物言う人々を追い出し、物言わぬ組織が腐り、社会全体の崩壊に繋がってる。

少し、間が空いてしまいました。
間が開いてる間に、

などなど、たくさんのことがありましたし、それら一つ一つについて書いていきたいところではあるのですが、おいおい書いていきましょう。

「残業代ゼロ法案」をゴリ押ししようとした「労働組合」連合の幹部たち。

 最近、再び「残業代ゼロ法案」と呼ばれてる、高度プロフェッショナル法・一部の職種に対し、残業代無しでタダ働きさせ放題にしようという法改正案に、労働組合の「連合」が賛成しようとして、それが連合の外側の人たちの大きな批判を向けられただけではなく、そもそも首脳部以外の末端の組合から「そんなもの認めると言った覚えはないぞ」と言う話が噴きだして、当面は賛成しないことになりました。

 なんでこんなことになったかと言えば、「連合」自体が、1980年代後半に、右派系の組合(同盟)が左派系の組合(総評)を吸収する形で出来たと言う経緯が影響している訳ですね。日本の労働組合は、戦後、多くのストライキなどをやってきましたが、1960〜70年代に企業の経営者や財界が主導して、別の組合を、「同盟」などの右派系組合と組んで作っていった訳です。その「新しい組合」は、ストライキをしていた組合と違い、「経営者目線に立つ」事を働いてる労働者に求めただけではなく、他の組合に対して暴力的なやり方で攻撃して吸収したり、会社に物申す人々に対しても暴力を繰り返し、しまいには、「ユニオンショップ協定」によって、他の組合に加入したら解雇する。と言う協定を会社と結びました。
 そして、会社に対して不満を持つ従業員を暴力的に排除したり、会社から受けた不都合をどうにかしてくれといった従業員を、会社と一緒になって追い出したりということを、当たり前に続ける一方で、組合の幹部になることが出世コースの典型になるような状況を作っていった訳です。

「物言わぬ労働組合」が風通しの悪い会社組織を作り、会社組織は崩壊した。

 そして、間違った方針を会社が行ってもそれに意見することも出来ず、とにかく上が言う事が正しいんだ。と言う事が積み重なり、会社が疲弊し・お金の使い方がおかしくなった上に経営方針もおかしくなり、それは、シャープの倒産や東芝の破綻と言ったことを、多くの企業や役所などで既に起こしてしまってる訳です。
 シャープが一番象徴的で、倒産する前の経営陣は、社内政治にばかり力を入れ、経営が厳しくなったら、従業員のことを指して「膿は出さないといけない」といい、実際過激なリストラでどんどん従業員を辞めさせた末に、倒産したのですが、その後中国のホンハイが会社を買い取り経営権を取って社風がガラリと変わり、「実力主義」を徹底させたことで風通しも良くなり、一年もしない内に経営が立て直され、商品展開も地に足の付いた形で増やし始めてる訳です。

 今回、末端の組合の意見を無視して、「残業代ゼロ法案」に賛成したのは、このような形で出世していった人々であったわけですが、彼らがやったことというのは、結局、会社などの組織を腐らせることにほかなりませんでした。
 ストライキなどの労働争議を完全に否定して、経営者目線だけが正しいと言い、末端の組合員などは「上が言う通りに動く手駒」以外としては認めない。そういう姿勢が、労働組合だけではなく、この国全てを腐らせてしまった。
 選挙に関しても、原発再稼働問題などについても、「連合」の中枢部の出す方針は、基本的に政府や財界の思うように社会を動かそうというものであって、そのためには民進党を始めとした野党があまり増えても困る。自民党過半数を占めて与党でないと困る。と言う事を実践してるわけですよ。
 この間の、民進党蓮舫代表辞任までの外側とのゴタゴタや国会の迷走ぶりと言うのは、この人達の発言力が、不当に大きくなってしまったことと深く繋がってると、思うのです。

「上の人達」の言うとおりでは、もうダメだ。

 社会を、「上の人達」の言うとおりにしておけば間違いない。と言う時代は、とっくの昔におわってるのに、それを続けることで、この国は腐り・崩壊しています。そして、崩壊の末に、「上の人達」は自分たちだけが世の中を動かす権利があると、未だに勘違いしている。
 これを、乗り越えていかないと、いい加減いけないと思うのです。
 上の人達は、お金や地位も持ってるから、国が崩壊するまでの間にタックスヘイブンなどにお金や財産を逃したり、いざとなれば、どこかの外国に逃げ出すことが出来ますが、私達の大半は、そんなことは出来ないわけです。何処かの国の大使館に逃げ込んで亡命するか、この国自体の有り様を根っこから変えていくかの、どちらかでしか、私達や子孫は生き残れない。
 そういう状況に、私達は、むりやり置かれてしまっている事を、見つめていく必要があると思うのです。

