人」「偉い人」に流され、彼らの意見の受け売りをするのではなく、彼らの言うことは耳に入れつつ、間違ってるなら間違ってると意思表示し、彼らをも乗り越えようとしてみる。
 できるだけ多くの人が、自分が出来る場所で、自分が出来る範囲で色々とやっていくことが、繋がっていき、時には激しい嵐となり、時には穏やかな波となって、社会の有り様や行く先を「流されない」ように軌道修正していく。

 そういうことを、やっていくのが一番いいのではないかと、私は思うのです。

共謀罪が出来た今、絶対にすべきこと。

 間が空いてしまいました。
 さて、共謀罪(政府と言うか政権は、「テロ等準備罪」だと言っていますが、なぜか、テロ関連の処罰対象が殆ど無い)が、あまりにむちゃくちゃにルールをぶち壊す形で強引に成立させられてしまってから、一週間が経ちました。

※お急ぎの方は、下の目次からどうぞ。

 

 この間起こったことは、森友学園加計学園にまつわる疑獄事件で安倍総理やその周辺・日本維新の会などの「衛星政党」の政治家たちなどが、「特区制度」「美しい国」などのスローガンをかくれみのにして、汚職と贈収賄と、何より国家財産の私物化をして、国のお金・国富を半ば非合法な方法すら使ってどんどんと内輪で喰い荒らしている事の入り口が明らかにされ、野党四党(民進・共産・社民・自由)が厳しく追求をし、それをマスコミがきちんと取り上げ・後追い検証や多くの要人の証言すら報道するような奮闘をしてきたにもかかわらず、今の政権などはその「権力」で、それをなかったかのようにしようしようと逃げ回り・表立った恫喝すら頻繁にやってきた事と同時に、この共謀罪の事があったわけですよ。
 口先では「丁寧に説明する」などと、マスコミも巻き込んで言っておきながら、実際にやるのは「一方的な説明」と、彼らが好む言葉で言うなら「印象操作」ばかりで、国会では与党や維新の会がおべんちゃらを言うのにはニコニコと答弁するのに、いざその他の野党が問題点を突き始めたら、長々と関係ない話を繰り返して質疑時間を潰し、大臣が答弁しろと要求すれば官僚を出して代弁させ、更に突っ込まれると逆ギレして恫喝すら繰り返す。
そんな事で、国民の権利を護ることなど無理だろう。と、マスコミの多くですら、呆れて政権批判を加速させる結果になってる中、「自分たちが設定した質疑時間が費やせたから、十分に議論は尽くした、採決だ」と無理やり採決に持ち込み、そして、成立させて。施行は、7月11日だそうで

 この辺りで、「安倍政権とは、経産省や警察などの一部官僚や日本会議の中枢部が、安倍晋三を担ぎ上げた経済マフィアではないか?」など、色々と書きたいこともありますが、今回は、「共謀罪が施行されたら、どうしようか」と言うところに話を絞ります。

 

逮捕されたり脅されたりした人を、孤立させない。

 今回の共謀罪、主導権を握っているのは、公安警察ではないかと、私は見ています。公安警察は、大昔から・それこそ、私が「社会が壊され始めた時代」と言ってる1970年代から、別に「過激派」に限らず、社会が常識としている・ステマのようなことに強い異議を唱えている人達や、その意見に同調する人たち、後は、当時の自民党政権霞が関に都合の悪い政党や政治家などに対し、不法な家宅捜索や別件逮捕、盗聴だけではなく、「協力者獲得」と称してのスパイ行為まで頻繁に行ってきた組織であるのですが、この人達は、時の権力や権威に都合の悪い人たちを、逮捕して、逮捕したのを隣近所や職場などに言いふらしたり脅したりなどして、逮捕された人達を社会的に孤立させることを非常に多く用いてきています。

