素晴らしき、ダブルスピーチ。

12月13日の夜、沖縄は名護市の沖合で、夜間の空中給油訓練をしていた米海兵隊オスプレイが、給油中の事故で飛行ができなくなり、名護市の浜辺近くに「不時着」し、機体がまっぷたつに折れるような「大破」をしました。どう見ても「墜落」にほかならない状況だし、実際海外マスコミや米軍の準機関紙「星条旗」も「墜落」と表現してるのですが、日本のマスコミ各社は米海兵隊の発表や防衛省の発表する「不時着」を頑なに使うし、「軍事の専門家」を自称する人々やそれに追随する人々は、しゃかりきにすら見えるような勢いで、「不時着」と言う表現の「正しさ」を理屈をこねにこねていい続けてます。

昨日(12月15日)夜から本日にかけて行われてる、日本とロシアの首脳会談でも、安倍総理プーチン大統領の会談で、北方領土の共同開発はロシアの法律のみの管理下で行なう(要は、今まで領土問題だから日本も北方四島に対して日本の法律の支配が及ぶと主張してきていたのを放棄する)などの、領有権を主張してきたところに対して事実上領有権を放棄すると総理大臣の職権で言ってしまったと言う状況が、ロシア政府側から談話の形で出されて報道され、日本政府側はそれに対してきちんとした形での抗弁がない。と言う、要は言い訳はしてるけどロシア側の話が間違ってるとも言わない。と言う状況なのに、日本のマスコミが「領土問題の話はしてない」などと繰り返し、「成果があった」「長い時間会談できたのも成果だ」などのごまかしとも言える話を今日の朝から繰り返してる訳です。

言葉は言い換えられ、事実はごまかされてしまってる、いま。

このような、「言葉の言い換え」「ごまかし」は、この五六年ものすごく多くなっていて、例えば東日本大震災の影響で福島第一原発が爆発して、テレビが生中継することになった時に、「爆発弁だ」と言う「専門家」の言葉を根拠に「水素爆発や臨界爆発ではない。原子炉は大丈夫だ」と言う人が後を絶たなかったり、安倍内閣の経済政策が、現実問題として「失敗」したのに対して「道半ば」などと言って、頑なに失敗を認めず同じことを繰り返すことに対して、マスコミや多くの人達が唯々諾々とそれを拡散し続けたりなど、本当に、書ききれないほど沢山の「言葉の言い換え」が、この国では日常的に行われてる訳です。

そして、原発事故に関してもう少し書いておくと、実際に原発や燃料プールで、一号機から四号機までが臨界暴走状態にあったことが、当時東京電力が公表していた「暫定値」からも明らかでしたし、2016年の春になって東京電力自体が「実は臨界暴走だったと当時に分かっていたが公表しなかった」と認める事態になってしまってる訳ですが、事故当時、あろうことか、原子物理学の専門家達や科学ジャーナリストが先頭に立って「臨界はありえない」「原子炉は健全だ」「臨界暴走や破局事故を言ってるのは、デマ野郎だ」と声高に言い、ネットで「やはり破局事故ではないか・臨界暴走ではないか」「放射能汚染や健康被害からどう逃げようか」などと書いたり不安を述べてる人達を、「デマを言うな」とどやしつけまくり、そこには多くの人達が追随して同じようにどやしつける。と言う、非常に恐ろしい状況が、この五年間ずっと続いてきてて、その結果として、福島県や国が、事故直後に急いで「自主避難」した人々に対して「住宅支援を打ち切る」などの嫌がらせを一気に行ったり、「福島県に戻れ」と戸別訪問して脅しめいたことを言ったり、避難した人達の子供が学校で「いじめ」というよりも「恐喝」といったほうが的確な行為を学校で同級生などからやられてるにも拘らず、学校側が「問題がないと考えた」と放置したり隠そうとしたりしてるのが立て続けにバレるという事態に繋がってしまってる訳です。

ある種の人たちに都合が悪いから、言い換えられる「言葉」と、捻じ曲げられる「事実」。

これらの「言葉の言い換え」に共通してるのは、その時の政権や権力・権威が都合が悪いと思う・人々に都合の悪さが見透かされるような「言葉」や「物事」が、別の言葉や物事で言い換えられ、多くのことがなかったことだという風に、その物事をあまり見てない人達が思い込まされたり、事実を事実として受け止めようとする人達やそこから振る舞いを考える人達が、あたかも「妄想狂」「反社会的存在」であるかのように周囲に印象づけ・孤立させていくような結果に追い込まれていくということなんですよね。

こういう事は、既に1950年代にイギリスの作家・ジョージ・オーウェルが小説「1984年」の中で、「二重思考・ダブルシンク」「ニュースピーク」と言う言葉を作って、鋭く批判・風刺していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%80%9D%E8%80%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AF

曰く、

戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり

 

この作品の背景には、当時最大の勢力を誇っていた超大国・ソヴィエトの政治体制下での思想統制言論統制の過酷さがあって、没後50年ほど経って開示された情報によると、オーウェルはイギリスの諜報機関・MI5に協力して、反共産主義のプロパガンダとして小説を執筆していたとも言われています。
そして、このソヴィエトのスターリン時代の「社会主義」「共産主義」の亡霊としての、「ダブルスピーチ」とも言えるような言論の捻じ曲げや情報の捻じ曲げをする人々が、今の日本で暴れ続けている訳です。

私達の多くは、自己主張を悪いこととし、その場の空気や何やを読み・声の大きい人が言うことはどんなにでたらめでも笑顔で受け入れ・従うことが美徳だと育てられてきましたし、政治というものと自分の暮らしや人生などを結びつけてはならないという変な自己規制を持ち続けてる。と言う事を、これまで書いてきましたが、その事と、こういう現象は密接に繋がってると私は思うのです。
声が大きな人、乱暴な理屈を重ね・言葉をごまかしたり事実を捻じ曲げて、全く反対の意味合いすら簡単に持たせて恥じない人達が、余りにのさばりすぎていて、最近になって、幾らかの界隈ではそれに対しての怒りの表明や批判を隠さない人達が出てきてはいますが、大抵の話に対しては、多くの人が声の大きな側の話を唯々諾々と受け入れ・そこに正しさを感じ取り、幾らかの人に至っては、それのみが正義だと信じ込んで、そこに疑問を挟んだりする人や、辛い目に合わされたと訴える人達を、蔑み、公然と貶し、袋叩きにすらする事が後を絶たない。

ダブルシンク・ダブルスピーチを乗り越えていくより、生き残る途はない。

ここをも、私達はどうにかして乗り越えていかないといけないのです。

声の大きな人達だけが、自分の考えや意見をゴリ押しするだけではなく、事実をごまかすために暴力的な言論や行動を恥じないという状況に対して対抗できるのは、それ以外の人達が諌め・批判すると同時に、いろいろな視点・いろいろな価値観・いろいろな利害を隠さず表明することで巻き起こる議論や、そこから半ば自然発生する諸々行動、その場その場かぎりのつながりかもしれないけど、それを多く重ねてくることで、必然的に出てくるであろう、何本かの大きな流れによって、そのような邪悪な人達をきちんとあるべき立ち位置に追い込んで行くこと。それこそが、今まで私達が、上から取り上げられてきた人生や民主主義の根本的なありようをとりもどすことであり、社会が壊れてしまっている現状を、建て直す・修復していく上で、最も重要な事になると、私は思うのです。