日大アメフト部事件や佐川不起訴から、暴力不在の日本を振り返り、今後を考える。

 梅雨に入るか入らないかとなってきました。もう少し前に書きたいとは思ってたのですが、5月の頭から左の腹が異常に痛くなり、痛みがある程度治まってから検査したけど何も出てこず(只、腸に炎症があったけど治りはじめてたのはわかった)、その後もズルズルと微妙に痛くてロクに何もできない状態が続き、やっと数日前に痛みが全くなくなりました。
 病院での問診のことを振り返り、ある日魚屋さんで白エビを勧められて、相当悩んだけど結局季節ものだからと買って、少しだけ刺し身にしたのが引っかかったのかなぁ…アニサキス症とか、大きな魚にしか無いかと思っていたんですが、小さなエビもアニサキス寄生虫)の宿主になるんですね。皆様もお気をつけて。
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日大アメフト事件と働き方改革と森友事件から見えてくる、この国の救いようのない腐敗と、社会や道徳の崩壊。

 さて、今月、色々とありました。この国が、壊れてる姿を隠しきれなくなり始めたと言ってもいいと思います。日大アメフト部の不条理な反則強要事件は、日大という大学が今の政権にもべったりで、経営陣が暴力団とべったりで、反則を強要した元監督はその経営陣の中で、学長に気に入られて酷いことを前から繰り返したという話も、取り沙汰され始めてますね。
toyokeizai.net
 そして、「働き方改革」とか言って、実際の所「サービス残業させ放題法案」であるような中身の法案を、自民党公明党が出してきて、出す理由にしてきた資料も何もねつ造だらけで、政府の答弁もデタラメだったものだから野党の大半が答弁拒否したのにもかかわらず、与党と維新の会が無理やり国会を開いて、殆どマトモな質疑がないままに、維新の人達が言い訳をするために、余り意味がないどころか却って中身が悪くなる「対案」の一部を入れさせたからと、衆議院で自公と一緒に賛成してしまいました。
「働き方改革」一括法案の問題点を考える院内集会声明 | 日本労働弁護団

 そして、森友事件で、自分が大きく関わってたのに嘘八百の答弁を繰り返すばかりか、財務省の中の資料を改ざんさせたり、不法に捨てさせようとしていた、佐川前理財局長が、不起訴になってしまいました。
mainichi.jp

 これらは、表面的には、日本の道徳の崩壊であり、法制度の崩壊なわけですが、私には、バブル崩壊の前からあったような「それ」を、必死に見せないようにしてきたのが、どんどんエスカレートしてしまって隠しきれなくなり・隠すのをやめてしまっただけだったのではないか。と思うのです。
 この国は、法治国家であり、法による正義がきちんと行われ、秩序もそれを助けてきた。そういう風に、私達は教え込まれてきました。学校教育だけではなく、会社や職場でも、マスコミでも。

私達は、間違った幻想を何十年も見させられ続けた。

 しかし、今まで色々と書いてきたように、それは、幻想だったと思うのです。
 この国では、ある種の勢力・ある種の人々には法の規制が通用せず、そもそも法律と言うのはその人たちが自分たちに都合のいいように、長年作り変えられ、裁判所はその前に無理やりな解釈でそれが必要であるかのように、現状を正しいという事を屁理屈をこねて正当化することの繰り返しでした。
 そして、幾らかの法律は、その人たちが許せる範囲で「善意」が織り込まれるし、そのような法律の中に、自分達のエゴや思い込みや差別を、どのようにそうでないかのようにして織り込むか。と言う事に必死になってる人達が、今の与党のような人達だけでなく、警察やお役所や、果ては左派の政党にまで取り入って、その人達以外の多くが酷い扱いを受けるように規制され・あるべき人権すら否定されていくように、されていってることがどんどん酷くなってたわけですよ。

 青少年健全育成条例児童ポルノ買春禁止法なんかはそれのいい例で、迷惑防止条例エスカレートぶりもそうでしょう。その中で公平な刑事手続を奪われたまま冤罪や微罪で刑務所に入れられる人が続出してきてるし、冤罪は未だに繰り返されてる。
 そして、少数の人達・世間で力を持ってる人達が一方的に作り上げた「空気」によって苦しめられる人達・居場所を否定されたり存在を否定されたりしてる人達にとって、この国は、無法も同然だったのです。あらゆる言いがかりが、警察からも隣近所からもつけられ、就職は勿論アパートを借りることも容易ではなく、しかも、それらを世間に訴えれば軽蔑されるし、無視もされる。ワガママに過ぎないとけなされたりののしられるくらい、当たり前だった。裁判なんかに訴えても、なかなか勝てないという状況が長年続いてきてます。最近は、裁判で勝てる場合が増えてるように見えますが。
 それでも、法律の保護や世間の理解を受けられない人達は、この日本に、外国人に限らず、今でも沢山いる訳です。
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少数者や異端・困った人々を切り捨て無視するることで維持された幻想が、社会や道徳の崩壊に繋がってる。

