信用を自分から捨てていくということ。

 ここ最近ずっと問題が盛り上がってる加計学園の疑獄問題にせよ、森友学園の問題にせよ、政府や与党の側は、法律の決める所を無視するのに非常に力を入れてるのがバレてきていて、しかも、お役人が与党の顔色をうかがって、あるものをないといい続け、無いものも都合が悪いものに関してはあると言ったりするのが当たり前になってますよね。例えば、文科省の前次官の前川喜平氏が、加計学園への「えこひいき」に総理官邸からの強い圧力があったと書類を出して内部告発したのに対しては「ない」「怪文書」と政府が言い続け、前川氏が出会い喫茶で買春に明け暮れていたという「ないこと」を、あたかも本当であるかのように読売新聞などを通じて報道させ、他の媒体はきちんと検証してから報道しようと取材したら、買春などしてなくて、本人の趣味だか自分の家が運営してる財団のためだかの調査や取材が目的だというエピソードがゴロゴロ出てきたりしたのが、一番最近の話でわかりやすいでしょう。
 そして、共謀罪にしても、とにかく共謀罪を作って政府や警察が気に入らない人や政府や警察の邪魔になることをやろうとする人を、いつでもどこでも逮捕できるようにするのが目的になってて、野党が共謀罪のずさんさや邪悪さを正すように問い詰めれば、それに対して、政府もお役人も全く関係ないことを長々と時間稼ぎで答弁し、中身がないまま30時間過ぎたからと強引に採決に持ち込んで法律にしようとしてる。

 これらの事には、色々な問題があるし、多くの人が問題を言ってますね。しかし、私がここで書いておきたいのは、これらは、「政治や行政・報道への人々からの信頼感を失う事になっていて、それを信頼されてきた人々が自分からやっている」と言う事なんですよね。

 

大半の人々が社会に持ってた「信頼」を悪用して、社会を私物化してきた人々。

 この国では、役人にしても政治家や法律にしても、たまにおかしな人がでて私物化しようとするけど、それを押しとどめる力もあれば、おかしくなっても直されていく。と言う、信頼感のようなものが、ありました。そして、それらが、実は、法律を大半の人が守る根拠になっていて、相当部分の秩序を形作って来たと思うのです。
 そして、これが壊れるということは、実は、法律や行政や政治が信頼を失い、それらで「おかしな人々」が好き勝手放題できるようになる。と思いがちだし、実際、2000年頃からの国の与党や市長・知事と言うのは、「改革」「聖域なき改革」と言う「美しい」言葉をマスコミに言わせて政治を独占する事にかまけてきた人々が少なからずいるのですが(小泉純一郎元総理大臣や中田宏横浜市長が象徴的と言えるでしょう)、しかし、それはほんの一時期に過ぎないんですよ。

 確かに、「改革」などの美しい言葉を隠れ蓑にして、行政を私物化し、国や市町村の持ってる財産を私物のように取り巻きの人々に安く売り渡し、社会福祉や公共交通のようなインフラですら「ぶっこわし」取り巻きに安く売り払うことで、その人々は、莫大な利益を受けてきました。しかし、それは、彼らがわかってかわからずか、その地域の社会や日本の社会全体を壊していく事に直結しているのです。
 何しろ、ある種の人々がマスコミの作った「虚像」を使って偉い地位について、やりたい放題して、しかも、その事を批判させないように色々手を回したり(中田宏の場合は、反社組織との交際を垣間見させる記事を週刊現代誌が書いたのに対して、警察に告訴して警察が講談社を家宅捜索し、記事を止めさせたばかりではなく、裁判では週刊現代側の報道内容が正しいと認定されたにも拘らず、中田宏が勝訴したりしてます)、その事で、警察もお役所も自分の都合のいいように動かして法律などないかのような状況になるということは、法律自体を無意味化し、「ばれなければいい」を通り越して、「警察やお役所が見逃してくれればいい」「偉い人に付いて、警察やお役所を自分のために動かさなければ損だ」と言う人々を、多く作りだすことになった訳ですからね。

 それは同時に、そのような事にできない立場の、大半の「庶民」とも言える人々からすれば、法律を守って自分が損をするばかりになるのですし、偉い人達のさじ加減一つで逮捕や有罪になってしまいかねない状態そのものなのですから、最終的には、自分で自分を護るよりなくなるし(先日書いた、痴漢冤罪の蔓延が線路に下りて逃げる人々を産み出したのも、その一つの形です)、それは、法律など守るな。法律など自分の利益の邪魔だから、積極的に破るのが「かしこい」事なんだ。と言う社会風潮に結びつくわけですよ。

