「北原みのり・香山リカ対談本」問題から、当事者不在の社会/政治運動について考えてみる。

 母の死に伴う葬儀を、先々週末に行うことができました。20名弱ほどのご参列を頂きました。本当にありがとうございます。
 まだまだ、残された事をやっていかないといけないので、法的な関係だけでも多分一年くらいはかかってしまいそうですが、葬儀の後エネルギーが完全に抜け落ちたのもある程度溜まり直してますので、少し書いてみましょう。

又、フェミニズム運動と反差別運動(のそれぞれ主流派)がやり玉に挙げられてる。

 この数年間、ネット上で特にホットな問題として、「(主に男性の)オタクの文化と、フェミニズム運動や反差別運動を筆頭にする左派リベラルの対立」と言うのがあって、それ自体は度々書いてきたと思います。
で、又、そのような話が噴き出し始めたわけですよ。
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 「フェミニスト」であり、最近PAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)の理事となった北原みのり氏と、反差別運動にのめり込んで、別の方向に対する差別発言をくりかえし問題になってきた香山リカ氏の対談本が、その事実誤認の酷さや差別的な発言のオンパレードで、問題になり始めてるのです。
 これ、非常に困った話で、さんざん指摘されてる中では「反差別や人権を主張してる人達が、自分たちの都合で『敵』を決め、罵詈雑言や差別に満ちた言葉をぶつけるだけでなく、隙きあらば法制度の形でその差別を合法化しようとしてる」ということに対して、そのスケープゴートに長年上げられることが多かった、主に男性の「オタク」が苦言を呈したり怒りを表明するのに対して、更に逆ギレしたり、自分たちの差別的な部分を正当化することをくりかえして揉めてる。ということの一エピソードなんですよね。
 巷では、なんで今の時期にこのような事を「蒸し返す」ような本を出したのか不可解だ。と言う話もあるんですが、私には非常に単純に見えてるんですよ。

1960年代以降の、左翼の迷走の歴史から、この批判の根本を考えてみる。

 「批判が相次いだり自分たちのやり方と違う形で目的を達成しようとする組織が出てくるような組織や運動体は、組織や運動体の内側を締め付けて、『新しい運動』に人が流れたり、自分たちの運動から人が離れないようにするために、『敵』を増やすと同時に、『敵』をムダすぎるくらいにあざ笑ったり罵ったりする」

 こういう歴史が、日本に限らず世界の多くの政治運動や社会運動には起こってきてるわけですよ。
 「運動」に限らず、内部分裂をした宗教組織や、オウム的な意味での大犯罪をやって追い詰められたカルトなんかも、そういう形で締め付けることが結構あるのです。

 一つ例を挙げましょう。 
 1960年代、日本の反安保闘争を担ってきた新左翼の人たちは、主導権争いや運動路線の違いなどで、分裂に分裂を重ねていきました。この分裂が決定的になったのは、1970年代半ば以降の成田空港反対闘争での、現場の農民の態度の違いに対して「だれにつくか」で分裂した辺りなんですが、その前に、革共同革命的共産主義者同盟)と言う新左翼組織は、路線の違いなどで複数に分列した訳です。
 例えば、中核派革マル派など。

 その一つ、革マル派が、「解放」と言う機関紙を発行していて、一部はネットでも見れるはずですが、その革マル派は、中核派に限らず他の新左翼組織や日本共産党(今国会に議席が有る共産党)に対して、機関紙や活動家の発言の中で、繰り返し罵倒していた訳ですよ。
 中核派に対して「ウジ虫」と言ったり、動労千葉に対して「うどん屋の駄馬」と言ったり、解放派に対して「青虫」と言ったり、政治党派に属さず左翼運動に参加してきたノンセクトと呼ばれてた人たちに対して「ゴキブリ」と言ったり。
 それら、他の組織の主要人物に対する、目を背けたくなるような罵倒やおちょくりも普通にあったし、何より、新年号には見開きでマンガ絵巻が載っていて、その絵巻は、最近は非常におとなしくなりましたが、昔は、他の左翼党派や運動家を、非常にバカにして道化にし、自分たちこそが正しいのだと主張するものでした。

 このようなことにならないようにするには、運動組織の内部の道徳的な意識の共有とか、新しく入ってきた人たちに対する教育をきちんとやって引き継いでいかないといかんともしがたい所が、あったりするのですよ。

フェミニズム」が、当事者である女性自身のプライドを折ってるという、おかしな状態。

 さて、本題に戻りましょう。
 最近の、日本で主流派と主張するフェミニズム運動の人たちは、長年、「男性は男性であるだけで性暴力の加害者である」「わたしたち女が性暴力と思うものは、絵や写真であっても性暴力だ」と言う世界認識を深めていったと同時に、「女性とは唯一の性暴力の被害者であり、男性と違う弱者なんだ」と言う論理を、一緒に深めてきた訳です。