民進党の「惨敗」から、この国の政治の欠陥を、考えてみる。

※こちらもどうぞ:「共謀罪が出来た今、絶対にすべきこと。

 都議選で、民進党がどうにか壊滅は免れたものの、議席を減らしてしまったことから、民進党内で、色々と批判が出てるようです。
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 これを読んでいると、「共産党との連携をやめろ」とか、「執行部・特に野田幹事長は退任して、若手でやり直すべきだ」などの意見が噴出したようです。
 民進党や、その前身である民主党がなぜ、支持を失ったかと言えば、「態度の決まらなさ」があまりにひどすぎることと、元総理でもある野田幹事長や蓮舫代表ら執行部が、誰の方を向いてるのか全くわからない態度や政策を繰り返してる。と言うことにあると思うんですよ。
 要は、目先の事に飛びつくのはいいけれど、鳩山政権や菅政権の時のように、「まずは国民(日本に住む全ての人。と言う程度の意味です。国籍ではなく)の方を向いて政治をやろう」というのではなく、目先の政治・今の与党との裏取引的な駆け引きばかりをやって、何をやろうとしてるのか全く見えなくされてる上に、国民の期待を裏切ったり、国民を苦しめる政策や選択を、平気でやってしまうという、ダメさが、ひんしゅくを買ったままである。と言うことになるかと思います。
 つまりは、自分たちの保身を最優先で考えるような人達ばかりが、執行部や国対などの、党のありようを決めるところにいる上に、連合中央のように、大半の国民の意思や要望と正反対のことを求め続けてきた「御用組合」の人達の意見を、過剰に取り入れたりもしたお陰で、「この人達は自分が可愛いだけなんだ」と言う失望に繋がってきたと思うのです。

 何故こんなことになったかと言えば、この国の選挙制度に問題がありすぎるからだと思うのです。
 この国の、衆議院選挙制度は、「小選挙区制」「比例代表制」をミックスしたものになっています。小選挙区制では、一つの選挙区に対して、一人しか当選できません。そして、比例代表制では、政党や団体に対して投票して、票の数に応じて(ただし、日本の場合は得票が多い政党ほど、票の割合よりも多い候補を当選させられる)当選させることが出来ます。
 そして、衆議院参議院も、そして、都道府県や市町村の議会も、議員定数が非常に少なくなっています。一定人口あたりの議員数は、いわゆる「先進国」「民主主義国」の中でも、最低ランクになってしまってます。
これらのことから何が起こるかと言えば、

  • 強い組織の後ろ盾がある人が、当選しやすくなる。
  • 政党の力が強くなり、なかなか政党の執行部や党首の言うことに対して逆らえなくなる。
  • 政策や実績があっても、組織の後ろ盾がない人は、当選が非常に難しくなってる。

と言う事が出てるわけです。

貧乏人や普通の人が、選挙に出られないような酷い日本の制度。

 そして、更には、日本の場合には供託金を積まないといけないという制度があって、国会議員ともなると、300万円から600万円のお金を、選挙管理委員会に預けないといけない。そして、法律で決められた割合の投票を得られなくなると、没収される。
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 その上で、選挙に出て仕事を辞めてしまうと、再就職も非常に難しくなると言う問題もある訳ですよ。再就職が難しくなるから、議員の椅子にしがみつく。議員の椅子にしがみつくためには、連合の執行部派や宗教団体・日本会議のような、動員力のある組織の顔色を伺い続けないといけなくなる。
 更には、政党助成金の問題も出てくる。政党助成金のお陰で、政党の中枢の意見に反する動きをすると、お金の配分や組織動員の支援が減らされるだけでなく、最悪の場合、次の選挙での公認もされなくなってしまうから、政党の中枢の意見と自分の考えが全く違っても、逆らうことができなくなってしまう。

 これらの事は、末端の人の事を見ない・見てもその人達のために動くことの難しい政治家や、そのような人達をはなから切り捨てるような執行部、国民の要望に答えるよりも、政党間の取引や身の回りの議員やスポンサーとの関係を重視する政党執行部。と言う、ひどい状況を作りだしてるのです。
 そして、それらが組み合わさることで、そもそも「水戸黄門願望」が異常に強い日本の国民性がそれらに噛み合って、「おまかせ民主主義」と言うか、「政治は面倒だから、政治家に任せっきりにしておけばいい」と言う空気のようなものが蔓延することになりました。
 そして、マスコミも、その事を煽り続け、今ある選挙や政治家の大問題を、報道しないどころか、特定の人達・例えば、財界であったり、霞が関の官僚の中でも、今安倍政権を操ってるとされてる経産省などの高級官僚などの利益や意見を、中立な意見に見せかけて、報道する事が、つい最近まで非常に多かった。

政治の主役は、政党ではない一人一人である。

 こういう事が、この日本を、壊していってるのです。そして、上の方では景気のいい話があっても、下の方では全く景気が良くないどころか、どんどん物価が上がり・国保や年金も含めた税金が上がり、どんどんと生活が苦しくなっている。

 いい加減、この手のことを、私達が主役になって変えていかないといけないと思うのです。
 衆議院小選挙区制はやめ、比例代表制も見直させる。議員定数は、国も地方も、せめて、今の二倍にはさせる。供託金制度は、廃止させる。そして、民進党には、国民の方を見てる共産党などの政党との連携を強化させ、与党との裏取引を許させないようにする。
 そういう事を、民進党だけではなく、共産党社民党自由党を含めた野党四党に、まずはひとりひとりの人が働きかけ、その他の政党でも、維新の会のように自民党のアリバイのためにあるような政党以外の政党の人へと働きかけていかないといけないと思うのです。
 私達が、政治を変える。野党に期待するしない以前に、野党に対しては、こちらから意見を言う事を沢山の人が、自分の言葉と考えで伝えることで、野党を変えていく。という心意気が、崩壊を迎えてしまった今の少し後を、今よりマシにしていくために必要なことだと、思うのです。

自分たちの思い込みだけで社会を動かそうとする厄介な人々。

 週刊少年ジャンプという、中学生か小学生高学年から中年程度の広い年齢層の、主に男性を主な「お客」としている(実際の所、女性も沢山買ってるし女性をお客とするページも結構ある)漫画の週刊誌があります。
 ここで連載されてる「ゆらぎ荘の幽子さん」と言う作品で、女の子のセミヌードが出てきていることなどが、セクシャルハラスメント・セクハラだとか、性暴力を賞賛してるなどと、今更ながらバッシングを受け始めています。この事は、非常に問題があるな。と思うのです。これは、今年の5月18日に書いた「声の大きな人達だけに、社会を任せては、社会がダメになる。」の続きです。