 

破壊された信頼を、取り戻すには。

 それは、すでに出始めてる。
 少し前から、飢えをしのぐためにコンビニ強盗をする人々が頻繁に報道されてましたが、最近はそれを通り越して、普通の感覚では理解しにくいような動機で、白昼堂々強盗や暴行事件を起こすという事件が2日にいっぺんくらいは全国報道でされるようになってるように思います。今まで陰に隠れてきたような犯罪が、白昼堂々・それも今ひとつ理解できないような理由で出ていて、それを考えていくと、結局は法律などよりも自分の利益や欲望を満たすほうが正しい。と振り切れた人々が、多く出てる感じが、とてもするんですよね。

 果たして、私達は、どうすべきか。
 非常に困難な問題ですが、思うのは、これをいい機会に、私達を縛ってきた法律や福祉などの根拠になってきた法律などを、一度真剣に考え・議論に持ち込む事と、後は、法律や「公共」や秩序と言うものを、きちんと私達の手に取り戻していく流れを作っていかないと、どんどんおかしくなっていくのではないかと思うのです。
 法律を守るというのは、道徳での縛りにもなっていて、それが逆に、このような状況では、人々に法律を軽んじさせる理由にしかならないのですから、まずは、私達が政治と秩序自体を私達の手に取り戻し、建て直していくのが、多分、この社会をまともに戻していく道なのだろうと、思うのです。

「平気でうそをつく人たち」にどうすればいいのか。

 長いこと、書かずにおりました。体調が今二つ思わしくない。
 このテーマで、今までの間にここで書いたと思ってたのですが、最初の文章から調べたらまだ書いてないので、いい機会だと思いまして。

 今の国会。森友問題も加計問題も共謀罪の答弁も、その他の色々なことに関しても、ウソと時間伸ばし目的の言い訳や論点そらしと、そして、それでも食いついて・食いついて問題をきちんと指摘し・改善を求め(もしくは論外の法律なら廃案を求め)・不正の責任をきちんと取れ。と突きつけ続けている野党四党(民進党共産党社民党自由党)を始めとする一部の無所属議員に対する、人としていかがなものかというような下品ないいがかりや「ウソの事実」で彼ら彼女らを貶めようとする「言葉」「ビラ」「一部のオピニオンリーダー」がのさばり続けてる。

 「公の眼の届かない所で、ごくごく限られた人にだけ利益があることや、国にいる大半の人に新しい罰を与えたり、大半の人には過酷な税金を課したりする事で、自分たちと取り巻きがより大儲けしていくような事を、決めていく」と言うのが、安倍政権であって、そこには、安倍政権の利害やご機嫌を損ねないような「議論」は自民党内では許されてるようですが、そこを超え、安倍政権のやり方や精神論と衝突したり、そのような物に従わないような「議論」は押さえ込まれてる。

「平気でうそをつく人たち」

 「平気でうそをつく人たち」という1996年ころに日本語訳が出た本がありました。この本については気が向いたら読んでみていただきたいので中身は省きますが、この中で、色々なパーソナリティ障害の患者や友人家族のエピソードが描かれていて、その本を斜め程度ですが私が読んだときに思ったのは、「1990年代当時に目立っている政治家や政治家になりたがってる”朝生文化人”の中に、こういうパーソナリティ障害者が多くいる」と思ったんですよ。
 今、安倍総理や金田法務大臣、そしてその廻りでムチャクチャな答弁を繰り返す財務省の佐川理財局長などの一部官僚は、まさに、「平気でうそをつく人たち」なんですよね。

 

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

 

 
 そして、安倍政権を賞賛する本を出したり、従軍慰安婦問題を攻撃してきていた、山口敬之・元TBSニューヨーク支局長の強姦事件を警察の上層部と官邸がもみ消しに動いた事や、加計学園問題での総理達の働きかけを内部告発した前川喜平前事務次官に対し、官邸と警察が色々リークして読売新聞だけでなく週刊誌もリークを基にスキャンダルを色々調べてみたけど悪い話が出なかったどころか、却って美談としかいいようのない話ばかり出てきてしまった。というあたりのことを見ていても、やっぱり、安倍政権や安倍政権に集まる取り巻きのような人々には、法外な密度で「平気でうそをつく人たち」が集まってる。

 「平気でうそをつく人たち」の多くは、如何にも常識的な振る舞いをし、人に好まれるような言葉や振る舞いを意識的にやってます。そうやって信頼関係を作っておいた上で、その中に、「他人を操作するためのウソや言葉・仕草」を織り込んでいくんですよ。
 自分だけが都合のいいように、身の回りにいる他人にウソも吹き込んで対人操作したり、標的に決めた人間に対しての周囲の怒りを煽り立てて、リンチの類に仕向けたりする。
 そういう人達が、今の与党や維新の党のような「衛星政党」には、少なからずいる上に、「連合」でも右派の労働組合が支援してる野党議員には、そのような手法を好む人もいる。