 共謀罪の本質が、「いつでも誰でも逮捕できるようにして、時の権力や自分たちに都合の悪い話を、誰にも言わせないようにする」物にある以上、今までやってきたことを、あらゆる人に・それもランダムに近い形でやって「生贄」にするだろうと、思っています。

 その時に、逮捕の理由がなんであれ、中身は問わず、まずはその人を孤立させないことが大事だと思うのです。逮捕された人の考えがが気に入らないとか間違ってると言うのなら、逮捕された人を孤立させないようにしつつ、批判できる関係を作っていきましょう。
 
 仮に、隣近所の人・友人・職場の同僚・上司・親戚などが逮捕されたとしても、前と変わらず付き合ってやってください。そして、逮捕などの中身が不条理だと思ったら、その人と一緒に怒りを表明してください。
 それが、実は、共謀罪を使いたい人達にとって、一番イヤなことでしょうから。

逮捕されたりしたら、泣き寝入りしない。

 共謀罪で逮捕されて、逮捕された場合には、暴力的な方法で自白を強要してきたり、警察などが掴んでた弱みを色々とちらつかせて(そこには、他人に見せられない、恥ずかしい趣味や交友関係も含まれるでしょう)、罪を認めろとか、隣近所や友人の事を告げ口するスパイになれとか、色々なことを、要求してくるでしょう。
 でも、全て断りましょう。あなたには、弁護士が(殆ど手弁当で)付けられるのですから。
 身の回りに弁護士のつてのない人は、救援連絡センターを覚えておくと良いでしょう。

 電話:03-3591-1301 。

kyuen.jp

 とにかく、逮捕されたとしても、あなたは孤立してないです。多くの人達が、あなたのために一緒になんとかしようと動こうとしているのです。

黙らない。ふてぶてしく黙らない。

  既に起こり始めていますが、共謀罪を使って逮捕されるのを怖れて、政権批判や戦争反対の声を上げることを止めている人達が出ています。でも、それこそが、共謀罪という法律を、今の政権と警察が、違法・脱法としかいいようがないようなやり方で無理やり法律に仕立て上げた理由なのです。
  「国家」というものを使って、私腹を肥やしたり人々におかしなことを無理強いしたりなどの悪いことをする人達は、自分たちが「スピード感」を発揮できる最大の障害が「国民が黙らないこと・従わないこと」だというのを、直感的にも学問的にも、感じ取っています。
  だからこそ、なおさら、私達は黙らず、小さなことであっても声を上げたり、声を上げないまでも周りの人達やネットで繋がった人達と話し合い、何か動こうかとなったら、積極的に動くのを、ふてぶてしく・ふてぶてしくやっていくべきだと、私は思うのです。
  それ自体が、「共謀罪は不要・有害」と言う議論を、後押ししていくことになるのだと思います。

共謀罪の廃止を、政治家やマスコミに絶えず要求し続ける。廃止する政治家に政権交代させる。

 大抵の法律は、出来るまで大揉めしても、すぐに風化してしまうものです。マスコミはたまにしか取り上げなくなり、世間の関心も薄くなり、政治家も、廃止しないとまずいと思いつつ、強く廃止に動くだけの後ろ盾を得られず…ぐずぐずと法律だけが暴れ続けてしまう。
 共謀罪は、そうしてはいけない法律だと、私は思うのです。
 安保法制こと戦争法や特定秘密保護法、種子法・農業関連の法律改悪なんかも廃止させないといけない部分が相当ありますが、共謀罪は、それに更に輪をかけて、日本の根幹を新幹線並みのスピードのブルドーザーでぶち壊すことになる法律ですので。


 その上で、やはり、真面目に今までの問題に向き合い・廃止すべき法律を廃止させようとか、手続きがおかしい法律や政令を見直していこう。廃止も厭わない。と言う政治家に、頼りないけど政権交代してもらって、その代わりに、私達一人ひとりが彼らがおかしなことをしないように監視し・不満や疑問があれば言葉を届け、彼らの目に見えてない不都合がこちらにあるなら指摘して、変えさせることを突きつけられるような、「今までの日本ではない、新しい、国民と政治家の関係」を作らせる必要がありますね。

