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施行から七〇年目の「憲法の日」だけど、戦後蔑ろにされ続けてきた今の憲法の事を少し。

 私はこの時期になると決まって扁桃腺を腫らして熱も出て塗炭の苦しみを味わうことになるのですが、皆様は、お元気でしょうか。


 と、私信から入って恐縮でしたが、最近の流れに関して色々と書かないといけないとは思いつつも、これを書いた次の日は、日本国憲法が施行されてからの、記念すべき70年めの記念日に当たるのもあって、私なりに、幾らか憲法を絡めて書いていこうと思います。

 憲法と言うと、どうしても9条(戦争の禁止)が話題になりやすく、その次に話題になるのは21条(表現の自由・検閲の禁止)であったり,最近だと24条(家族生活での個人の尊重と両性の平等)が挙げられることが多いですが、もう少し別の条文について、注目してみたいと思います。

十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条 - Wikipedia



憲法九条無視問題よりも、ずっと深刻な、憲法十三条無視問題。

 今の日本、果たして個人が個人として尊重されるということが、きちんと行われてるでしょうか?学校でのいじめ問題や体罰問題は、なかなか改善が見られなくなり、最近だと部活動の強制・特に体育系の部活動で、休日がほとんどない状態で教師も生徒も駆り出されている上に、部活動の指導にしてもその道のプロではなく教師が手弁当でやってるから、きちんとした指導も出来ずにいて、しかも、昔から続いてる「体育会系の序列」は、根強く残されてる。と言う辺りからくる、人間関係の歪みや生徒と教師どちらも疲れ切ってしまってるという事の問題点が、話題になったりしてますね。
更には、前々からここで取り上げてる「管理教育」の問題で、生徒の髪の毛の質や色を学校が規制して、元々の髪の毛が色が薄かったり縮れていたりするのを証明する書類を提出させられるなどという学校が、半分以上であったという調査結果が報道されもしました。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル


 組体操の事故の被害者が未だ少なくなく毎年出ているのに、やめるという決断をしないことなんかも含めて考えていくと、この国の、学校教育には、全く、「全て国民は、個人として尊重される」と言う精神が備わってないとしか言いようがないんですよね。

 教師個人の努力でそこにあらがって、生徒を個人として尊重している人が少なからず現場にいるのはわかるのですが、しかし、そういう教師たちよりも、上の立てた、「生徒を個人ではなく、管理可能な家畜のようにしてしめつける」ような政策や教育方針を、そのまま実行し、進んで生徒の心を折って従順にしていくような人が出世するのは、相変わらずのようですし、教育現場の「憲法」「人権」というものに対する見る眼のなさ・著しく軽蔑するような扱い方が、結局は、子供の頃から人権などを信用させないで、個人のエゴと集団の「空気」に文句を言わずに従い・絶えきれなくなったら逃げることも許さないで、結局自殺するしか選択肢を与えないかのような、「人間」を、大量生産する結果に繋がってるんだと思うんですよね。

人として産まれたはずなのに、なぜ、日本の人は、人としてではなく家畜であるかのように育てられるの

 これは、度々書いてるように、1970年代の後半・ひょっとしたら1960年代の終わりくらいから、教育と労働に関する政策を徹底的に変えていくことで、「物を言わないで黙って働く国民」を作るということに、国が…政府も右派政治家も、財界人たちも…、膨大な資源を投入していった結果なんですよね。

 中曽根教育臨調やその前のからの、内申書と受験競争をベースにした管理教育なんかもそうですし、

 国鉄分割民営化や「連合」結成・総評解体に代表される、労働運動の徹底的な切り崩し(会社や財界に従順な御用組合以外を徹底的に潰していった)、

 会社法や労働法の改悪で、雇用の不安定化を図っていったこと。

 これらは全て、個人を人として尊重するものではなく、物言わぬ家畜・もしくは、物を言わずに死ぬまで働く奴隷としてみなすように、教育を先頭にしてやっていった事だと、私は思います。

 その結果、日本はどうなったかと言えば、就職氷河期の人達は、まともな職につくチャンスすら奪われ続けていますし、その後の世代の人達にしても、非常に安い給料で、毎日終電近くまでサービス残業させられるのも当たり前・会社がツイッターフェースブックをチェックして、会社によっては、趣味でやってる同人活動のような物までギチギチに管理しようとしてくる。それでいて、給料があがるかといわば、逆に下がったりする。
 そして、消費税は増やされ、スーパーで買う食料品の分量が減らされ、しかも、今度は、減らされたままで値上げまで始めるようになってきてるし、そもそも、年金や健保の取り立てが厳しくなりすぎて、可処分所得が下がる一方。

 要は、マルクス経済学が指摘していた意味での、「正しい意味での」、「搾取」が、どうしょうもないくらい広い範囲で行われている上に、人々の多くは社会から個人として尊重されずに、「強い人」の言い分を認めるだけしか生き方を教えられなかったので、誰も声を上げないし、だれも現状に抗う気力すら失いつつある。と言う状況は、どう考えても、憲法十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」とは正反対の状況な訳ですよ。

五〇年先、一〇〇年先の為にも、私達を個人として尊重する社会に作り直す、覚悟。

 いくつもの悪意が、今の憲法をボロボロに骨抜きにするために、最低でもこの四十年間ほどを使ってやってきて、人々から力を奪った。
 しかし、国は、色々と綻び、子供も産まれなくなり、お金も廻らなくなり、崩壊するより最早道が見えなくなってる。

 そのような状況だからこそ、私達は、すこしでも、「尊重される個人」のありようを取り戻していかないといけないんですよ。それも、社会や会社にとって利用価値があるから尊重されるのではなく、社会や会社が、自分たち「個人」をもっと尊重しろ。尊重しないのなら、「個人」は今の社会や会社を見捨てて、自分たちが尊重できるような社会や会社に作り直す。と言う、結構な覚悟が必要かもしれないような、社会の総入れ替え・総建て直しを、やっていくことこそが、私達が生き残り・後の世代が生き残るだけではなく、後の世代が人間らしく個人として尊重されるようになることで、後の世代やそのまた後の世代が増えていく、50年先・100年先には衰退を免れ、もう一度栄える準備を始められるような社会や国へと作り直す第一歩だと、私は思うのです。