 このような人々が、昭和のバブル経済が弾けて以降、日本の国土と財産と人を、めちゃくちゃにしたのです。その上で、私達がそのような人々が一方的かつ暴力的に支配と社会運営を進めていった事で、仕事につくにも安定した仕事はあまりなく、給料は下がる一方で、年金や税金は貧乏人ほど高くなり、取り立ても厳しくなっている。なのに、政府は経済回復とか言ってる。
 うそつきが社会でのさばり会社経営や政治運営に深く関わり、そしてうそつき集団が与党となり、警察や経産省などの一部の官庁と結託して民主党政権のような誠実さと真剣さが勝ってる政権を倒し、安倍晋三という「平気でうそをつく人」とその取り巻きで永田町と霞が関を占領してしまってる訳です。

気持ちを切り替え、意見表明や意見交換をして、「平気でうそをつく人たち」に振り回されない社会への建て直しを。

 このような状況の社会は、もう、社会の秩序その他のシステムや流通構造ももたないし、崩壊を止めるには、私達だけでは全くの力不足だ。という諦めにも似た感覚が世間で相当広まってるように思うのです。

 しかし、私達は、この国にいる誰もが、この状況下でであっても、生きていかねばならないのです。

 私達がすべきは、この社会を、崩壊が相当進み始めてる社会を、どのように建て直していくか。という気持ちの切り替えと、その上でどうすれば崩壊が進んでる社会を建て直せるか・建て直すにはどうしていくべきか。ということの意見を、ネットでほそぼそとでもいいから、つぶやいたり、文章書いたりして、色々な人達と議論をしていくことだと思うのです。
 できうるならば、最大限、自分を活かし、時々の楽しみや「自分へのご褒美」もちゃんとやって。

もう、「平気でうそをつく人たち」に振り回され・抑え込まれ・監視され続けるような社会にはしてはならない。みたいなある種の誓いと一緒に。

この一週間ちょっとは、歴史に残される事になるかもしれない。

 最近ニュースや情報番組で沢山取り上げられてる、加計(かけ)学園問題。愛媛県今治市に、総理の昔からの友人と言うより大スポンサーが経営してる加計学園獣医学部を無理やり作るように、内閣府・要は総理大臣のお付きの偉い人たちから強く迫られて、総理大臣が国家戦略特区にしてもしまったので、文科省が折れて、今までの規模や獣医さんの必要な人数も無視して新しく学部を作ることを認めた問題で、文科相内部の資料を暴露した、前の事務次官の前川喜平氏が、ここ数日、マスコミ各社のインタビューに出たり、記者会見を開いたりしています。
 記者会見やインタビューの中で、前川氏はこういう言葉を、必ず言ってます。

加計学園:前川氏会見詳報(1) 「あったことをなかったことにはできない」 - 毎日新聞


「私の後輩たちや、お世話になった大臣、副大臣にこの件でご迷惑をおかけすることになる。その点では大変に申し訳ないと思うが、あったことをなかったことにすることはできないと思っているわけです。」 

 

 

当時の“文科省トップ”独占証言「“総理の意向”文書は本物」 TBS NEWS

「政府の中で、どのように意思決定が行われているのかを国民が知ることは民主主義の基本の基本。決して内閣の転覆を考えているわけではない」

 

正義とか政治的正しさではなく、自分の中にのこってる良心に従おう。

 私は、一つのことを考える訳です。正義ではなく、政治的正しさでもなく、ましてや「場の空気」や利害とかでもなく、「自分の中に残ってる良心」に従って動くべきときに動くことは、この崩壊する社会をどうにか建て直す上で最も大事なことであるし、それが余りに不十分なままで、戦後の後半・約40年ほどの世の中が廻ってしまったことで、この社会が色々な所でほころびをどんどん強めるのを誰も止めることも出来ずにただただ問題を先送りして、結局社会がとてつもなく破壊されてしまったのではないかと。
 そして、前川氏の行動は、多分、安倍政権が大きく変えた、官僚の使われ方(内閣人事局で調べてみてください)によって、安倍政権やその取り巻きの人々のでたらめな振る舞いや要求を止めてきた人達が排除され、出世の道を絶たれ、そのかわりに、良心なんてどうでもいい・自分の出世やお金がもっともっと出来るなら、自分から進んで法も壊すし偉い人の言いなりになりましょう。と言うような人達ばかりが偉い立場になったことで煮え湯を呑まされた格好になった、まだまだ良心が残る官僚たちに対して、「自分の良心に従い、事実を洗いざらい日の下にさらし、今までの責任を取らせるべき人々に取らせていきましょう」と言う、激しい呼びかけではないかと思うのです。
 それは、官僚や政治家に限らず、私達一人ひとりにも突きつけられている。