 そういう状況、「影」の部分を、私達の多くは見てこなかったわけです。そして、日本が平等で公正で問題がないかのような「幻想」を、この国は、安保闘争が終わった頃から、あたかも「事実」であるかのように振りまき、今につながるような状況であんまし困ることがなかった人たちにすりこんで来た訳ですよ。
 その中で、市井の人たち・立場が本当に苦しい人達に対してだけ、彼らが暴力で世の中を訴え・変えようとすることが、徹底的に否定されていった反面、力のある人達・場の空気を握った人たちに対しては、無制限に近い暴力の「権利」が与えられ、ただ、世間体があるからその「権利」をなかなか使わないできたに過ぎないわけですよ。

 本当の意味で困った人たちは、無色化されて世間から無視されるだけでなく、暴力を使うことも封じられて、結局は、暴力なんてまったくないような形で、ひじょうにかぼそく自分達のことを世間に言ったり問いかけたりするだけでも、世間の大半の人達が総じて袋叩きをしてくるような状況が、1980年代に一気に・そして、非常に強固な形で出来ていきました。

 その後は、少数の人が声を上げたものの、それで空気を握れば最後、他の困った人達や、声を上げた人達のやろうとすることで逆に押しつぶされる少数の人達・立場の弱い多くの人達が疑問をいえば、それ自体が、物凄く酷くて弁護しようのない「悪」なんだと、世間から非難され袋叩きにされる状況にtなっていた訳ですよ。これが、90〜00年代なかば位ですね。その中で、児童ポルノ買春禁止法や迷惑防止条例ができたり、青少年健全育成条例が青少年から人権だけでなく自分が存在価値を認める権利まで奪い尽くすような形に変えられていった訳です。

 その中で、90年代半ば位までは、政治家の汚職にせよ不祥事にせよ、企業の酷い不祥事にせよ、トップの人達が責任を取ることもある程度はあったし、警察や検察や裁判所も真面目に仕事することがそこそこあったのですが、それもどんどんとなくなり、下の人たちに対してだけきつく当たるのに、上の方の問題や不祥事は、見逃す。マスコミだって、多少は非難するけど、責任を取らずに逃げようとする人達を追い込まないようになったし、警察や検察は勿論、裁判所だっていい加減な処罰しかしなくなっていったわけですよ。

15年前の「SLAPP合法化」で、日本の道徳と社会の腐敗と崩壊は、仕上げられていた。

 その、総仕上げになったのは、2000年代前半に、名誉毀損などに対して非常に高額の裁判を簡単に起こせるように法律を変え、名誉毀損などをした人への刑事罰も厳しくした事があったと思うのです。いわゆる、SLAPP(スラップ・恫喝的高額訴訟)を、お金を持ってる人が簡単に起こせて、起こされた方は経済的に厳しくて裁判費用が出せないくらいの額で起こされるし警察がガサ入れに来たりもするものですから、マスコミやミニコミが、どんどんと偉い人たちや企業などの不祥事を書けなくなっていった訳です。

 この事で、00年代なかばには、社会のシステムを使って悪いことをしても、それがお金を使える人なら殆ど表に出なくなってしまったし、 この頃、スキャンダル雑誌の「噂の眞相」がSLAPPを怖れて廃刊してしまったりなんかしたのが、なおさら拍車をかける結果になった訳です。
伝説の暴露雑誌「噂の真相」休刊10年目の真実 | デスク発ウラ話