週刊少年ジャンプ批判」の経緯。

このような主張をし、週刊少年ジャンプ編集部に「申し入れ」をするという人達の動きを見ていると、以下のように整理できると思います。

  • 偶然、週刊少年ジャンプの扉絵を(多分、出版社等に無許可でアップロードされた写真で)目にする。
  • 扉絵の女の子たちが半裸であったことに憤慨し、漫画の本体を読むが、そこではいわゆる「ラッキースケベ」が多く用いられており、これは「性暴力」を賞賛してるなどと怒りが湧いた。
  • こんな「性暴力」を賞賛する作品が少年向けに許されるのか!子供に対する悪影響を考えろ!と、主にフェミニストフェミニストよりの左翼運動家に拡散し、その人たちが更に拡散する。
  • この、「怒り」が共有されてしまう。
  • そして、出版社に抗議しよう!ネットの中と外で糾弾しよう!と、「怒り」を共有した中で盛り上がる。
  • 当然、事実に反する話が沢山あって、しかも、作品の文脈をかなり捻じ曲げてる形で共有されてるので、その手のことで「無実の罪」を着せられてきた経験を持つ人たちから、批判が殺到する。
  • 「怒り」を共有した人達は、この批判を「差別者」「子供の敵」「性暴力を認める」など、全く事実と反するレッテルを貼る。
  • 対立状態が長期間続く。

 こんな経緯を辿っています。そして、この経緯は、この30年間何度も繰り替えされてきたわけですよ。創作してる側も、編集や出版してる側も、大半の受け手も、全く意図していないような「差別」「暴力」を「直感的に」見出した人達が、作品の文脈や意図やストーリーを無視して、怒りをぶつけ、出版社に圧力をかけてやめさせようとしたり、警察や役所に働きかけて青少年健全育成条例の類で「自主規制」をさせようとしたり、はては、そのような事が自動的にやられるように、条例や法律を変えるように動き・その運用の現場に自分たちの代表を送り込む。

「怒りの共有」が、日本の性を狂わせ・少子化や孤立化に追い込んだ。

 そのことで、日本の文化や青少年の「性」に対する意識は、非常におかしなことに追い込まれてきました。
 ある表現や性的な行動全般を、「青少年のため」「子供のため」と言うきれいな言葉やなんやで、法律で取り締まらせる。そのことが、人々を「性」から遠ざけ、「性」に対するややこしさを不当に大きくし、そして、「それならば『性』に触れないほうが政治的に正しいのだ」と言う事が当たり前のように社会で共有されて、少子化孤独死・高齢の孤独者という問題が、無視できなくなってる。

 このような事が、ある種の人達の「自分がそう思うから」で推し進められたことの中では、事実に反する事を諸外国に流し・それによって、日本に対する批判の声を強め・その「声」をバックに法制度が作られてしまうという事が、当たり前のように行われてきました。1996年のストックホルム会議では、「日本は児童ポルノ大国」「漫画も含めた児童ポルノによって、青少年が汚染されている」と言う、非常に一方的で・しかも、事実と著しくかけ離れた報告が、日本のフェミニズム団体によって行われました。これを基調にして、諸外国からの圧力が強まり、1999年の「児童ポルノ・買春禁止法」の制定や、2000年代の各都道府県等での、青少年健全育成条例の強化につながるわけです。
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これが、何をもたらしたかと言えば、

  • 「自分の写真を撮ってネットにアップロードしたり、知人等に渡した中高生が、”児童ポルノ製造罪”で逮捕される事例が、物凄く多くなった」
  • 「18歳以上の男性と真面目に交際していた中高生が、交際が親にバレて、親の意向で警察に告発され、男性が処罰される」

などの、明らかに、人権侵害としか言いようのない事態が沢山起こった上に、過剰な検閲が正当化されて、表現等も著しく委縮してる。ということなんですよ。
 そして、問題の児童虐待や性暴力事件については、この数年間は運用の改善がされて処罰なり保護なりがある程度はされるようになってきましたが、しかし、そこまでは放置されてる話が非常に沢山あったし、今だってそんなに改善はされてない。

「自分たちの思い込みで社会を動かす人々」を乗り越えるために。

 こういう、「自分たちの思い込みで事実にないことをあると考え・その事を押し通すためにウソまでついて外国を動かし・結果達成されても多くの問題は却って悪化する」と言うサイクルを、もうそろそろやめにしないといけないと、私は思うんですよ。
 こういうサイクルの中には、ごくごく少数の人達の「怒り」や「情念」が、社会全体を動かすだけではなく、その事に疑問を持つ人や内容ややり方に批判的な人達を「悪」「抵抗勢力」として、過剰なスティグマや悪のレッテル貼りをする事が含まれてる。
 このことで、後で何か重大な問題が起きた時に、その被害者達の声が、全く届かない・全く社会に反映されない構図を作ってしまってるのですから。

 それを、乗り越えるのは、「怒り」「情念」を共有しようにも共有できない、大半の人達がきちんと声を上げ・社会や政治に対する影響力を行使し、可能ならば何人でも政治家や行政官を代表者として送り込むことと同時に、常時議論を絶やさず・間違ってる人に間違ってると突きつけ続けることでしか、出来ないのだと思うのですね。