 もう、「水戸黄門」を望まないし、「水戸黄門」にもさせないような、新しい、関係を。

 だから、この間の国会で、恫喝や自民党のネットサポーターズの誹謗中傷・嫌がらせなどに屈せずに、森友や加計の問題で政府や大臣や総理を厳しく追求してきた野党四党の議員たちを、私達が後押しして、少しでも早く政権を持たせ、共謀罪を始めとする法律を、もし、その時に彼らが渋ったとしても、一旦廃止させるだけの状況を、作っていかないといけないと思うのです。

信用を自分から捨てていくということ。

 ここ最近ずっと問題が盛り上がってる加計学園の疑獄問題にせよ、森友学園の問題にせよ、政府や与党の側は、法律の決める所を無視するのに非常に力を入れてるのがバレてきていて、しかも、お役人が与党の顔色をうかがって、あるものをないといい続け、無いものも都合が悪いものに関してはあると言ったりするのが当たり前になってますよね。例えば、文科省の前次官の前川喜平氏が、加計学園への「えこひいき」に総理官邸からの強い圧力があったと書類を出して内部告発したのに対しては「ない」「怪文書」と政府が言い続け、前川氏が出会い喫茶で買春に明け暮れていたという「ないこと」を、あたかも本当であるかのように読売新聞などを通じて報道させ、他の媒体はきちんと検証してから報道しようと取材したら、買春などしてなくて、本人の趣味だか自分の家が運営してる財団のためだかの調査や取材が目的だというエピソードがゴロゴロ出てきたりしたのが、一番最近の話でわかりやすいでしょう。
 そして、共謀罪にしても、とにかく共謀罪を作って政府や警察が気に入らない人や政府や警察の邪魔になることをやろうとする人を、いつでもどこでも逮捕できるようにするのが目的になってて、野党が共謀罪のずさんさや邪悪さを正すように問い詰めれば、それに対して、政府もお役人も全く関係ないことを長々と時間稼ぎで答弁し、中身がないまま30時間過ぎたからと強引に採決に持ち込んで法律にしようとしてる。

 これらの事には、色々な問題があるし、多くの人が問題を言ってますね。しかし、私がここで書いておきたいのは、これらは、「政治や行政・報道への人々からの信頼感を失う事になっていて、それを信頼されてきた人々が自分からやっている」と言う事なんですよね。

 

大半の人々が社会に持ってた「信頼」を悪用して、社会を私物化してきた人々。

 この国では、役人にしても政治家や法律にしても、たまにおかしな人がでて私物化しようとするけど、それを押しとどめる力もあれば、おかしくなっても直されていく。と言う、信頼感のようなものが、ありました。そして、それらが、実は、法律を大半の人が守る根拠になっていて、相当部分の秩序を形作って来たと思うのです。
 そして、これが壊れるということは、実は、法律や行政や政治が信頼を失い、それらで「おかしな人々」が好き勝手放題できるようになる。と思いがちだし、実際、2000年頃からの国の与党や市長・知事と言うのは、「改革」「聖域なき改革」と言う「美しい」言葉をマスコミに言わせて政治を独占する事にかまけてきた人々が少なからずいるのですが(小泉純一郎元総理大臣や中田宏横浜市長が象徴的と言えるでしょう)、しかし、それはほんの一時期に過ぎないんですよ。

