「新潮45」廃刊騒動とサロン商法なる物から、みんな教養を身に着けようと考えてみる。

 LGBT(同性愛者や両性愛者やトランスジェンダー)を巡って、ボロクソにけなしたと言ってもいい杉田水脈議員を擁護する特集を組んだ雑誌「新潮45」が猛烈な抗議で休刊・事実上廃刊になりました。杉田議員の発言にしても、その前後に同じような理屈で色々言った人達にせよ、言ってる中身にはいいことがないと言うか酷い中身だな。とは思うのですが、その一方で、廃刊を要求した人達の強引さや、自分たちに都合のいい人達だけを担ぎ上げて要求を押し切ろうとするやり方に対しては、更にまずいなとか酷いなと思ったわけですよ。
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 今回の件では、特に「新潮45」の廃刊を求める人々が出だしたあたりから、LGBTの当事者の人達の間で真っ二つに分かれたんですよ。「そこまでしなくてもいいじゃないか」「きちんと議論をやるべきだ」と言う多くの人たちと、「差別だから潰せ!廃刊にしろ!」と煽ってた少数の人たちに。
 そこに、「レイシストしばき隊」などに集ってきた反差別運動の人たちやフェミニズム運動をやってきた人たち・その周辺の「リベラル」「市民運動」を自称してる人たちが雪玉の雪のようにどんどん重なっていって、その雪玉で新潮社を糾弾し・マスコミや一部のネットメディアを動かし、問答無用に追い込んでいった訳ですね。
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新潮45」廃刊への道は、今までも度々と言ってきた道だった。

 このやり方、今までも色んな形でやられてきました。90年代頭の「有害コミック騒動」でも繰り返し見られたし、同時期の「ちびくろサンボ問題」では、非常に限られた・家族数名が作った「反差別運動」の要求で、本が一旦絶版になった訳です。その前には、被差別部落を巡って、部落解放同盟が「自分達が差別だと思ったものは差別だ」として、1960年代から度々マスコミの人や作家を呼びつけたり押しかけたりして「糾弾会」を開き、長時間取り囲んでののしって「自己批判」「反省」を要求する事を繰り返して「成果」を挙げてきたということもありました。
 それぞれ、要求する側には「ゆらぎない正義」があると自分達は思っててその事でどんどんやり方がエスカレートしただけでなく、「仲間のだれかが差別だと思ったら差別だ」と言う考え方でどんどん突き進み・社会全体が糾弾されないようにと萎縮していったんですよね。
 1989年の正月に、昭和の天皇が死んで今の天皇に代替わりしたときなんかはもっとひどくて、死ぬ数ヶ月前から多少でも「元気」をほのめかすようなCMや番組が軒並み批判されて、どんどん自粛してしまった訳です。天皇が死にかけてるから・死んだから、祝い事なんかするな、歌や踊りなんてもってのほかだ。という感じで、多くのコンサートなどがやめさせられた訳ですね。(蛇足ですけど、今の天皇が「生前退位」にこだわった理由の一つが、この時の「自粛ムード」で社会に色々押し付けたことへの彼なりの反省があったのでしょう)
www.huffingtonpost.jp
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目先の快楽を優先して、社会を壊しても気にしない人々。

 それらは、目先の数年間は非常によく働く訳ですよ。「差別を批判する側が差別だと思ったら全て差別」「性暴力だと思ったら性暴力」などという理論は、差別だと思う表現や言葉を、表向きなくすし、ついうっかりと公の場で出してしまった人達に抗議して、「責任をとらせ」見えなく出来ますからね。しかしそうすると、今度は、何が差別なのかとか何を差別と考えるべきなのか。と言う、本来やらないといけない部分が、どんどんやられなくなっていく訳ですよ。「トラブル」を防止するために当たり障りないことしか言わないようにしよう、当たり障りありそうな話や中身は自粛しよう。
 平成と呼ばれてるこの30年間の、最初の25年間というのは、まさにそういう時代だったと私は思うのです。最近だと民族差別や原発事故での放射能汚染や健康被害なんかでも散々眼にしてる訳で。
朝田理論 - Wikipedia
saikamituo.exblog.jp
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 しかし、その事で、もう少し理性的な議論や何が問題なのかと突き止めていく作業というのが、ほとんど全てと言っていいくらい「差別的と言われかねないから自粛しよう」と言う事でやられなくなっちゃってる訳ですよ。そして、話はそこで済まなくなっていて、そのように「差別だと思うのは全て差別」と言う形で要求する運動してきた人達が「差別だと思わない」ところにも、色々と深刻な差別があって、でも、その深刻な差別にあってる人達が声を上げたら「差別されてないくせに甘えるな」「お前らこそ差別者だ」とボロクソに声の大きな人達がけなしていくわけです。
 今起こってる、「(主に男性の)オタクvs自称フェミニスト+自称反差別運動」の争いはこの構図ですし、「キモくてカネのないおっさん」問題とかもそう。
togetter.com
 そしてもう少し見る所を広げると、ワーキングプアの問題なんかも散々そういう言われ方して問題が酷いことになったし、親の経済力の格差が子供の学歴に響くばかりか就職問題にまでなってしまうという「貧困の連鎖」「階層固定化」と言う深刻な問題も、こういう「見捨てられてた差別」の問題が相当部分あるわけですよ。「十分稼ぐ働き方しないお前が悪い」「貧困は自己責任」。こういう言葉は、2000年代の終わりか10年代の頭くらいまで、あろうことか「反差別運動」「リベラル」などを自称する人達からも繰り返し言われてましたし、貧困というものが差別そのものなんだ。と言う考えじゃないから、自己責任論を受け入れて、「自分達が差別だと思うことの”被害者”だけ差別だといい改善を要求する」ことは、この国の差別というものの有り様をものすごく歪めて、社会全体を壊してしまいました。