バニラエア事件から見えてくる、国の「公共」に対する無責任さ。

 まだまだ梅雨が続き、身体の痛みが結構な状況が私は続いてますが、みなさんはいかがでしょうか。おだいじにしてください。
 さて、昔負った大怪我によって車椅子での生活をしている方が、奄美空港LCC・バニラエアの飛行機に乗ろうとして、車椅子の人を乗せる設備がなかったことと、「ルール違反」を理由に乗機拒否されて、この方が抵抗したり批判を述べたことが物議をかもしています。
 色々と論点があって、「”プロ障害者”が因縁をつけてるだけけしからん」と言う意見と、「バニラエアは障害者差別をしてる」と言う2つの声が非常に多いように思いますし、”プロ障害者”が云々はともかく、障害者差別というのには一瞬頷きたくなるわけですが、良くよく考えてみると、それもそれで違うように思うわけですよ。

 なぜ、バニラエアが「車椅子は事前予約しろ」「事前予約したら断る」と言う、ある意味非常にとんでもない内部規定を設けていたのか。と言う事について、少し深く考えていく必要があると思うのです。

 と言う辺りにあって、それは確かに会社の怠慢もあるのかもしれませんが、低運賃を売りにしてるLCCでは、確かに、そういう直接お金を産む訳ではない部分への予算は、普通の会社より出しにくい。普通の会社ですら、法律の縛りがなければ一銭も出さないようなお金でしょうから。
 では、誰がお金を出すのか?と言えば、今回の場合なら、例えば奄美空港を運営してる鹿児島県であったり、国であったりすると思うんですよ。

国がバリアフリーに対して負う義務は、非常に少なくされている。

 で、国はどうであるか。
 いわゆるバリアフリー法には、国が助成するという義務が曖昧にしか書かれてないんですよね。

http://www.mlit.go.jp/common/000207186.pdf
第4条 国は、高齢者、障害者等、地方公共団体、施設設置管理者その他の関係者と協力し
て、基本方針及びこれに基づく施設設置管理者の講ずべき措置の内容その他の移動等円滑
化の促進のための施策の内容について、移動等円滑化の進展の状況等を勘案しつつ、これ
らの者の意見を反映させるために必要な措置を講じた上で、適時に、かつ、適切な方法に
より検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるよう努めなければならない。

 要は、地方公共団体(この場合は鹿児島県)と事業者(この場合はバニラエア)の自助努力に依存してて、とにかく自分たちのお金で何とかしなさい、国も補助しますが補助はあまり期待しないで。と言う構造になってる。
 そして、鉄道の駅に関しては国の助成割合を「指定設備(エレベータなど)の費用の三分の一以内」と言う規定があっても、空港の設備については、調べた範囲では見つからなかった。

起こるべくして起こった、「バニラエア事件」。

 バニラエアーの今回の騒動は、起こるべくして起こったことだと、私は思うのです。
 国が、必要な予算をきちんと付けずに、義務だけおっかぶせて、実際の措置は空港や航空会社の「自己責任」で済ませている。
 これでは、財政的に厳しい自治体が運営してる空港や、お金の余裕のない航空会社が、どんどんバリアフリー化を先延ばしにしても、当然だと思うのです。

公共と、地方を見捨てることで国を壊していった35年間。

 1980年代の中曽根内閣以降、この国の公共交通は「規制緩和」の掛け声と共に、全国均一のサービスを放棄し、国がお金を出さないようになっていきました。
 これは、バリアフリーの問題に限らず、例えば路線バスなんかもそうなんですよね。都会に住んでる人にはわかりにくいでしょうが、その周辺ですら、相次ぐ減便と、運賃の値上げのどちらか・もしくはその両方で、地元の人達がどんどん不便になってる。自家用車の使用に、国が追い込んでいったと言ってもいい。
 例えば一時間に三本あって、誰もが座れたバスが、減便を繰り返して、一時間に一本も来なくなり、毎回満員なのにバス会社が増便をしないものだから、どんどん混雑が酷くなる。と言うような話は、普通にある。
 社会全体が豊かで、若い人も多く、大半の人が自家用車を持てた時代ならば、それでも問題は表に出てこなかったのですが、高齢化や人口減、なにより、貧困の悪化によって自家用車をそもそも維持できない人が増えた現状では、バスに期待される部分は大きいのですが、バス会社は採算性を気にして増便どころか減便や運賃値上げを繰り返す。
 それによって、都会に人は出ていくし、貧困化も進む。
 そして、コンパクトシティという解決策は、単なる問題の先送りだと思います(別の機会に書きますが)。

 地方社会の再生産可能性を国が率先して放棄して、専ら自治体にその責任を押し付け、大都会だけが優遇されるように制度を変えていった。そして、その恩恵を最も受けているはずの東京ですら、人口流入は多くなってるのに、都民の所得も税収も減る一方。

けなすべき相手を間違えてないか?