 そして、今の女性の多くが困ってる問題として、「(コンドームなどでの)避妊に失敗したときの緊急避妊薬の値段が高すぎて、しかも、薬局で買えずに医者に行かないといけないから、危険を覚悟して予め個人輸入するか、避妊に失敗したら諦めるかしないといけないように追い込まれてる」と言う話があるわけですよ。
 この問題は、一部のフェミニストが、「薬を外国並みに安くしろ」「薬局で簡単に買えるように指定しろ」と、やってきてはいましたが、しかし、こともあろうに、大多数のフェミニストたちは「性暴力を許すことになる」などの理由で、それを潰そうとしてきて、実際、政治や右翼的な宗教や警察とのパイプを確保してる人たちなどが動いて潰してる訳ですよ。
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 日本のフェミニズムの中で、「女性にも自分で自分の行き先を決めるプライドを保証しろ」「フーゾクなどで働く人たちを、差別するな。デスクワークなどと同じ、仕事をするプロとして尊重しろ。」などということを言ってきた人は、最低でもこの35年間に関しては、非常に少なかったのです。おかしな話に聞こえますが、それが、現実なのです。

おかしな状態を乗り越えようとして「ネオ・リブ」を名乗り始めた人々。

 大半の人は、「かわいそうな被害者としての女性」「許せない加害者としての男性」と言う、非常に旧く・そもそもそんなに単純化出来ないような構図を持ち続け、その事で、夫(連れ合いと言ってますね)に対する暴力を正当化する人まで運動家には少なからずいたし、法制度の中でもそのような条文や運用をするように、行政に入ったり、政治家や警察に働きかけてやってきました。
 それは、今「保守」を自称してるような右寄りすぎの政治家や、彼らのバックにいる宗教勢力、国民をとことん縛って自由を奪うことが治安のために必要だと考えてるような警察の一部にいる人たちにとって、非常に相性が良かったので、この手のフェミニズムが、日本では、非常に政治力を持ち、発言力を持ち続けてきました。

 しかし、その事で日本社会は疲弊しました。
 多くの男性は、痴漢冤罪に限らず色々なことに怯えざるを得ない所に追い込まれ、女性も、疑心暗鬼を拡げてしまい、そもそも、個人を個人として尊重する事を徹底的にぶち壊す教育を長年やってきたのですから、人・特に異性と繋がったりすることよりも、生涯孤独であるほうがいいのだ。と、ある部分では人生を諦める人もたくさん出始めてしまってる。
 そして、女性が自分で自分の行く先を決めたくても、男性から圧力を受けるだけではなく、女性・特に「進歩的な」女性からの圧力や彼女らが決めた法制度に阻まれ、自分の行く先を自分で決めるのを諦めることすら、当たり前の光景になってしまってます。

 そのような中で、「男性オタクとフェミニズムの対立」「オタクと反差別運動の対立」(このことはまた後日)と言う問題が、特にこの数年表面に出て盛り上がってる訳ですよ。
 その中での、フェミニズム運動家やフェミニズム学者達の発言や行動に対して、「フェミニズムとは、女性が自分のことを自分自身で決めることではないか?」と言う考えでやってきた人達が、フェミニズムやめます。ネオリブって名乗るようにします」と、今年の半ば辺りから表の場でいい出した訳ですよ。
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「ネオリブ」への人の流出を押さえたい、フェミニズム運動の人々。

 そして、その主張の論理的な真っ当さや、今までのフェミニズム運動の姿勢的なことへの反感から、多くの「オタク」が支持するだけではなく、フェミニズム運動に関わってきた人達の中からも、「フェミニズムをやめてネオリブになる」って人がちらほらと出始めてる訳です。
 それへの危機感は、多くのフェミニズム運動家や学者たちから、出始めてて、それは、ネットで可視化されてる範囲に限れば、ネオリブの人達への誹謗中傷であったり、罵倒であったりが中心な訳ですよ。
 きちんと議論をして、お互いのすり合わせをしていこう。と言う姿勢で議論を働きかけてるのは、どうも、見えてこない。

 そういう中で、最初に出した、北原みのり氏と香山リカ氏の対談本が出てきて、非常に批判されるような差別や罵詈雑言が並んだ中身になってる…と、私は読み解くわけですよ。
 これは、外に向けて何某か理解を求めるための本ではなく、内側に対して、運動がバラバラになってしまうのを防ぐ・新しい動きに人が動かないようにする為の本なんだな。

 そう、私は思うし、そのような事に頼るよりなくなるような運動というのは、その外側にいる人だけでなく、内側にいる、人間の心が残ってる人たちによって、乗り越えられ、作り変えられ、きちんと議論をして議論がきちんと表に出てきて、絶えず自分たちの事を買えていけるような動きにされていかないといけないと、思うのです。

 そのためには、「当事者」である、多くの男性も女性も、必要な時に議論に入ったり動かしたりするようにしてかないといけないのだろうな。私は、そんなことを考えて、社会をそういう風に向けてほしいな。と、これを読んでる全ての人たちに対して思うのです。