 正義や政治的正しさや理想ではなく、自分の中に残ってる良心に正直になって、やれる事だけでもやっていくことを、前川氏の発言というのは要求しているように思うのです。
 そして、それは何かと言うと、

  • 「ダメなものはダメなんだ」と意思表示し、政治家や官僚たちに対しても、そうするように呼びかけていく。
  • これから何人も出てくるであろう、「良心に従いたたかう官僚」を、私達が何らかの形で支え、間違ったことはしてない。と声を上げていく。
  • 政治家やマスコミに対しても、空気とか圧力ではなく、良心に従って、「ダメなものはダメなんだ」と言い続けることや、今あるもの・ありのままを伝えたり、ダメな真似をした人達の責任を追及していくことは正しいともう、もっとやれ。と声を伝えていく。
  • 今、自分が問題だと思うことに対して、人々に対してプラカードを含めて、言葉として伝えていく・議論が出来るようならしてみる。

などなど、色々とあると思うのです。
 この一週間ちょっとは、多分ですが、この国・日本という国の将来の方向を決める事になるのではないかと思います。そして、その方向次第では、いい意味か悪い意味かはわからないですが、内外の歴史書に残ることになるかもしれない。

 やれることを、やっていきましょう。自分に無理をしない範囲で。自分の中の良心にのみ、従い、空気とか敢えて読まないでいくような感じで。

広場が奪われ、人々が黙りあきらめた先に出てきた、アッキード事件と共謀罪。

 先週金曜日(5月19日)、衆議院の法務委員会で、今までないようなムチャクチャな強行採決で通された共謀罪が、今日にも衆議院本会議で可決されようとしていて、野党四党が、国連からも厳しいクレームが付けられた状態で、共謀罪可決のために衆議院本会議を開ける状況か。と、必死に抵抗しています。
 その事に対して、声の大きな人達が相変わらず「野党四党は情けない」「共謀罪は大したことない」「反対するのはやましいことがあるからだ」と言っています。
 ここで考えたいのは、日本は、総理大臣があからさまな汚職を一部の官僚と一緒になってやり、汚職で便宜を受けた加計学園は経済犯罪まがいの行為で銚子市今治市などから沢山…数百億円単位…のお金を吸い上げ、森友学園に関しても、籠池理事長一家を担ぎ上げた上で色々と違法なことをやっているという証拠が出てきていて、それで今になって批判が出てきてるのに、総理も大臣も総理も官僚の偉い人も、誰もやめようとしてない。
にもかかわらず、総理はやめろとか官僚を逮捕しろとか、共謀罪なんかやってる場合か。生活をなんとかしろ。そういう街角の動きは、非常に、弱い。韓国に限らず、大半の国では、街頭デモとゼネストを繰り返して、汚職まみれの大臣や悪政を繰り返す大統領を辞任に追い込んでるにも拘わらず、日本では、そういう流れが非常に弱い。それは、なんでなんだろうか…少し考えてみましょう。

 

「日本には広場がない」。

 先週の末に、Twitterで、そういう話になったことがありまして、「日本には広場がない」と言う話が出てきたんですよね。見ず知らずの人が集まり・政治に限らず色んな話をする場としての、広場が、無い。これが、民主主義がどんどんおかしくなった大きな原因なのではないかと。

  日本にも、戦前戦後を問わず、広場はあったんですよね。1970年前後の安保反対闘争の盛り上がりの頃までは、多くの街に広場があったし、そこでいろんな議論がされたり、当時最も盛り上がっていたフォークソングのような歌や音楽で盛り上がったりもしていた。安保反対闘争までの、「街角の民主主義」や「怒れる若者」と、広場は、密接に関係してて、広場が、世の中を動かしていこうとする人々の原動力ですらあった。
 当時は、無届けデモというのも、物凄くあった。当時も、公安条例のように無届けデモを処罰する条例があったのですが、それでも、裁判に訴えて行っていた。
 しかし、警察が激しく暴力的な弾圧に走った事もあって、広場に集まった人達が暴力には暴力で対抗することも少なくなかった事や、前に書いた上尾事件に代表されるように、広場に集まらない人達の主権者意識がなくなっていっていた時代でもあったので、マスコミが「暴力的な学生」「暴力的な若者」を非難する風潮が出来、そこに警察や自治体が乗っかる形で、広場がどんどんと細切れに工事され、人が集まらないように警察が常駐したりしていった。
 そういう中で、それでも、歩行者天国での政治的主張というものはされたりもしていたのですが、しかし、警察が大規模に介入して政治的主張を言う人達や政治的な歌を歌おうおとする人達を暴力的に排除する事が90年代まで繰り返され、その内、地下鉄サリン事件などを口実に、地元の自治会が警察に要請する形で、どんどんと歩行者天国自体が奪われていった。