 確かに、「改革」などの美しい言葉を隠れ蓑にして、行政を私物化し、国や市町村の持ってる財産を私物のように取り巻きの人々に安く売り渡し、社会福祉や公共交通のようなインフラですら「ぶっこわし」取り巻きに安く売り払うことで、その人々は、莫大な利益を受けてきました。しかし、それは、彼らがわかってかわからずか、その地域の社会や日本の社会全体を壊していく事に直結しているのです。
 何しろ、ある種の人々がマスコミの作った「虚像」を使って偉い地位について、やりたい放題して、しかも、その事を批判させないように色々手を回したり(中田宏の場合は、反社組織との交際を垣間見させる記事を週刊現代誌が書いたのに対して、警察に告訴して警察が講談社を家宅捜索し、記事を止めさせたばかりではなく、裁判では週刊現代側の報道内容が正しいと認定されたにも拘らず、中田宏が勝訴したりしてます)、その事で、警察もお役所も自分の都合のいいように動かして法律などないかのような状況になるということは、法律自体を無意味化し、「ばれなければいい」を通り越して、「警察やお役所が見逃してくれればいい」「偉い人に付いて、警察やお役所を自分のために動かさなければ損だ」と言う人々を、多く作りだすことになった訳ですからね。

 それは同時に、そのような事にできない立場の、大半の「庶民」とも言える人々からすれば、法律を守って自分が損をするばかりになるのですし、偉い人達のさじ加減一つで逮捕や有罪になってしまいかねない状態そのものなのですから、最終的には、自分で自分を護るよりなくなるし(先日書いた、痴漢冤罪の蔓延が線路に下りて逃げる人々を産み出したのも、その一つの形です)、それは、法律など守るな。法律など自分の利益の邪魔だから、積極的に破るのが「かしこい」事なんだ。と言う社会風潮に結びつくわけですよ。

 

破壊された信頼を、取り戻すには。

 それは、すでに出始めてる。
 少し前から、飢えをしのぐためにコンビニ強盗をする人々が頻繁に報道されてましたが、最近はそれを通り越して、普通の感覚では理解しにくいような動機で、白昼堂々強盗や暴行事件を起こすという事件が2日にいっぺんくらいは全国報道でされるようになってるように思います。今まで陰に隠れてきたような犯罪が、白昼堂々・それも今ひとつ理解できないような理由で出ていて、それを考えていくと、結局は法律などよりも自分の利益や欲望を満たすほうが正しい。と振り切れた人々が、多く出てる感じが、とてもするんですよね。

 果たして、私達は、どうすべきか。
 非常に困難な問題ですが、思うのは、これをいい機会に、私達を縛ってきた法律や福祉などの根拠になってきた法律などを、一度真剣に考え・議論に持ち込む事と、後は、法律や「公共」や秩序と言うものを、きちんと私達の手に取り戻していく流れを作っていかないと、どんどんおかしくなっていくのではないかと思うのです。
 法律を守るというのは、道徳での縛りにもなっていて、それが逆に、このような状況では、人々に法律を軽んじさせる理由にしかならないのですから、まずは、私達が政治と秩序自体を私達の手に取り戻し、建て直していくのが、多分、この社会をまともに戻していく道なのだろうと、思うのです。

「平気でうそをつく人たち」にどうすればいいのか。

 長いこと、書かずにおりました。体調が今二つ思わしくない。
 このテーマで、今までの間にここで書いたと思ってたのですが、最初の文章から調べたらまだ書いてないので、いい機会だと思いまして。

 今の国会。森友問題も加計問題も共謀罪の答弁も、その他の色々なことに関しても、ウソと時間伸ばし目的の言い訳や論点そらしと、そして、それでも食いついて・食いついて問題をきちんと指摘し・改善を求め(もしくは論外の法律なら廃案を求め)・不正の責任をきちんと取れ。と突きつけ続けている野党四党(民進党共産党社民党自由党)を始めとする一部の無所属議員に対する、人としていかがなものかというような下品ないいがかりや「ウソの事実」で彼ら彼女らを貶めようとする「言葉」「ビラ」「一部のオピニオンリーダー」がのさばり続けてる。

 「公の眼の届かない所で、ごくごく限られた人にだけ利益があることや、国にいる大半の人に新しい罰を与えたり、大半の人には過酷な税金を課したりする事で、自分たちと取り巻きがより大儲けしていくような事を、決めていく」と言うのが、安倍政権であって、そこには、安倍政権の利害やご機嫌を損ねないような「議論」は自民党内では許されてるようですが、そこを超え、安倍政権のやり方や精神論と衝突したり、そのような物に従わないような「議論」は押さえ込まれてる。

