自分の感覚と視点だけで物事を動かしてきた人達と、それに排除されてきた人の、大きな闘いが始まってる。

 又、間が空いてしまいました。
 最近、色々と揉めているな。と思うのです。日本だと、サラリーマンが家族より仕事を取ってしまったことへの反省と言うか自己嫌悪のようなものを描いた牛乳石鹸のコマーシャルが、何故か強い非難をされて「炎上」、大きな議論へと発展し、アメリカでは、Google社で、社内の男性と女性の仕事ぶりを見ていて、女性は(相対的に)ITの仕事に向いてないのではないか?と問題提起したレポートを書いた人が、社外からの批判に晒されて、クビにされてしまった。そして、白人至上主義に反対する集会に白人至上主義を支持する人が自動車で突っ込んだ事件をきっかけに、反対する側が、賛同する側を社会的に完全に抹殺しようとする動きが脚光を浴び、それが、白人至上主義を支持しない人達からも、ひんしゅくを買い始めてる。
togetter.comwww.huffingtonpost.jpwww.bbc.com

自分たちの視線しかない、「政治的正しさ」の暴走。

 これらの事に共通するのは、「政治的正しさ」こそが絶対に正しいということと、「自分たちが正しいと思うこと」が「政治的に正しい」と言う、揺るぎない信念で、その事が、その「政治的正しさ」を共有することのできない人達からの猛烈な批判にさらされ始めてる。ということであろうと思うのです。
 「政治的正しさ」ということは、得てして、自分たちの中で共有されてる感覚で「正しさ」の基準を決めてしまうことに繋がってる側面が物凄く強いんですよね。その「正しさ」に納得しきれない人・「正しさ」によって「悪」と扱われてしまう人達を、総じて「遅れた人達・愚かな人達」とせせら笑ったり、悪人だとして攻撃する事が当たり前に行われていて、そうであるがために、対話しようということは殆どなく、その代わりに、そのような人達を、法律で罰したり、いどころが無くなるように法律を制定したり、時には、暴力で攻撃することすら、「正しい」行為であるとして、人々をそのような方向に駆り立たせてしまう。

 かと言って、何でもかんでも対話してればいいかと言えば、そうでもないことがある訳ですよ。自分たちの生存が脅かされたり、社会的な生存や居場所を奪うような事を、無理やりやってくるような人々や、特定の人達を「正しさ」によって追い出したり、押しつぶそうとしたりする事をやってくる時に、話し合いが通じることは非常に少なくて、大抵は「話し合いが通じた」と思い込ませて、思い込まされた側に一方的な不都合を呑み込ませることになる訳で。

「自分たちの感覚」だけを、社会全体に押し付け・「相対化」を悪だと拒否し続けた運動の、限界。

 横道に話がそれましたが、「自分たちの感覚こそが唯一正しい」と言う人たちに、運動が引っ張られた結果として、外部との対話を拒否するどころか、外部からの「それは流石に問題なんじゃないか」と言う声すら、攻撃対象にしちゃってるわけですよ。要は、自分たちが外部からどう見られてるかとか、一旦自分たちの視点を離れて、どれだけ真っ当な考えか考え直してみる。と言う事自体が、「相対化してる」などといわれて「政治的に悪い」事になってしまっている。
 その結果、自分たちの独りよがりな価値観こそが唯一正しくて、それを受け入れられない人は、悪人で成敗するか、もしくは、無知で愚かな人達だから、教えてやらないといけない。と言う事が、普通になってて、その事で、社会の現状がどんなにひどくても、それがこの人達主導で変えられていくよりも、社会をひどくしてきた人達がよりひどくするほうがまだマシだ。と言う、ひっくり返った状態を望む人が、少なからず出るようになってる訳です。
togetter.com

「タコツボ化した運動」を乗り越えるのは、今までの運動から排除されてきた人達だ。

 私が、25年以上前に提唱した「タコツボ化」と言う言葉があります。タコが入るタコツボや、戦場で兵隊が一人用に掘ってる穴の中に閉じこもり、自分たちの言葉と感覚を共感し合うことで、他の人を見下し・自分たちの正しさを確認し続けてる人達に対して、向けた言葉でした。
 今起こってることは、「相対化」を悪だと考えて自分たちの感情的な感覚にだけ信頼を置いてる人達の「タコツボ化」が、極限まで来たことで、大半の人達との対立関係が激しくなり、社会が変わらないと沢山の人が不幸をより酷くするのにも拘わらず、変えられなくなってしまってるということなんですよね。
 今までの、社会を変えていく運動というのは、ごく少数の、タコツボ化してる人達の中で共感しあった末に決められた事を、その外側にいる立ち多数の人達に押し付けていくことで行われてきました。それは、暴力の形を取ることもあれば、法律の形を取ることもあった。その事は、社会に対する信頼感をなくすと同時に、社会を変える運動自体への、信頼感も壊していったのですね。
 多くの人のいろんな考えをぶつけ合って、その中で話し合いやら何やら沢山やって、その中から一人一人が受け取ると同時に、その流れの中で、社会を変えていくことをしないと、最早、社会が悪い方向・多くの人をより不幸にする方向にしか変わって行かなくなってると、思うのです。
 今まで、社会運動に参加せず、参加するにしても非常に限られたことしかしてこれなかった人達こそが、社会を、今までにないような形で変えていかないと、どうしょうもない。私は、そう思うのです。