 バリアフリーと言う問題にせよ、公共交通にせよ、国がきちんとお金を出して、地方や自治体や運用会社の財政規模で、悪い意味での不平等が発生しないようにすることが国という存在の存在意義であるはずなんですが、その部分を放棄して35年が過ぎ、マスコミはこの「ネグレクト」を賞賛こそすれ直そうということを言わないし、世の中の風潮自体も、「地方はワガママばかりいってる」「カネをたかってる」と言う議論ばかりが容認されてきました。
 今回のバニラエア事件で、この問題を告発した方が、「プロ障害者」を自称していたことなどをあげつらって、色々と罵ったりしてる人が相当数いるというのも、その人達にとっては差別してるつもりはなくて、自分たちの取り分すらないのにワガママ言うな。と言う気持ちなのでしょう。

 しかし、考えてほしいのは、なんで取り分減らされてるか。ってことだと思うのです。
 森友事件にしても加計事件にしても、国が、特定の政治家やお役人にとって都合のいい人たちに、色々と便宜を図り、地方公共団体にお金や土地を差し出させたりまでして、身内の業者に利益を提供している。と言う事が非常に当たり前のように行われるようになってる。
 株価や為替の市場に、年金を始めとするお金を何十兆円。ひょっとしたら百兆円以上も突っ込んで、無理やり相場を釣り上げ、大企業の株だけを買い支えるようなことまでしてる。
 その反面、バリアフリーにせよ公共交通の充実にせよ、非常に多くの人の利益になるだけではなく、国全体の衰退を食い止めることにもつながるようなところには、財務省にせよ担当官庁にせよ、お金を出さない。出しても、非常にケチってくる。
 財政悪化を口実にしているのに、減らすべきを減らさず増やし、そして、減らすべきじゃない所を減らすのを、長いこと繰り返してるのに、批判は非常に少ない。

 この構造を、変えていかないといけないのだと思うのです。それをやろうとする・変えていこうとする政治家を支えると同時に、私達の側から政治家を出していく必要がある。お金の出し方を正常化しようとした鳩山内閣は、人々が「水戸黄門」を求めすぎたことと裏腹の「支える意識のなさ」によって、マスコミや一部官僚のウソ・デタラメに振り回されて潰されました。
 それを、こんどは繰り返してはならないと、私は思います。

 明日は、都知事選です。東京都の人は、豊洲市場のように、汚染が酷い上に、今の状況ですら毎年百億円以上の赤字が出るような設備に移転することをいいことだ。と言うような政党に投票することや、棄権すればそのような人達が当選してしまうことが本当にいいことか、考えて、投票に、ぜひ行ってほしいと思います。

前回の書き込みも、どうぞ。
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp

エリートが壊れすぎている。

 最近、政治家・とりわけ、自民党の政治家の暴言や裏献金がいくつも表に出てきただけではなく、公明党が都議選で共産党を(第三者が見てもそうだと思えるようなずさんな形で)誹謗中傷するのを表の広報がしたりなど、ろくでもない話が幾つも出てきています。
 企業も企業で、東芝の破綻問題について、何故か中国資本からの買収を拒み続け、「日米韓連合」での買収を推し進めたのはいいのですが、半導体事業の買収を検討していた合弁相手のウエスタン・デジタルの働きかけを固辞しつづけ、メモリ事業の業務で使っていたネットワークを遮断してウエスタン・デジタルの技術者を締め出すようなことになっている。
www.nikkei.com
 更には、FIFAワールドカップの招致に際して、規定の何十倍もの高額な商品などを開催先を決める人々に、日本側から送ったりなど賄賂攻勢をしていたことが、FIFA側から明らかにされた。
www.asahi.com
 色々と見ていると、この国の中枢を担ってきた人々が、まだまだ隠したいことや表に出したら罪に問われて偉い人たちが皆刑務所に入るよりなくなるような、巨大な犯罪を、複数犯しているのだろう。としか言い様のない状況ですし、それに対して人々がどこまで怒ってるのか。と言うのが見えにくい状況でもある。

「積極的に自民党支持」の次世代のエリートたち。

 さて、四月ですから森友事件が盛り上がっていて加計事件はまだ本格化するかしないかの頃ですが、東大生に対して、あるアンケートが取られて、その結果が話題になっています。
 「東大生の約四割が自民党支持で、野党支持者は、その十分の一くらいしかいない」。
 こんな結果だったのですが、今の内閣だけではなく、統治構造そのものが、長期間続いてきたことでの著しい腐敗や傲りの自重に耐えきれなくなり始めてるのは、夜のニュースであったり国会中継であったりを見ているなら相当部分感じ取れるはずなのですが、なぜ?と言う事を考えるわけですよ。
www.businessinsider.jp
 数年前から、若い人たちの間で「自民党を支持してないと恥ずかしいから、自民党に投票する」と言う言葉が結構出てるらしいという事を目にしていて、それも含めて、非常に危ういなと思っていたのですが、上に挙げた記事の中身を見ていると、更に拍車をかけて危ういな。と思うのです。

 結局、場の空気や目先の利益ばかりが大事で、それが長期的にどういうことをもたらすかとか、歴史的に、どのような役割を果たし、この社会がどのように変化し・壊されていったか。と言う部分への視線がごっそり抜け落ちている。
 これは、今の若い人に限ったことではなく、私が若かった30年前も、殆ど変わってなかったんですよね。その前の世代では、まだ空気に呑み込まれてはいけないという風潮が相当残っていたのですが、私の世代になってくると、場の空気であったりサル山のボスであったりの言う事が正しく、それが酷い結果を産んだり著しい不正や汚職の結果行われたとしても、それはどうでもいい。と言う風潮が、非常に強くなっていた。

 しかし、少し将来のエリートが、ここまで現状肯定と言うより、腐敗してる上に「下」にいる、「仲間」でもない普通の・沢山の人々を大事にしないでサル山のボスの利益のために使い捨てにするのが当たり前のような構造に全部乗っかって、そこにしがみつくことこそが正しいと、曇りなく信じているというのは、非常に恐ろしいことだと思うのです。

過剰に現状を肯定して流されることで、この国は壊されていった。

 まぁ、私が学生であった30〜25年前とさほど変わらない気もしますし、それ故に、今の日本の崩壊に対して、社会の実務を主導してる私達の世代が有効な策を講じることなく、その少し上の世代が作った腐敗や日本破壊の構造を唯々諾々と受け入れて流されてるとも、私は思うのですが。

