高度経済成長と管理教育が招く、日本社会の破綻。

前の記述でのコメント欄で、具体的にどういうことだろうかと質問があったので、当初の予定を変更して、少し、管理教育について書いていこうと思います。

1970年代。安保闘争ベトナム反戦運動に代表される学生運動の政治的課題が一段落し、その後の方向を模索する中で、内ゲバが起こされました。これは、鈴木邦夫によると、左翼運動や学生運動の中にいる公安警察の協力者が、彼らの意を忖度して組織間の対立を過剰に煽り・自分が協力者だとバレないために過激化させていったとのことですが、このようにして学生運動と大衆が切り離された時期には、上尾暴動に見られるように、労働者も又、労働運動や学生運動と対立していた時代でした。
この70年代の「怒れる若者」の多くは、暴走族などに参加していたと思いますが、それに対する文部省側の「対策」として、70年代末期から90年代前半にかけて、徹底した管理教育が広範囲の学校現場や地域社会に導入されていきました。

最も過激であった愛知の管理教育の実例を記述してるサイトをいくつか紹介しますが、

・とにかく管理 http://toppy.net/nagoyanow/edu2.html

・素晴らしき愛知の管理教育 http://togetter.com/li/175355

これらのサイトにある話は愛知県などの「管理教育先進自治体」に限ったことではなく、私が住んでた神奈川県でも相当部分が行われていました。
明らかに意味のない服装検査や個人の家での私生活にまで踏み込んだ生活統制、丸刈り等での髪型等の画一化や、後はこれらには殆ど出ていませんが、「軍隊式」と呼ばれる旧軍のスパルタ的な軍事教練を真似た体育教育に、教師の暴力への最大級の承認。これとセットにされるように、学校生活の個別の状況下で、班単位での積極的に行われたり体育でもマスゲームや組体操的な物が重視されていたりもしており、これらは「集団に従わない個人」や「自分の能力的に集団に従えない個人」に対して、「(集団に)迷惑をかけるな」と言う「美名」の元で、どんどん攻撃し・最終的には排除していく事を集団全体に奨励するような形になっていっていた事があった訳です。

従って、多くの人が、学校教育で、「その場の空気を掴んだ人や(政治的な)強者にはご無理ごもっともで従うよりない」「暴力を受けても、暴力を受けた自分に原因があったと自分を責めるのが先だ」「集団が失敗した場合、自分が責められないためには集団に最大限従う」と言う、保身術・処世術を身体感覚で叩き込まれていった訳です。

これらは、程度の差はあれ全てセットとして学校現場に持ち込まれていたし、多くの都道府県(東京都はわからないですが)では、これらに、学校がない時の外出制限や学校の承認のない個人的活動の全面禁止などがセットにされ、地域ぐるみで子どもたちを監視する・それも、治安対策として徹底的に個人を弾圧するような形で子どもたちを監視する。と言う構造が、至るところに出来ていった訳です。

90年代なかばに、管理教育を原因とする死亡事故や自殺が立て続けにあったことで、この手の管理教育は表面上は相当緩和されましたが、近年と言うか2000年代に入るか入らないかになっても、石原慎太郎東京都知事になった時に、青少年問題を取り扱うセクションとして「青少年治安対策本部」を立ち上げ・東京や神奈川主導で、青少年健全育成条例(青少年保護育成条例)を、特定の宗教じみた価値観で子どもたちを縛るものへと変質させていった動きが全国的にありましたし、最近問題になった組体操問題のように、未だに集団を重視し「集団に迷惑をかける個人は許さない」と言う風潮が根強くある訳です。(ネットの炎上の半分くらいも、この行動原理に依存するでしょうね)

管理教育と高度経済成長が招いた、エゴイズム。



そういう中では、個人の尊重とか差異を認めるなんてのは「きれいごと」でしかない訳ですよ。もう少し言うと、明文化されてる法律よりも、明文化されてる憲法よりも、校則とか職場の空気とか社会の空気みたいな「その場の(明文化されてない)ローカルルール」の方が、大事になる。法律や憲法も含めた「きれいごと」を認めていたら、その場が廻らないでしょう。と言う事が、そこかしこで頻繁に繰り返されることに対して、それが当たり前のことだという「常識」が、暗黙の内に出来上がってしまってる。

個人の尊厳も差異も、集団がうまく廻ることには全く劣るとなると、その場の集団はそれで見た目はいいのでしょうが、その集団にせよ、もっと大きな単位の集団の中の一要素に過ぎないわけですから、当然、その中の他の「一要素」である集団との衝突は頻繁に起こりますし、それ以上に怖いのは「合成の誤謬」とでもいいますか、「一要素」が他の「一要素」と軋轢なく過ごしたり、もっと上の集団をうまく廻そうと必死になる時に、それが近視眼的であったり短期的なことしか考えてなかったりすると、容易に、集団全体がおかしなことをやってもおかしいとは思わずにそのままおかしなことばかりをがむしゃらにやるようになりがちなんですよね。

ブラック企業が絶えないとか、その中で個人が過労で仕事できなくなっても放置されたり、自殺しても状況が悪くなったりするのは、いい例でしょう。

エゴイズムが招く、合成の誤謬と社会全体の破綻。



これは、国についても言える部分が相当あって、例えば財務省は税金をたくさん取りつつ、支出を削り・高官たちの天下り先を用意してくれる企業や法人に重点的に予算を配分したり重点的に減税したい。と言う行動原理で最低でも冷戦終結後は一貫してて、そのことで、所得再配分がおかしくなってて、その事を他の省庁が改善しようとしてもなかなか予算承認しなかったり、逆に予算を削れと迫ったりするわけです。

お金の流れを決める最上流がそういう状況で、他の省庁も、個別のセクションでは善意があっても、集団で見ると自分の省庁が自由に使える予算(特別会計)を増やしたいとか、自分のセクションと繋がってる人に多く仕事を出したいとか、後は、天下り先を増やしたいとか、そういう事が集団全体では優先されていくんですよね。

で、そのような流れというのは、通常の国であれば、マスコミが一定の疑問を呈すると同時に大衆が声を上げるのを助ける役割を果たすものですが、日本では、記者クラブ制度が強固すぎて、マスコミが省庁に過剰に配慮して、明白な汚職ですら批判を手控えてきた歴史があるわけです。これも、合成の誤謬と言えるでしょう。

そういう、合成の誤謬が社会全体という非常に広い範囲にまで蔓延し、しかも、そこを糾したい人や、不都合をうけて困ってる人が声を上げれば、その他の人達がなんだかんだ言って攻撃したり・攻撃はしなくても蔑んだりするような状態が、長く続いてきてるわけです。要は、ややこしいことは「水戸黄門」に任せておけばいい。不都合を受けてる人達は、どうせ、怠け者や半端者なんだから、自分たちが共感して某かする必要もない。と言う、非常に冷淡な・個人の窮状に対してと言うより社会全体に対して冷淡で、結局は目先と数年程度の短い期間のエゴを満足させるだけの人達が、管理教育に代表される社会教育のありようによって、社会の大半を占めるようになってしまっているから、結局、社会構造の上の方でそれこそ後先考えずにめちゃくちゃやるのを、誰も止められないし方向を変えることもできない状態になってる訳です。

ここを、なんとかしていかないと、日本社会は全面的な崩壊を経ても、更に危ない人々や、外国のエゴを代弁するだけの人々に食い荒らされていき、その内そのような人達の大半は日本から逃げ出すでしょうから、諸外国が事実上統治するよりなくなるのではないかと、私は思うのです。