「平気でうそをつく人たち」

 「平気でうそをつく人たち」という1996年ころに日本語訳が出た本がありました。この本については気が向いたら読んでみていただきたいので中身は省きますが、この中で、色々なパーソナリティ障害の患者や友人家族のエピソードが描かれていて、その本を斜め程度ですが私が読んだときに思ったのは、「1990年代当時に目立っている政治家や政治家になりたがってる”朝生文化人”の中に、こういうパーソナリティ障害者が多くいる」と思ったんですよ。
 今、安倍総理や金田法務大臣、そしてその廻りでムチャクチャな答弁を繰り返す財務省の佐川理財局長などの一部官僚は、まさに、「平気でうそをつく人たち」なんですよね。

 

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

 

 
 そして、安倍政権を賞賛する本を出したり、従軍慰安婦問題を攻撃してきていた、山口敬之・元TBSニューヨーク支局長の強姦事件を警察の上層部と官邸がもみ消しに動いた事や、加計学園問題での総理達の働きかけを内部告発した前川喜平前事務次官に対し、官邸と警察が色々リークして読売新聞だけでなく週刊誌もリークを基にスキャンダルを色々調べてみたけど悪い話が出なかったどころか、却って美談としかいいようのない話ばかり出てきてしまった。というあたりのことを見ていても、やっぱり、安倍政権や安倍政権に集まる取り巻きのような人々には、法外な密度で「平気でうそをつく人たち」が集まってる。

 「平気でうそをつく人たち」の多くは、如何にも常識的な振る舞いをし、人に好まれるような言葉や振る舞いを意識的にやってます。そうやって信頼関係を作っておいた上で、その中に、「他人を操作するためのウソや言葉・仕草」を織り込んでいくんですよ。
 自分だけが都合のいいように、身の回りにいる他人にウソも吹き込んで対人操作したり、標的に決めた人間に対しての周囲の怒りを煽り立てて、リンチの類に仕向けたりする。
 そういう人達が、今の与党や維新の党のような「衛星政党」には、少なからずいる上に、「連合」でも右派の労働組合が支援してる野党議員には、そのような手法を好む人もいる。

 このような人々が、昭和のバブル経済が弾けて以降、日本の国土と財産と人を、めちゃくちゃにしたのです。その上で、私達がそのような人々が一方的かつ暴力的に支配と社会運営を進めていった事で、仕事につくにも安定した仕事はあまりなく、給料は下がる一方で、年金や税金は貧乏人ほど高くなり、取り立ても厳しくなっている。なのに、政府は経済回復とか言ってる。
 うそつきが社会でのさばり会社経営や政治運営に深く関わり、そしてうそつき集団が与党となり、警察や経産省などの一部の官庁と結託して民主党政権のような誠実さと真剣さが勝ってる政権を倒し、安倍晋三という「平気でうそをつく人」とその取り巻きで永田町と霞が関を占領してしまってる訳です。

気持ちを切り替え、意見表明や意見交換をして、「平気でうそをつく人たち」に振り回されない社会への建て直しを。

 このような状況の社会は、もう、社会の秩序その他のシステムや流通構造ももたないし、崩壊を止めるには、私達だけでは全くの力不足だ。という諦めにも似た感覚が世間で相当広まってるように思うのです。

 しかし、私達は、この国にいる誰もが、この状況下でであっても、生きていかねばならないのです。

 私達がすべきは、この社会を、崩壊が相当進み始めてる社会を、どのように建て直していくか。という気持ちの切り替えと、その上でどうすれば崩壊が進んでる社会を建て直せるか・建て直すにはどうしていくべきか。ということの意見を、ネットでほそぼそとでもいいから、つぶやいたり、文章書いたりして、色々な人達と議論をしていくことだと思うのです。
 できうるならば、最大限、自分を活かし、時々の楽しみや「自分へのご褒美」もちゃんとやって。

