森友問題での「被差別部落デマ」から、この国の言葉のありようを考えてみる。

 春になりました。この時期は、どうも天気やなんやの影響を受けやすいようで、色々身体的に困ってる間に三週間近く過ぎてしまいました。みなさんも、お気をつけて。

佐川元理財局長は、何を守ろうとしてるのか。

 さて、今、森友事件での財務省・佐川元理財局長の証人喚問が行われていて、この間の報道でどんどんと「ウソ」が本当にウソだったということが暴かれてるのに、佐川氏は必死になってウソを支えてしまってる訳ですよ。ここまで加担してしまっては、確かに、今更引くに引けないという気持ちもわかりますし、そもそも、これが、政権与党や一部野党(維新の会など)だけではなく、大阪の地方財界の経済犯罪と「保守」を自称してる人達の思想を人々に広める…強制と言ったほうがいいかも知れません…事が、複雑に絡み合って、引き剥がしようがなくなってる事件である。と言う事を考えると、まぁ、ここで「良心」を出して事実を言い出せば、それを良くないと考えて報復に出て危害を加えたりする人達も少なくないでしょから、仕方ないのでしょうね。
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 ただ、私が思うのは、この間の事件での「保守」を自称してる人たちに限らず、与党もそうだし、更には、左派とかリベラルを自称する側にも、「ウソを並べて人を動かして、結果がどうなっても知ったことではない」と言う事をやることが、あまりに多くなりすぎてる事が気になって仕方ないということなんですよ。最近だと、森友学園が「安倍晋三記念小学校」を建てようとした土地を財務省が格安で払い下げたのは、あの土地が被差別部落が関わってる土地だからだ。と言う、何重にもありえない上に人として流石にいけないだろう。と言うウソを、「保守」を自称する学者さんやジャーナリストやタレントが、派手に、本当に派手に拡散していった事があった訳ですよ。
須田慎一郎氏、森友問題に関連する『関西3つのタブー(アンタッチャブル)』解説 「この3つに一番毒されているのは既存メディア」 【虎ノ門ニュース】: テレビにだまされないぞぉⅡ

「ウソも大声で拡散すれば真実になる」社会で、殆どの私達は疲れ切っている。

 こういう、人の道としてどうなのか。と言うウソが、昔から、威勢のいい人たちによってばらまかれ、ウソがウソで事実じゃないと、ウソで被害に遭う立場の人が言おう物なら、「お前は差別的だ」「反日だ」などの、色んな暴言を有り難くいただくということが繰り返されてきたわけですよ。
 これは、「保守」「右翼」に限らず、一部の左翼・特に、フェミニズムを掲げる人達が、そういう事をくりかえして、世の中の流れや議会や警察などを、自分達の都合よく動かしてきたのが、日本の、特に1990年代以降のありようだったと、私は振り返る訳ですよ。

 その結果、日本は、壊れてしまったわけです。みんな疲れ果ててもまだ、何かに怯えるかのように暮らし、些細な違いを叩く人達の間で潰し合い、片方の側に立って、人として言っちゃいけないような事を大声で言う人をやんややんやと囃し立てるばかりか、自分もそうならないといけないとばかりに、大声で言う人の輪に飛び込んでいく。
 つぶしあいとお互いを監視し合うこと、そして、その上にいる人々や組織…警察であったり、今の与党や官邸にいるような人達であったり…だけは、どんだけむちゃくちゃやっても見逃されるし、酷いことをしても裁判所すらお墨付きを与えるし、そうなるから、子供が生まれなくなるし、経済はどんどんとやせ細る。

 経済なんかにしても、大半の人の生活は物凄い勢いで苦しくなってるのに、国は経済が良くなってるといい続け、経済が良くなってるから税金も上げます、福祉は下げます。とくりかえして、尚更生活が苦しくなってる。でも、その苦しさを言えば、「威勢のいい人たち」が「そんなことはない、お前は嘘つきか反日だ」と叩きに来るのを何年間も繰り返してきたから、苦しさを言う事を、殆どの人が控えてしまってる。

 日本は風通しが悪くなってる訳ですよ。ただ、昔は、少数派や世の中の空気・それもマスコミが言ってることそのままの事を写しただけの空気に対して批判したり、苦しめられたりする人達には、本当に情け容赦ない攻撃がされていて、それは、警察やお役所が法律を破ってすることから、「村八分」まであった訳で。
 風通しの悪さで言うなら、昔よりはマシと言えなくはないのですが、しかし、今は、それとは別の意味で、風通しが悪くなりすぎてる。まるで、少数派が無視できなくなったから・マスコミの作った空気が万能ではなくなったから、別の「圧力」で風通しが悪いままにしておきたい人達が、人々を煽ってるかのようにして。

「ウソが一番強い社会」を、どうやって乗り越えていくか。

 今、そういう「ウソが一番強い社会」「風通しが悪くないといけない社会」が、長年続いたことのツケと責任を、私達全てが払うことを迫られてるように私には見えるんですよ。
 森友問題や加計問題、後、今日の「週刊朝日」が後追い報道した、渋谷区の社会福祉法人・福田会(ふくでんかい)への、不可解な国有地払い下げ問題なんかもそうですが、この国が、あまりに少数の人たちによって…別に今の政権や取り巻きの人たちに限らず、フェミニズムを自称する人などの、一部の左翼やリベラルも加担してるわけですが…、その人達の都合いいように・その人たちが「正しい」と独りよがりに思う「正義」の為に、沢山の人達が、苦しまなくていいことまで苦しむことになり、それが「あまりに少数の人達」が勝手放題してるからそうなった。と言う事に、やっとのことで多くの人が気が付き始めたのが、今という時代なんだと、思うのです。
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 結局、この「あまりに少数の人たち」がやった事に対して、きちんと罰を与えてやらせないことや、今までのように社会を仕切るかのような事が出来ないような立場に追い込むことも大事ですし、これからの社会の有り様として、「少数の人たちに任せる」「少数の人たちが言う事を、あんまし考えないで素晴らしいとかくだらないと言ってしまう」と言うところを、徹底的に減らしていかないといけないと思うんです。それができなければ、数十年もしない内に、今のようなことが繰り返されるどころか、もっと悲惨なことに簡単になってしまう。

集団が何かをすることから、小さな個人が集まったり離れたりして、大河を作っていくようにしよう。

 その為には、今のような「安倍辞めろデモ」に集まってる人たちのような有り様でもまだまだダメで(あのやり方を突き進めると、結局、「あまりに少数の人たち」が入れ替わっただけで終わってしまいますよ)、もう少し広い人が、政治とか関係ない身の回りのことでも、一つ一つの事だけ物事を決める輪に入り、他のことでは外れたり、反対側に廻ったりする。と言う、非常に細かいつながりを作っていき、それが大きないくつかの流れになって、ぶつかり合ったり交わったりすることで、社会が動いていく・社会が決まっていくように、私達一人ひとりが、物凄く注意しながらやってくようにしてかないといけないと思うのです。

 もう、水戸黄門にまかせておこうなんてのは、やめてしまおう。と言う覚悟が、私達に一番求められてるように、思うのですね。