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水戸黄門を期待してばかりでは、駄目になるだけだ。

一昨日(12月13日)、オスプレイが墜落しましたが、「不時着」と言う、事故の深刻さを和らげるかのような言葉を、マスコミが「自主規制」で使い続けています。又、もうすぐ閉会になる国会では、反対する人が非常に多いTPPとカジノ法案が、殆どマトモな議論もされずに、数の力で無理やり可決・成立させられました。
どちらも、このブログ的には言及すべき話なのですが、まずは後者について書いていきましょう。

強行採決と無視ばかりの、最近の国会。


今回の国会の問題点は、色々と語られてますが、
①反対が根強い法律や条約を
②議論のベースになる資料も不十分な状態で
③非常に短い時間の審議だけで
④与党などが数でむりやり可決した
と言う辺りになるかと思います。

これらは、幾らかの人が言ってますが、議会制民主主義の否定ではあるのですが、そのような「難しい」言葉を使わないで言えば、「議論するより自分のわがままだけで国を左右する」と言う人々が、本格的に自分を隠さなくなったという事だと思います。

テレビでは、大手マスコミのOBの人がしたり顔で「野党は情けない」と言ってますが、しかし、今の議会の構成を考えると、数がない状態なのだから、動くにしても限界があるし、そもそも野党側には与党に考えが近い人も少なくないのだから、仕方ない(この理由はもう少し細かくあとで書きます)。と言う事が言えると思うんですよね。

「議論の拒絶」と言う問題について考えていくと、それは、日本の大半のひとが望んでいるのではないか。と言う問題がやはりあると思うのです。日本人は、「水戸黄門」を好んできました。好き勝手放題やってる悪代官や小役人を、お忍びで旅をしている、幕府の副将軍である水戸光圀が暴いてお裁きをし、最後に悪代官や小役人が平伏して咎を受け入れる。と言う話を繰り返す、何年か前まで長きに渡って放送されてきた時代劇シリーズが「水戸黄門」ですが、ここから言えるのは、「苦難を強いられてもひたすら平民は我慢し、突然現れた名君がそれを裁いて平民を救う」と言う物語に、最近までの人々が望ましいと思う社会や政治のありようが凝縮されてきていたのではないかと思うのです。

で、「水戸黄門」が本当に名君であるならば、それはそれで悪くはないのですが、今の「君主」は、自分たちがやってることは悪代官であるのに、マスコミやネットの言論工作を通じて、「名君が出ないから暴君でも仕方ない」と言う空気・同調圧力を非常に強く作り、そのことによって野党の数を増やさないように腐心してるように見えますし、それと同時に、「議論を許さない」と言う姿勢は、実は、言論工作によって反対する人達を「悪代官」「小役人」と見せてしまうこととセットになってて、「情けない・暴君で小役人の民進党」を、「水戸黄門である自民党」が「成敗する」と言う構図を、これは、事実とは全く違うのですが、演出することに成功してる部分も大きいと見えます。

そこで、「野党が情けない」と言うマスコミOBたちの発言やそれに基づくニュースの編集や新聞等の見出しが効いてくる訳です。ここで、「与党は数の力で反対意見を無視して無理やり決めた」とは、彼らは絶対に言わない。これを言ってしまうと、本当の悪代官が誰であるか、感づく人が多くなるからです。「野党は情けない」と言う言葉には、「単純明快にスピード感を持って決められる与党は(決める中身のことは棚上げして)素晴らしい」と言う言葉が暗黙の内にセットにされてる訳ですから。

「悪代官」がいつの間にか「水戸黄門」にされてしまう、マスコミの不思議な力



しかも、今の与党や与党の中の人達は悪代官と言うのでは余りに甘いような悪事を色々働いてるわけですが(後日書いていくことになるでしょう)、しかし、そのことは殆どマスコミが触れないか、触れたにしてもその場だけ「中立的に」報じるだけで、何が問題で誰が損害を被ってるかという分析も殆どなければ、そのような検証作業も、新聞は未だやってるにせよテレビは全くと言っていいほど、やって来てない訳です。つまりは、与党は何を失敗しても・何を悪い事しても、よほど世の中に目を凝らしてる人でない限り、気が付かないような構図が、強固な形で出来上がってる。