 国にせよ社会にせよ、うまく廻っていて、98%の人にまともな暮らしと人間らしい生活を保証できているならば、現状を丸呑みするのでもいいでしょうけど、そのような状況というのは、ものすごく意識して続けていかないと長続きしないし、すぐに腐敗する。そして、今の日本はと言えば、団塊世代の引退によって起きた人手不足のお陰で新規採用やアルバイトは増えてきたものの、未だに給料は安く、給料が上がる 以上に税金や公共料金が値上げさせられ、仕事に就けたはいいけど長時間のサービス残業や休日出勤は当たり前・結婚できても子供を産み育てるための育児休暇を取れば罰を受け、そもそも結婚相手を見つける気力すら残らない。と言う人が大半を占めていて、しかも、働くのが容易ではない人たちへの福祉はどんどん削られて、生きづらさが増すばかり。
 これは若い人に限らず、メディア露出を頻繁に行ってる、東大在学中に若い時に革新的な見解を出したはずの「哲学者」「思想家」やその他の多くの「文化人」ですら、現状肯定に過剰に傾いていて、政権批判や一部の官庁批判は間違ってるだなんだと屁理屈中心に話を捏ねて、それを老若男女問わず多くの人が拡散してる始末ですので。

知識人にもエリートにも「教養」が欠けている状況を、乗り越えないと。

 ある程度、現状を見通して、それが一体何であるか考え・何が大事であるかという哲学があるならば…それは、エリート予備軍であるからこそ強く求められている「教養」なのですが…、現状は徹底的に変えられねばならないし、今の与党や内閣や内閣に付いている官僚というものが、支持すべき対象ではなく、排除されるべき対象だと言う事が、感じ取れると思うのですが。
 しかし、そうではないということが、この国の「知」の崩壊を象徴しているように思うのです。

 私達に必要なのは、現状が苦しいなら・辛いなら、それを変えたいという意思表示し、動ける能力のある人は積極的に動いていくということだと思うのです。市民運動だなんだと徒党を組むだけがやり方でもないし、政治家にロビー活動するだけがやり方でもなく、もっと色々と未開拓なことがあるとも思うのです。「知識人」「偉い人」に流され、彼らの意見の受け売りをするのではなく、彼らの言うことは耳に入れつつ、間違ってるなら間違ってると意思表示し、彼らをも乗り越えようとしてみる。
 できるだけ多くの人が、自分が出来る場所で、自分が出来る範囲で色々とやっていくことが、繋がっていき、時には激しい嵐となり、時には穏やかな波となって、社会の有り様や行く先を「流されない」ように軌道修正していく。

 そういうことを、やっていくのが一番いいのではないかと、私は思うのです。

共謀罪が出来た今、絶対にすべきこと。

 間が空いてしまいました。
 さて、共謀罪(政府と言うか政権は、「テロ等準備罪」だと言っていますが、なぜか、テロ関連の処罰対象が殆ど無い)が、あまりにむちゃくちゃにルールをぶち壊す形で強引に成立させられてしまってから、一週間が経ちました。

※お急ぎの方は、下の目次からどうぞ。

 

 この間起こったことは、森友学園加計学園にまつわる疑獄事件で安倍総理やその周辺・日本維新の会などの「衛星政党」の政治家たちなどが、「特区制度」「美しい国」などのスローガンをかくれみのにして、汚職と贈収賄と、何より国家財産の私物化をして、国のお金・国富を半ば非合法な方法すら使ってどんどんと内輪で喰い荒らしている事の入り口が明らかにされ、野党四党(民進・共産・社民・自由)が厳しく追求をし、それをマスコミがきちんと取り上げ・後追い検証や多くの要人の証言すら報道するような奮闘をしてきたにもかかわらず、今の政権などはその「権力」で、それをなかったかのようにしようしようと逃げ回り・表立った恫喝すら頻繁にやってきた事と同時に、この共謀罪の事があったわけですよ。
 口先では「丁寧に説明する」などと、マスコミも巻き込んで言っておきながら、実際にやるのは「一方的な説明」と、彼らが好む言葉で言うなら「印象操作」ばかりで、国会では与党や維新の会がおべんちゃらを言うのにはニコニコと答弁するのに、いざその他の野党が問題点を突き始めたら、長々と関係ない話を繰り返して質疑時間を潰し、大臣が答弁しろと要求すれば官僚を出して代弁させ、更に突っ込まれると逆ギレして恫喝すら繰り返す。
そんな事で、国民の権利を護ることなど無理だろう。と、マスコミの多くですら、呆れて政権批判を加速させる結果になってる中、「自分たちが設定した質疑時間が費やせたから、十分に議論は尽くした、採決だ」と無理やり採決に持ち込み、そして、成立させて。施行は、7月11日だそうで

 この辺りで、「安倍政権とは、経産省や警察などの一部官僚や日本会議の中枢部が、安倍晋三を担ぎ上げた経済マフィアではないか?」など、色々と書きたいこともありますが、今回は、「共謀罪が施行されたら、どうしようか」と言うところに話を絞ります。

 