もう、「平気でうそをつく人たち」に振り回され・抑え込まれ・監視され続けるような社会にはしてはならない。みたいなある種の誓いと一緒に。

この一週間ちょっとは、歴史に残される事になるかもしれない。

 最近ニュースや情報番組で沢山取り上げられてる、加計(かけ)学園問題。愛媛県今治市に、総理の昔からの友人と言うより大スポンサーが経営してる加計学園獣医学部を無理やり作るように、内閣府・要は総理大臣のお付きの偉い人たちから強く迫られて、総理大臣が国家戦略特区にしてもしまったので、文科省が折れて、今までの規模や獣医さんの必要な人数も無視して新しく学部を作ることを認めた問題で、文科相内部の資料を暴露した、前の事務次官の前川喜平氏が、ここ数日、マスコミ各社のインタビューに出たり、記者会見を開いたりしています。
 記者会見やインタビューの中で、前川氏はこういう言葉を、必ず言ってます。

加計学園:前川氏会見詳報(1) 「あったことをなかったことにはできない」 - 毎日新聞


「私の後輩たちや、お世話になった大臣、副大臣にこの件でご迷惑をおかけすることになる。その点では大変に申し訳ないと思うが、あったことをなかったことにすることはできないと思っているわけです。」 

 

 

当時の“文科省トップ”独占証言「“総理の意向”文書は本物」 TBS NEWS

「政府の中で、どのように意思決定が行われているのかを国民が知ることは民主主義の基本の基本。決して内閣の転覆を考えているわけではない」

 

正義とか政治的正しさではなく、自分の中にのこってる良心に従おう。

 私は、一つのことを考える訳です。正義ではなく、政治的正しさでもなく、ましてや「場の空気」や利害とかでもなく、「自分の中に残ってる良心」に従って動くべきときに動くことは、この崩壊する社会をどうにか建て直す上で最も大事なことであるし、それが余りに不十分なままで、戦後の後半・約40年ほどの世の中が廻ってしまったことで、この社会が色々な所でほころびをどんどん強めるのを誰も止めることも出来ずにただただ問題を先送りして、結局社会がとてつもなく破壊されてしまったのではないかと。
 そして、前川氏の行動は、多分、安倍政権が大きく変えた、官僚の使われ方(内閣人事局で調べてみてください)によって、安倍政権やその取り巻きの人々のでたらめな振る舞いや要求を止めてきた人達が排除され、出世の道を絶たれ、そのかわりに、良心なんてどうでもいい・自分の出世やお金がもっともっと出来るなら、自分から進んで法も壊すし偉い人の言いなりになりましょう。と言うような人達ばかりが偉い立場になったことで煮え湯を呑まされた格好になった、まだまだ良心が残る官僚たちに対して、「自分の良心に従い、事実を洗いざらい日の下にさらし、今までの責任を取らせるべき人々に取らせていきましょう」と言う、激しい呼びかけではないかと思うのです。
 それは、官僚や政治家に限らず、私達一人ひとりにも突きつけられている。

 正義や政治的正しさや理想ではなく、自分の中に残ってる良心に正直になって、やれる事だけでもやっていくことを、前川氏の発言というのは要求しているように思うのです。
 そして、それは何かと言うと、

  • 「ダメなものはダメなんだ」と意思表示し、政治家や官僚たちに対しても、そうするように呼びかけていく。
  • これから何人も出てくるであろう、「良心に従いたたかう官僚」を、私達が何らかの形で支え、間違ったことはしてない。と声を上げていく。
  • 政治家やマスコミに対しても、空気とか圧力ではなく、良心に従って、「ダメなものはダメなんだ」と言い続けることや、今あるもの・ありのままを伝えたり、ダメな真似をした人達の責任を追及していくことは正しいともう、もっとやれ。と声を伝えていく。
  • 今、自分が問題だと思うことに対して、人々に対してプラカードを含めて、言葉として伝えていく・議論が出来るようならしてみる。