 そして、10年代には、企業の現場に対してや世間の人達の生活の場では、「遵法意識」「コンプライアンス」が過剰に要求されてるのに、上の方に行くとうやむやになっていて、時折不正行為や汚職がマスコミで報じられても立ち消えになっていく。と言う事が繰り返されました。
 10年代というか00年代の末から後は、そのように「逃れる資格」がある人達を批判するのは、時代遅れだ。時代遅れのことをしてる人達や政治家や団体は、時代遅れなんだから退場しないといけない。と、マスコミで繰り返し流されて、世間の多くの人達は、それをなんとなくそうだと思うようになって行った訳ですが、その時に、東日本大震災原発事故があって、そこで多くの人は自分や家族や友人たちの身の安全を確保したいだけではなく、この事故がどうして起こったのか薄々勘付いて、その原因を作った人達をきちんと罰することを求めていたのですが、それをやろうとした・国民の生命を護り・責任を取るべき人に取らせようとした菅内閣は、責任を取るべき経産省原子力マフィアの人達のクーデターにさらされ・マスコミも早々にその側に握られる格好になり、半年しないで倒されてしまいました。

 そして、その人達が担ぎ上げた安倍政権が出来てからは、「過ちは繰り返さない」「ただし、自分たちが責任を取らされることこそが過ちで、責任を取らずに今まで以上にどんどんデタラメ放題するのが正義なんだ」と、突っ走っていってる訳ですよ。それは、マスコミの多くの人が、それを悪い事と言わず、その人達を批判し、やったことの責任を取らせようとする人達を非難したり笑いものにしたりすることと、セットで来てしまった訳ですね。

「暴力の否定」が世間に広がる反面、暴力を全て合法的に行う人々がのさばりすぎてるのをどう、変えればいいのだろうか?

 さて、これは、非常に繊細な話になってくるのですが、なぜ、東日本大震災で、殆どの人達が「諦め」「無気力になり」、今のさばってるような無責任で後先考えてない人達のなすがままにされたか。と言えば、長い年月をかけて、暴力を奪われ・言葉を奪われ、そして、自分が困ったのは自分だけが悪いからほかは悪くない。と思わないといけないように、重い罰も含めて社会から締め付けられていった事が、大きな理由だったと思うのです。
 そのように、精神的に色々と奪われていったことで、自分達が何をできるか、何をしていけばいいのか、全くわからなくなったし、そのような話を近くの人とするのも半分タブーにされてる状況がセットだったので、手も足も出なくなってるように、私には見えるんですよね。

 そして、レイシストしばき隊やフェミニズム運動家、一部の「リベラル」を自称する人達のように、自分の非常に狭い視野を隠すこともせず、自分達だけの勝手な都合を世間に押し付けることを「たたかい」だと勘違いするような、人間として質が低い人達ばかりが声を上げ、内輪での暴力やセクハラなどは見過ごしまくるのに、外には「自分達の考えた最強の」正しさを押し付けたことがあって、尚更、その他の人達が声を上げることが出来なくされてしまったし、沖縄の辺野古や高江のように声を上げても暴力は振るわない。としてやってきた人たちに警察が襲いかかっても、暴動も起こらなければ、翁長県知事がそれを見過ごして必死になって反対派を護るのから逃げるようなのが、普通にどこでも起こってしまうようになってる訳ですよ。
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 結局、困ってる人も、困ってる人の側に立っててそれなりに権力を持ってる人たちも、何をすべきかわからなくされてて、孤立に追い込まれてる一方、そのような人達を痛めつけることで利益を得ようという人たちは、どんどんと法律を無視しだしたし、そのような法律無視を、警察も裁判所も、マスコミも、当たり前のことだとしか考えなくなりつつある。

 ここを変えていく必要があるというか、そうしないと日本という土地は・社会は、どんどんと滅びて最後にはソマリアのようになっていくより無くなる訳ですが、しかし、それには非常に多くの人が暴力を適切に使う必要があるのかも知れないと思ってるのです。
 しかし、そうなると、暴力というのは非常に暴走していくものだし、特に自分達に正義があると考える暴力は縛りがなくなって酷いことになるのは、1970年代の連合赤軍に限らず、最近のしばき隊や90年代のオウム真理教を見てても明らかなものだから、非常に悩ましいわけですよ。

 そして、前回書いた「革命のジレンマ」と言う問題も、暴力をコントロールして下剋上をある程度出来た後にはつきまとうわけですね。

 私達は、今のままであってはいけないし、この40年間以上続いてきた「公平幻想」「正義幻想」も「非暴力だけしか無い幻想」も捨てていくより、世間にはびこってる無気力の空気を変えて現状を動かすきっかけをつくるのは難しいのですが…この事にも、正解は、全くありません。
 皆で悩んで、皆で話し議論して、その場その場でどうするか真剣に選択し、考え続けるしか無いのだと、私は思うのです。