ameblo.jp

 そして、90年代の半ばから終わりには、歩行者天国での政治的主張やビラ配りというものが禁止されるのが、歩行者天国を主催してる地元自治会や都道府県・市町村が決める形で(実際には、警察がそのように根回しをして)、当たり前のルールとされてしまった。

 

60年代まで日本にもあった「広場」が奪われ、人々が何を言えばいいかわからなくなった。

 つまり、70年安保闘争からの約30年間で、日本から「人が政治的につながる場としての広場」というものが、根絶やしにされていったんですよね。
 90年代と言う時代に関しては、暴対法の問題とか色々と書くべきことがあるのですが、又の機会にしますが、とにもかくにも、人が政治に関して関心を示したときに、お互いに議論する場と言えば、かなり多額のお金を費やしてパソコン通信・ネット(90年代後半はインターネットのネットニュースや掲示板も入ってきた)にしかなく、殆どの人は、テレビの討論番組しかなくなっていて、そこでは比較的社会立場のある人が下層の・末端の生活や気持ちを顧みないで、自分のイデオロギーに基づく空論をぶつけ合い、特に右派やネオリベラリズム新自由主義)に拘る人達が、反対の側の人達や庶民の声を代表する人たちに、「非現実的だ」「代案を出せ」と迫り、いじめ抜くのを司会が止めないのに、それに言い返せばすぐに司会が止めたりもするという、非常に不公平な言論がまかり通っていたわけですよ。

 そうなると、テレビが広めようとするものの見方や思想に疑問を持つ人は、物凄く孤立していったわけですよ。そこに、00年代頭のネット右翼と言うより自民党ネットサポーターズののさばりぶりも追加された。
 いわゆる、左側の考えを持つ人は、徹底的に孤立するか、偶然知り合った似た考えの人たち(この人達も、大抵は思想的に腐ってる)に取り込まれて、その人達の受け売りや内輪の論理に染まっていくよりなかった。

 

改めて、「広場」を作っていくような、積み重ねをしていこう。

 60年代末からの「広場を社会から奪う」と言う、警察であったり保守政治家・保守思想家たちであったりの動きは、結局は、日本の人々に無力感を植え付け、目先のことにだけ関心が行くように仕向け、政治に関心を持つことがタブーにされてしまうという状況を、最低でも結果では招いたし、結果ではなく、それは最初からそうするつもりだったのだろうと思うのです。自分たちがいくら腐っても・どれだけデタラメをしても、誰も大して文句を言わないし、やめろと迫られることもない社会。それを、彼らは目指してここまで来たのでしょう。
 しかし、そうなると、「彼ら」以外の人達はとことん暮らしにくくなるし、生きにくくなる。1998年頃のアジア経済危機以降、自殺者・とりわけ、男性の自殺者は高止まったままだし、痴漢冤罪に限らず、色々な事で、人々が他人の些細な不届きをあげつらってつぶしあいに走るし、経済状況は、最低でも末端の生活の状況としてはどんどん悪化していて、食料品や日常的に使うものを作る会社がどんどん倒産したり廃業したりしてる。

 日本はこのように酷い崩壊の状況にあるし、そこを私達が生き延びるためには、広場を改めて作っていかないといけないと思うのです。それは、物理的には駅前のコンコースや盛り場で政治的な意思表示をしてみること(無言でプラカード持つだけでも)であるし、今、抵抗してる野党四党に声を届けていく事で、色々な人とつながりネットワークを作り直すことであるし、ネットでも日常生活でも、声の大きな人や場の空気に従ってばかりではなく、自分の考えを、喧嘩にならないようにおそるおそるでも、話していく。
 そういう非常に些細で、それ一つだけでは何かを変えるにはほど遠いように見えるような事から、私達はやり直して積み重ねていくより無いのだと、最近思うのです。