などなど、色々とあると思うのです。
 この一週間ちょっとは、多分ですが、この国・日本という国の将来の方向を決める事になるのではないかと思います。そして、その方向次第では、いい意味か悪い意味かはわからないですが、内外の歴史書に残ることになるかもしれない。

 やれることを、やっていきましょう。自分に無理をしない範囲で。自分の中の良心にのみ、従い、空気とか敢えて読まないでいくような感じで。

広場が奪われ、人々が黙りあきらめた先に出てきた、アッキード事件と共謀罪。

 先週金曜日(5月19日)、衆議院の法務委員会で、今までないようなムチャクチャな強行採決で通された共謀罪が、今日にも衆議院本会議で可決されようとしていて、野党四党が、国連からも厳しいクレームが付けられた状態で、共謀罪可決のために衆議院本会議を開ける状況か。と、必死に抵抗しています。
 その事に対して、声の大きな人達が相変わらず「野党四党は情けない」「共謀罪は大したことない」「反対するのはやましいことがあるからだ」と言っています。
 ここで考えたいのは、日本は、総理大臣があからさまな汚職を一部の官僚と一緒になってやり、汚職で便宜を受けた加計学園は経済犯罪まがいの行為で銚子市今治市などから沢山…数百億円単位…のお金を吸い上げ、森友学園に関しても、籠池理事長一家を担ぎ上げた上で色々と違法なことをやっているという証拠が出てきていて、それで今になって批判が出てきてるのに、総理も大臣も総理も官僚の偉い人も、誰もやめようとしてない。
にもかかわらず、総理はやめろとか官僚を逮捕しろとか、共謀罪なんかやってる場合か。生活をなんとかしろ。そういう街角の動きは、非常に、弱い。韓国に限らず、大半の国では、街頭デモとゼネストを繰り返して、汚職まみれの大臣や悪政を繰り返す大統領を辞任に追い込んでるにも拘わらず、日本では、そういう流れが非常に弱い。それは、なんでなんだろうか…少し考えてみましょう。

 

「日本には広場がない」。

 先週の末に、Twitterで、そういう話になったことがありまして、「日本には広場がない」と言う話が出てきたんですよね。見ず知らずの人が集まり・政治に限らず色んな話をする場としての、広場が、無い。これが、民主主義がどんどんおかしくなった大きな原因なのではないかと。

  日本にも、戦前戦後を問わず、広場はあったんですよね。1970年前後の安保反対闘争の盛り上がりの頃までは、多くの街に広場があったし、そこでいろんな議論がされたり、当時最も盛り上がっていたフォークソングのような歌や音楽で盛り上がったりもしていた。安保反対闘争までの、「街角の民主主義」や「怒れる若者」と、広場は、密接に関係してて、広場が、世の中を動かしていこうとする人々の原動力ですらあった。
 当時は、無届けデモというのも、物凄くあった。当時も、公安条例のように無届けデモを処罰する条例があったのですが、それでも、裁判に訴えて行っていた。
 しかし、警察が激しく暴力的な弾圧に走った事もあって、広場に集まった人達が暴力には暴力で対抗することも少なくなかった事や、前に書いた上尾事件に代表されるように、広場に集まらない人達の主権者意識がなくなっていっていた時代でもあったので、マスコミが「暴力的な学生」「暴力的な若者」を非難する風潮が出来、そこに警察や自治体が乗っかる形で、広場がどんどんと細切れに工事され、人が集まらないように警察が常駐したりしていった。
 そういう中で、それでも、歩行者天国での政治的主張というものはされたりもしていたのですが、しかし、警察が大規模に介入して政治的主張を言う人達や政治的な歌を歌おうおとする人達を暴力的に排除する事が90年代まで繰り返され、その内、地下鉄サリン事件などを口実に、地元の自治会が警察に要請する形で、どんどんと歩行者天国自体が奪われていった。

ameblo.jp

 そして、90年代の半ばから終わりには、歩行者天国での政治的主張やビラ配りというものが禁止されるのが、歩行者天国を主催してる地元自治会や都道府県・市町村が決める形で(実際には、警察がそのように根回しをして)、当たり前のルールとされてしまった。