そのような事の積み重ねで、この国では今の与党や内閣が、圧倒的な支持を続けてる訳です。

そして、与党や内閣の決めたことを正していく役割を持ってるはずの裁判所も、自分たちの保身や出世を大事にしてるのか、一度決まったことが憲法に反していたり大きな損害を世間に背負わせるような結果になっていたとしても、それが間違いだと言わずに、正しいと厚塗りし続けてるわけです。裁判所がこうなのは、今の政権になってからと言うより、戦後ずっと変わってないことで、明らかに基本的人権を損なってる話でも、それで人が死んだり死ぬような苦痛を背負わされてるのが誰の眼にも明らかな話でも、なかなか「違法」「違憲」とは言わない風土が、冷戦初期から長く続いてきてて、今の政権になって、なおさらその傾向が極端に傾いているに過ぎない訳です。

しかし、そうであるからこそ、世の中と言うか日本社会はどんどん疲弊して、悪い方向に加速してることに皆が気づいていてもなかなか修正されない訳ですね。
本当に「下々の民」の事を考えて、「水戸黄門」になろうとした総理大臣は、今までに何人かいたことはいました。例えば、鳩山由紀夫政権や、東日本大震災以降の菅直人政権は、その象徴的なものだったと思います。しかし、(これも、後日細かく書いていきますが、)官僚組織や財界の激しい抵抗と、その事を面白おかしく報じていたマスコミに便乗して、政権与党内でのし上がろうとするような人達に足元を崩され・特に一部の官僚が事実にない情報を出し続けて大臣たちの心をへし折り、倒されて言った訳です。

このことから、私達は教訓を導き出す必要があって、それは、
・「水戸黄門」が来るのを呆けて期待してちゃいけない。
・「悪代官」ほど、自分が「水戸黄門」だと見せようとするし、マスコミもそれを激しく助ける。
・本当に自分たちのためのことをしようとする「水戸黄門」が出てきたのなら、私達一人一人が積極的に助けたり、議論などを通じて相互に情報交換や意見具申、もしくは向こうに届くような意思表示を出来る関係を結べるように努力していくしかない。
・「水戸黄門」は、自分たちで作って送り込んでくくらいの覚悟を持ってどうするか行動を決め続けないといけない。
と言うことになると思うんですよね。

水戸黄門」は、いつも心をへし折られるのだから、一人一人が「水戸黄門」になろう。



つまりは、本当に「水戸黄門」になろうとする政治家というのは、大抵が内側での議論を推奨し・マスコミ等からの批判を却って歓迎するものですが、それと同時に、足を引っ張ろうとする人達や心をへし折ろうとする人達に取り囲まれているものでもあるのですから、自分の(自分たちのではなく)不利益を要求するのでもない限りに置いて、私達一人一人が支えて、「貴方方のやってることを支持します」と目に見える形で見せつけていき続ける必要がある。ということなんですよね。
そして、そのような人達は、あとで書こうと思ってますが選挙システムの根本的な問題によって年々政治の場に出てくるのが少なくなってもいますから、私達で動ける人がもっと出てくると同時に、この国の選挙システムを変えるために強く意思表示しつつ、一人一人が議論したり、自分の出来る範囲での行動を、人々の間で重ね合わせることで、自分(たち)の側から、複数の「水戸黄門」が絶えず出てくるようにしないと駄目だということなんですよ。

旧いテレビで出てきたような、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は、自然には出てこないんだ。という、諦めにも似た覚悟と、それでも自分や自分たちは生きていかないといけないんだから、政治や行政や社会や、この社会の空気自体を自分たちの力で少しづつでも変えていかないといけない。という覚悟をも持っていかないと、この国は壊れ続ける一方だし、壊れきって/壊した人達が逃げ出した後に社会を立て直すことも出来ないと、私は思うのですね。