声の大きな人達だけに、社会を任せては、社会がダメになる。

 最近、「痴漢冤罪」と言う言葉が、多く言われるようになりました。痴漢行為をしたとして、逮捕されそうになった人が、線路に逃げ出すのが東京を中心に、平日は毎日・当たり前に起こるようになり、そして、死者が何人も出る状況になってしまっています。
 なぜ、彼らが逃げ出すかと言えば、逮捕されて同行を求められたら、自分の無罪を証明する方法がない。と言う形で、痴漢行為を罰する法律と言うか条例(迷惑防止条例)が出来ていて、その事によって、自分の無罪を主張し続けた人達が、長期間警察や拘置所に監禁され、裁判所でも、痴漢をしてないという証拠があるときでさえ、「有罪だから有罪」というような理屈で有罪が量産されていたのが、数年前まで痴漢事件の大半の結末だった事が、今になって非常に響いてるわけですね。
 弁護士の人達ですら、「逮捕されたら有罪は免れない」「逮捕されそうになったら、逃げるしかない」と何度も繰り返していて、その事が拡散された事で、線路に逃げ出す人が当たり前に出るようになってしまってる。

 ここで考えないといけないのは、痴漢事件に直接関わってる人達の問題ではなく、明らかに、「迷惑防止条例」と言う、痴漢行為を罰する条例が、余りに簡単に人を逮捕して処罰できる上に、冤罪だという証拠・やってないという証拠があっても有罪に誘導できてしまうような中身のまま、十五年近く放置されてきてる事だと思うんですよ。これを、なぜ、改めることが出来なかったのか。

「迷惑防止」という名目で、誰でもどこでも逮捕できる条例。

 「迷惑防止条例」は、国の刑法などで処罰が困難な行為・例えば痴漢や性器露出、声掛けや公の場で騒いだりするなどの行為を罰するために、00年代頭に、警察とフェミニズム運動が主導する形で、各都道府県に制定が行われた条例です。国の法律であれば、相当厳しい条文の審査があるのが、第二次安倍内閣になるまでは当然のことでしたから、簡単には逮捕や処罰が出来ないようになっていたでしょうが、条例となると、各都道府県の議会の条例審査は、非常に限られた場合を覗いて、殆ど、審査がされずに成立してしまう上に、地元住民の関心が地方政治に対しては非常に薄いから、条例が監視もされてないという、ある種のセキュリティホールのようなものがありますから、その事で、制定を後押しした警察官僚やフェミニズム団体にとって都合が良かったという側面があった訳です。

 制定を後押ししたフェミニズム運動の人達の考えとしては、「痴漢などは『魂の殺人』とも言える重い性暴力なのだから、軽犯罪法などの制約のある法律ではなく、制約が非常に薄い条例で、重い処罰を行うべきだ」と言うのが、あるようなんですね。そして、この人達やこの人達をオピニオンリーダとする人達は、今でも、痴漢の罰は被害者を考えると軽すぎるし、もっと簡単に逮捕できるようにしなければならない。と、運動を続けてます。

 その結果、多くの、都会に住んでいて都心などに毎日電車やバスで通勤している男性は、冤罪の恐怖に怯え続けてるわけですし、実際、多くの冤罪事件が、冤罪被害者の救済や名誉回復がされないままで、いつ冤罪が起こるかわからない状況に置かれてるわけです。

痴漢冤罪は、時の権力が政敵を排除するところから始まった?

 この条例の「威力」が最初に出たのは、慶應大学の植草一秀教授が、りそな銀行の国有化に伴う、財務省と政治家と暴力団による経済犯罪を解き明かし、告発をしようとした矢先に神奈川県警に痴漢行為で逮捕され、彼は無罪を訴えたものの有罪となり教授の職を失い、罰金刑で済みましたが、その二年弱後に、警察官が露骨に取り囲んでる状況で再び痴漢行為をやったとして現行犯逮捕され、彼は無罪をいい続けてきたにも拘わらず、有罪となり刑務所に追い出されたことだったと思います。

植草一秀 - Wikipedia

 

uekusak.cocolog-nifty.com

 

 要は、時の権力や政府の都合の悪いことを調べて回る人やそこに歯向かう人達を社会から抹殺するために、非常に簡単に迷惑防止条例が使われる。そのような目的に、迷惑防止条例が作られたことを疑わざるを得ないということだったわけです(※1)。この辺り、今まさに強行採決が迫っている、共謀罪(テロ等準備罪)の抱えてる問題と、非常ににています。

※1 ネオコンが最も勢力を強めていた、00年代頭のアメリカでも、FBIが政敵を排除するのに、性犯罪が有用だ。と内部で言っているのが報じられていましたが、それの日本版であるとも言えるでしょう。<