逮捕されたり脅されたりした人を、孤立させない。

 今回の共謀罪、主導権を握っているのは、公安警察ではないかと、私は見ています。公安警察は、大昔から・それこそ、私が「社会が壊され始めた時代」と言ってる1970年代から、別に「過激派」に限らず、社会が常識としている・ステマのようなことに強い異議を唱えている人達や、その意見に同調する人たち、後は、当時の自民党政権霞が関に都合の悪い政党や政治家などに対し、不法な家宅捜索や別件逮捕、盗聴だけではなく、「協力者獲得」と称してのスパイ行為まで頻繁に行ってきた組織であるのですが、この人達は、時の権力や権威に都合の悪い人たちを、逮捕して、逮捕したのを隣近所や職場などに言いふらしたり脅したりなどして、逮捕された人達を社会的に孤立させることを非常に多く用いてきています。

 共謀罪の本質が、「いつでも誰でも逮捕できるようにして、時の権力や自分たちに都合の悪い話を、誰にも言わせないようにする」物にある以上、今までやってきたことを、あらゆる人に・それもランダムに近い形でやって「生贄」にするだろうと、思っています。

 その時に、逮捕の理由がなんであれ、中身は問わず、まずはその人を孤立させないことが大事だと思うのです。逮捕された人の考えがが気に入らないとか間違ってると言うのなら、逮捕された人を孤立させないようにしつつ、批判できる関係を作っていきましょう。
 
 仮に、隣近所の人・友人・職場の同僚・上司・親戚などが逮捕されたとしても、前と変わらず付き合ってやってください。そして、逮捕などの中身が不条理だと思ったら、その人と一緒に怒りを表明してください。
 それが、実は、共謀罪を使いたい人達にとって、一番イヤなことでしょうから。

逮捕されたりしたら、泣き寝入りしない。

 共謀罪で逮捕されて、逮捕された場合には、暴力的な方法で自白を強要してきたり、警察などが掴んでた弱みを色々とちらつかせて(そこには、他人に見せられない、恥ずかしい趣味や交友関係も含まれるでしょう)、罪を認めろとか、隣近所や友人の事を告げ口するスパイになれとか、色々なことを、要求してくるでしょう。
 でも、全て断りましょう。あなたには、弁護士が(殆ど手弁当で)付けられるのですから。
 身の回りに弁護士のつてのない人は、救援連絡センターを覚えておくと良いでしょう。

 電話:03-3591-1301 。

kyuen.jp

 とにかく、逮捕されたとしても、あなたは孤立してないです。多くの人達が、あなたのために一緒になんとかしようと動こうとしているのです。

黙らない。ふてぶてしく黙らない。

  既に起こり始めていますが、共謀罪を使って逮捕されるのを怖れて、政権批判や戦争反対の声を上げることを止めている人達が出ています。でも、それこそが、共謀罪という法律を、今の政権と警察が、違法・脱法としかいいようがないようなやり方で無理やり法律に仕立て上げた理由なのです。
  「国家」というものを使って、私腹を肥やしたり人々におかしなことを無理強いしたりなどの悪いことをする人達は、自分たちが「スピード感」を発揮できる最大の障害が「国民が黙らないこと・従わないこと」だというのを、直感的にも学問的にも、感じ取っています。
  だからこそ、なおさら、私達は黙らず、小さなことであっても声を上げたり、声を上げないまでも周りの人達やネットで繋がった人達と話し合い、何か動こうかとなったら、積極的に動くのを、ふてぶてしく・ふてぶてしくやっていくべきだと、私は思うのです。
  それ自体が、「共謀罪は不要・有害」と言う議論を、後押ししていくことになるのだと思います。

共謀罪の廃止を、政治家やマスコミに絶えず要求し続ける。廃止する政治家に政権交代させる。

 大抵の法律は、出来るまで大揉めしても、すぐに風化してしまうものです。マスコミはたまにしか取り上げなくなり、世間の関心も薄くなり、政治家も、廃止しないとまずいと思いつつ、強く廃止に動くだけの後ろ盾を得られず…ぐずぐずと法律だけが暴れ続けてしまう。
 共謀罪は、そうしてはいけない法律だと、私は思うのです。
 安保法制こと戦争法や特定秘密保護法、種子法・農業関連の法律改悪なんかも廃止させないといけない部分が相当ありますが、共謀罪は、それに更に輪をかけて、日本の根幹を新幹線並みのスピードのブルドーザーでぶち壊すことになる法律ですので。


 その上で、やはり、真面目に今までの問題に向き合い・廃止すべき法律を廃止させようとか、手続きがおかしい法律や政令を見直していこう。廃止も厭わない。と言う政治家に、頼りないけど政権交代してもらって、その代わりに、私達一人ひとりが彼らがおかしなことをしないように監視し・不満や疑問があれば言葉を届け、彼らの目に見えてない不都合がこちらにあるなら指摘して、変えさせることを突きつけられるような、「今までの日本ではない、新しい、国民と政治家の関係」を作らせる必要がありますね。

 もう、「水戸黄門」を望まないし、「水戸黄門」にもさせないような、新しい、関係を。

 だから、この間の国会で、恫喝や自民党のネットサポーターズの誹謗中傷・嫌がらせなどに屈せずに、森友や加計の問題で政府や大臣や総理を厳しく追求してきた野党四党の議員たちを、私達が後押しして、少しでも早く政権を持たせ、共謀罪を始めとする法律を、もし、その時に彼らが渋ったとしても、一旦廃止させるだけの状況を、作っていかないといけないと思うのです。