「サロン商法」なる所に人寄せするために「大学なんて行かなくていい」と言い出した人々。

 もう一つ、ネットの一部でホットな話題になってるのが「大学なんか行くな」と言う話なんですよ。これを言い出した人達は「大学に行くより自分や仲間の運営してるサロンに入ったほうが、就職に有利だぞ」みたいなことを言って、大学進学するかどうか迷ってる若い人たちに大学に行くお金で自分達が運営してるような、月一万円とかの月謝を払う必要があるサロンに行かせようとしてる訳ですね。
delete-all.hatenablog.com
togetter.com
 あろうことか、落合陽一氏のような、国立大学でバリバリ働かれてる方まで、その合唱に加わってるものですから、驚きましたが、まぁ、彼は自分の「サロン」と言うか私塾をやってるようなんで(ここにはリンクを貼りませんが)、その事もあるのでしょう。
 大学というのは、長年、「就職予備校」とされ、今の安倍政権はその方向でもっと就職予備校化を進めてる所があるのですが、しかし、実際には教養を身に着け・視野を広めていくことで、変な人に騙されたり嘘八百並べて騙したり脅したりするようなレベルの低い事にはめられないようにする力をつけるところであると思う訳です。
 確かに、特に私立大学の文系学部だと今は就活とか出席管理が厳しいですけど、30年くらい前は「出席は代返・試験は知り合いの持ってる過去問で適当にやって、レポートは丸写し」でどうにかやって、サークル活動や「遊び」に集中してたほうが就職しやすい。なんて平気で言われてた事もありましたが。
 でも、それで(そのような文系学部出身者が出世コースに乗せられてた)日本企業全般が物凄くおかしなことになって一気に落ちぶれたし、教養がろくにない人が企業やお役所の上の方に固まってしまい、選挙制度の問題なんかもあって国会や地方の議会もそんな感じになってしまい、どんどんと社会が壊されていくだけでなく、なんでそんな事になってるのか、私達一人一人が危険さのどまんなかにあることを見れないようになっちゃってきた訳ですよ。

なんでも「陰謀論」にしてしまって考えることをやめた、教養を捨ててしまった人々が日本の上の方には多い。

 私のことになってしまいますが、かなり昔から、物事の裏側にあることを見ることが多かったせいか、物事の裏側にあるものを見ようとしたり、どうしてそうなってるのか必死に考えたりしてきて、それをパソコン通信などのネットでかいたりすることが多かったのです。が、大抵「陰謀論」「電波」などと笑われてきたんですね。
 一寸待て、私は「ムー」で「ユダヤフリーメーソン陰謀論」書いてるような人達(太田龍とか宇野正美とか)と同類なのか?と毎度がっくりしたり怒ってたりしましたが。
月刊ムー アーカイブ | ムー PLUS
宇野正美 - Wikipedia
 そういう、考える能力を徹底的に捨てていった人達が、80年代の終わりか90年代の頭には沢山社会の上の方を占めてて、間違ってても必死に考えようとか必死に調べようとか、そういうあたりの事を「むだ」「余計なもの」とする風潮ばかりがのさばるようになった訳ですよ。00年代以降の「維新フィーバー」や「ネット右翼現象」「嫌韓ブーム」と言うのは、まさにこの「むだな物を捨てていく・筋肉質であるべき」と言う社会の風潮が起こした部分が相当ある。今となっては、反対側のはずの「リベラル」「左派」を自称する人達の中でも・学者さんであっても、そのような人が増えつつある。

 全くいやな時代ですが、そのような時代というのは社会が壊れていく状態だし、そうなると、どこかで限度が来るんだと思うんです。たて直すチャンスというのがそこで出てきて、その時に、そのような「筋肉質」になれなかった人達がどれだけ多くいるか。どれだけの人が自分で必死に考えていろいろ見ようとするようになるか。で、その社会が地獄になるか地獄にならずどうにか人々が生き延びるか決まってくると思います。
 皆さん、どうか、間違ってても正しくなくても、どんなに幼稚でもいいのだから、自分で沢山のものを見て感じ取り、教養も考えも深めていきましょうよ。