冤罪を産まないようにする改正の機運が出たものの、すぐに潰された。

 その後、「それでもボクはやっていない」と言う、周防正行監督の映画なども出来たことで、一瞬だけですが迷惑防止条例を冤罪ができにくいように改正しようという社会的機運が出てきたのですが、そこに対し、「性犯罪者の味方」「痴漢被害者の心情を考えろ」と、声高に、改正を求める人達の声や議論を潰して廻った人達がいました。
 それは、フェミニズム運動家や、そこに同調した人々でした。

 そして、改正を求める機運も、簡単に拘禁されたり有罪にされたりしないような努力を司法等に求める機運も、殆どなくなってしまった状態で、つい最近まで来ました。
  「有罪だから有罪」と言う判決が相次ぎ、長期間拘禁されることが「人質司法」と非難されるのが長く続いた事で、この一二年は、冤罪を作らないようにする努力が、主に裁判所の側で行われ始めるようになりましたが、しかし、全てが遅かった。

 冤罪を起こさないような改正を求める人達が押さえつけられ・あたかも大悪人であるかのようにレッテルを貼られ続けた事で、痴漢行為という一つの違法行為であるとはいえ、警察も裁判所も、そして鉄道会社も、全く信用されなくなってしまい、「自力救済」要は、法律を宛てにしないで、他の法律に違反してでも冤罪から免れるのが当たり前という状態に、陥ってる訳です。

「正義」を掲げる故に人を押しのける、声の大きな人達を乗り越えないといけない。

 この事から、非常に大きな教訓が出てくると思うのです。

 「声の大きな人達」は、彼女ら彼らの善意や正義に基づいて、声を大きくしている場合もあるのですが、しかし、そういう人達によって、それ以外の多くの人たちの利益が大きく損なわれることを、いかなる理由であっても許してはならないし、彼女ら彼らの言い分は一定認めた上で、それ以外にも正義や利益・人権というものがあるのだから、如何にして落とし所を作っていくか。と言う考えや姿勢をブレさせるべきではないといいことです。
そして、自分たちに反する意見の人達や正義や利益に反する人達をむやみやたらに「悪」「悪の味方」などとして非難し続けることで、自分たちの言い分を殆どそのまま通して、社会を動かそうとする人達に動かされてはならないし、そのような人達をありがたがって同調する人々に対しては、状況によっては「たたかう」必要があるということ。

 それらを上手い事やっていかないと、この社会は容易に崩壊するし、それが今まで全くできなかったが故に、痴漢という問題だけではなく、多くの無用なはずの対立やつぶしあい・憎み合いが普通のようにあり、この社会は崩壊してしまってる訳です。

 そこを、きちんと乗り越えるより、崩壊の先にある社会を人が生きる社会には、できないと思うのです。

福島の山火事騒動から考える、共謀罪と今の日本の風潮との合わせ技での危険性。

間が非常に空いてしまいました。扁桃腺の腫れと一緒の感染症も、もうそろそろ決着が付きそうです。

 共謀罪という法律の審議で、毎日国会が紛糾・ぐちゃぐちゃになっています。何がなんでも通したい与党の自民・公明と維新や法務省などの偉いお役人たちは、大臣なども含めていい加減すぎる答弁や、質問に全く答えないで長々と関係ない話を言って時間を潰し、来週にも30時間ちょっとの「審議」が出来たから、無理やり衆議院本会議を通してしまおうと、虎視眈々と「予定表」をマスコミに出してくる。
 今回はそのことではなく、本日(5/12)に、民進党枝野幸男議員の質問について書かれた、三宅雪子衆院議員のTwitterの記述が、ちょっと引っかかったので、そこから入っていこうと思います。

https://twitter.com/miyake_yukiko35/status/862955173265547266
枝野さんの質問。ネット民にかなり関係することが。
風説の流布』が対象犯罪なので、成立したら(させたくありませんが)、デマ、そしてデマと疑われるものの流布(公衆の伝播)の共謀(ここがよくわからない)はだめになります。とか。
この法案、本当に意味不明です。18日に衆で採決?恐ろしい。

 これ、要は、「国やお役所などが『デマ』だと考えることを広めたり・拡散したりすることは、共謀罪の取り調べや取り締まりの対象にしましょう」ということの一環で書かれてる条文である訳ですよ。