 

60年代まで日本にもあった「広場」が奪われ、人々が何を言えばいいかわからなくなった。

 つまり、70年安保闘争からの約30年間で、日本から「人が政治的につながる場としての広場」というものが、根絶やしにされていったんですよね。
 90年代と言う時代に関しては、暴対法の問題とか色々と書くべきことがあるのですが、又の機会にしますが、とにもかくにも、人が政治に関して関心を示したときに、お互いに議論する場と言えば、かなり多額のお金を費やしてパソコン通信・ネット(90年代後半はインターネットのネットニュースや掲示板も入ってきた)にしかなく、殆どの人は、テレビの討論番組しかなくなっていて、そこでは比較的社会立場のある人が下層の・末端の生活や気持ちを顧みないで、自分のイデオロギーに基づく空論をぶつけ合い、特に右派やネオリベラリズム新自由主義)に拘る人達が、反対の側の人達や庶民の声を代表する人たちに、「非現実的だ」「代案を出せ」と迫り、いじめ抜くのを司会が止めないのに、それに言い返せばすぐに司会が止めたりもするという、非常に不公平な言論がまかり通っていたわけですよ。

 そうなると、テレビが広めようとするものの見方や思想に疑問を持つ人は、物凄く孤立していったわけですよ。そこに、00年代頭のネット右翼と言うより自民党ネットサポーターズののさばりぶりも追加された。
 いわゆる、左側の考えを持つ人は、徹底的に孤立するか、偶然知り合った似た考えの人たち(この人達も、大抵は思想的に腐ってる)に取り込まれて、その人達の受け売りや内輪の論理に染まっていくよりなかった。

 

改めて、「広場」を作っていくような、積み重ねをしていこう。

 60年代末からの「広場を社会から奪う」と言う、警察であったり保守政治家・保守思想家たちであったりの動きは、結局は、日本の人々に無力感を植え付け、目先のことにだけ関心が行くように仕向け、政治に関心を持つことがタブーにされてしまうという状況を、最低でも結果では招いたし、結果ではなく、それは最初からそうするつもりだったのだろうと思うのです。自分たちがいくら腐っても・どれだけデタラメをしても、誰も大して文句を言わないし、やめろと迫られることもない社会。それを、彼らは目指してここまで来たのでしょう。
 しかし、そうなると、「彼ら」以外の人達はとことん暮らしにくくなるし、生きにくくなる。1998年頃のアジア経済危機以降、自殺者・とりわけ、男性の自殺者は高止まったままだし、痴漢冤罪に限らず、色々な事で、人々が他人の些細な不届きをあげつらってつぶしあいに走るし、経済状況は、最低でも末端の生活の状況としてはどんどん悪化していて、食料品や日常的に使うものを作る会社がどんどん倒産したり廃業したりしてる。

 日本はこのように酷い崩壊の状況にあるし、そこを私達が生き延びるためには、広場を改めて作っていかないといけないと思うのです。それは、物理的には駅前のコンコースや盛り場で政治的な意思表示をしてみること(無言でプラカード持つだけでも)であるし、今、抵抗してる野党四党に声を届けていく事で、色々な人とつながりネットワークを作り直すことであるし、ネットでも日常生活でも、声の大きな人や場の空気に従ってばかりではなく、自分の考えを、喧嘩にならないようにおそるおそるでも、話していく。
 そういう非常に些細で、それ一つだけでは何かを変えるにはほど遠いように見えるような事から、私達はやり直して積み重ねていくより無いのだと、最近思うのです。