信用を自分から捨てていくということ。

 ここ最近ずっと問題が盛り上がってる加計学園の疑獄問題にせよ、森友学園の問題にせよ、政府や与党の側は、法律の決める所を無視するのに非常に力を入れてるのがバレてきていて、しかも、お役人が与党の顔色をうかがって、あるものをないといい続け、無いものも都合が悪いものに関してはあると言ったりするのが当たり前になってますよね。例えば、文科省の前次官の前川喜平氏が、加計学園への「えこひいき」に総理官邸からの強い圧力があったと書類を出して内部告発したのに対しては「ない」「怪文書」と政府が言い続け、前川氏が出会い喫茶で買春に明け暮れていたという「ないこと」を、あたかも本当であるかのように読売新聞などを通じて報道させ、他の媒体はきちんと検証してから報道しようと取材したら、買春などしてなくて、本人の趣味だか自分の家が運営してる財団のためだかの調査や取材が目的だというエピソードがゴロゴロ出てきたりしたのが、一番最近の話でわかりやすいでしょう。
 そして、共謀罪にしても、とにかく共謀罪を作って政府や警察が気に入らない人や政府や警察の邪魔になることをやろうとする人を、いつでもどこでも逮捕できるようにするのが目的になってて、野党が共謀罪のずさんさや邪悪さを正すように問い詰めれば、それに対して、政府もお役人も全く関係ないことを長々と時間稼ぎで答弁し、中身がないまま30時間過ぎたからと強引に採決に持ち込んで法律にしようとしてる。

 これらの事には、色々な問題があるし、多くの人が問題を言ってますね。しかし、私がここで書いておきたいのは、これらは、「政治や行政・報道への人々からの信頼感を失う事になっていて、それを信頼されてきた人々が自分からやっている」と言う事なんですよね。

 

大半の人々が社会に持ってた「信頼」を悪用して、社会を私物化してきた人々。

 この国では、役人にしても政治家や法律にしても、たまにおかしな人がでて私物化しようとするけど、それを押しとどめる力もあれば、おかしくなっても直されていく。と言う、信頼感のようなものが、ありました。そして、それらが、実は、法律を大半の人が守る根拠になっていて、相当部分の秩序を形作って来たと思うのです。
 そして、これが壊れるということは、実は、法律や行政や政治が信頼を失い、それらで「おかしな人々」が好き勝手放題できるようになる。と思いがちだし、実際、2000年頃からの国の与党や市長・知事と言うのは、「改革」「聖域なき改革」と言う「美しい」言葉をマスコミに言わせて政治を独占する事にかまけてきた人々が少なからずいるのですが(小泉純一郎元総理大臣や中田宏横浜市長が象徴的と言えるでしょう)、しかし、それはほんの一時期に過ぎないんですよ。

 確かに、「改革」などの美しい言葉を隠れ蓑にして、行政を私物化し、国や市町村の持ってる財産を私物のように取り巻きの人々に安く売り渡し、社会福祉や公共交通のようなインフラですら「ぶっこわし」取り巻きに安く売り払うことで、その人々は、莫大な利益を受けてきました。しかし、それは、彼らがわかってかわからずか、その地域の社会や日本の社会全体を壊していく事に直結しているのです。
 何しろ、ある種の人々がマスコミの作った「虚像」を使って偉い地位について、やりたい放題して、しかも、その事を批判させないように色々手を回したり(中田宏の場合は、反社組織との交際を垣間見させる記事を週刊現代誌が書いたのに対して、警察に告訴して警察が講談社を家宅捜索し、記事を止めさせたばかりではなく、裁判では週刊現代側の報道内容が正しいと認定されたにも拘らず、中田宏が勝訴したりしてます)、その事で、警察もお役所も自分の都合のいいように動かして法律などないかのような状況になるということは、法律自体を無意味化し、「ばれなければいい」を通り越して、「警察やお役所が見逃してくれればいい」「偉い人に付いて、警察やお役所を自分のために動かさなければ損だ」と言う人々を、多く作りだすことになった訳ですからね。

 それは同時に、そのような事にできない立場の、大半の「庶民」とも言える人々からすれば、法律を守って自分が損をするばかりになるのですし、偉い人達のさじ加減一つで逮捕や有罪になってしまいかねない状態そのものなのですから、最終的には、自分で自分を護るよりなくなるし(先日書いた、痴漢冤罪の蔓延が線路に下りて逃げる人々を産み出したのも、その一つの形です)、それは、法律など守るな。法律など自分の利益の邪魔だから、積極的に破るのが「かしこい」事なんだ。と言う社会風潮に結びつくわけですよ。

 

破壊された信頼を、取り戻すには。

 それは、すでに出始めてる。
 少し前から、飢えをしのぐためにコンビニ強盗をする人々が頻繁に報道されてましたが、最近はそれを通り越して、普通の感覚では理解しにくいような動機で、白昼堂々強盗や暴行事件を起こすという事件が2日にいっぺんくらいは全国報道でされるようになってるように思います。今まで陰に隠れてきたような犯罪が、白昼堂々・それも今ひとつ理解できないような理由で出ていて、それを考えていくと、結局は法律などよりも自分の利益や欲望を満たすほうが正しい。と振り切れた人々が、多く出てる感じが、とてもするんですよね。

 果たして、私達は、どうすべきか。
 非常に困難な問題ですが、思うのは、これをいい機会に、私達を縛ってきた法律や福祉などの根拠になってきた法律などを、一度真剣に考え・議論に持ち込む事と、後は、法律や「公共」や秩序と言うものを、きちんと私達の手に取り戻していく流れを作っていかないと、どんどんおかしくなっていくのではないかと思うのです。
 法律を守るというのは、道徳での縛りにもなっていて、それが逆に、このような状況では、人々に法律を軽んじさせる理由にしかならないのですから、まずは、私達が政治と秩序自体を私達の手に取り戻し、建て直していくのが、多分、この社会をまともに戻していく道なのだろうと、思うのです。