風説の流布 - Wikipedia



風説の流布」だけではなく、デモや騒動を起こすことにつながる可能性のあるすべてが取り締まられる危険。

風説の流布」自体は、例えば株価を操作する場合などに限られていますが、企業の不正行為の内部告発や、不正な取引の告発自体が「風説の流布」と疑われ、ネットの言論なんかを見ても、内部告発の類に対して、いとも簡単に「風説の流布だからやめろ」と言う反応が帰ってくることがかなりあるんですよね。
 そして、その他の共謀罪の対象犯罪を見ていくと、「騒乱罪」「偽計業務妨害」などもあったりするんですよね。要は、国であったり地方自治体であったり大企業であったりに対して、都合の悪い「デマ」が流れた場合に、その情報を拡散したりしたり議論した人たちに対して、いつでも取り調べや処罰が行えるように仕掛けがされている。

共謀罪は民主主義を殺す 組織的業務妨害共謀罪の恐怖: 街の弁護士日記 SINCE1992at名古屋

 

www.asahi.com

福島第一原発近辺での、山火事のこと。

 6年前に大事故を起こした福島第一原発の近辺の山林で、最近、山火事がありました。山林ですから、当然、除染は不十分で、原発事故で放出された、汚染物質の多くが、降り積もったり吹き込んできたりしたままになっている。そういう所で山火事が起こるというのは、極端に珍しい話ではなく、1986年のチェルノブィリ原発事故の後、周囲数十キロの範囲が基本的に立入禁止になったので、このような山火事が今までに何度も起こっていて、そのうちの何度かの大火事は、火事によって吹き上げられた汚染物質が広い範囲に拡散し、立ち入り禁止区域の外側の都市部でも強い放射能汚染が再び起こる事が懸念される事態にになったりもしていた訳ですよ。
 今回の山火事は結構規模が大きく、実際、鎮火まで一週間以上かかる結果になってますから、山火事の初期から、広範囲に大きな汚染が広がるのではないか。東京などの都市部でも、少なからぬ影響が出るのではないか。と言う、懸念の声が起こった訳ですよ。問題の山林がどの程度汚染物質が溜まってるのかもわかってない状況で、過去にウクライナベラルーシではそれなりに重大な問題になってるのですから、日本で起こる可能性を警告するのは、ある意味理にかなってる。
ところが、この国の、多くの言論人や「科学者」などは、一斉に、この懸念の声や警告を、「デマ」「非科学的」「嘘つき」と叩き出したわけですよ。このような懸念があることを取り上げた紀伊民報紙がバッシングされて記事撤回に追い込まれただけではなく、このような懸念や「非難すべき」と言う言葉に対し、えげつないまでのバッシングが、GWの連休期間中に展開され、一部の新聞すら、そのバッシングに乗っかった。
浪江町の森林火災で放射能汚染拡大を告げるデマ | スラド



 確かに、公と言うか国が設置させたモニタリングポストの数値は上がらないでいましたが、5月6日前後から、山火事近辺で人が住んでいる場所での放射線や空気中の放射能の測定をしている場所での汚染数値が急激に上がった訳です。
https://mainichi.jp/articles/20170510/ddl/k07/040/020000c


 バッシングをした人達は、この誤りを認めないどころか、色々な言い訳を連ねて、開き直り、事実を認めようとしていない。

国が「デマ」だと言えば、事実でも共謀罪の対象にされる危険。

 さて、脈略もなしにこの話を取り上げたのではなく、これが、共謀罪に当てはめたらどうなるか。と言う事を考える必要があるのではないかと思ったのです。
 共謀罪では、色々な形で政府などが認めない物事を広めることに対して、いつでも捜査や取り締まりが出来るようになっているわけですよ。例えば、放射能汚染や原子炉の爆発があったから逃げないとダメだとか、汚染の責任を取らせるためにデモをしよう。となって、それを警察などが認めなければ、刑法などに違反してる・風説の流布だ・騒乱目的で流言飛語を流した。などとして、調査したり、警察に連行したり出来るように、今までの政府やお役人の答弁を踏まえても、そういう風なよちがガバガバなくらいにある。

 そうなると、山火事で汚染されたものがばらまかれるから避難しろとか換気を気をつけろなんて書くことも、共謀罪の対象にされてしまう。原子炉が爆発したとか、原子炉が臨界暴走してると、諸々のデータから解析し、避難や自衛を求めても、国などが「デマだ」と言い張れば、規制や逮捕の対象になる。

 関わったみんなが、議論したみんなが、逮捕や取調べされる必要はないのですね。ごく一部の、それも、今までデモにも全く言ってなかったような人を何人か逮捕し、組織犯罪や組織的なデマ拡散の類に関わってるかのようにして、腰縄付けられた状態でテレビカメラに晒して、住所も氏名も職業も大々的に報道させて、何ヶ月間か牢屋にいれておけばいい。そうすれば、逮捕された人の社会生命は完全に終わりますし、そうなると、大半の普通の人達は「自分もこうされたくない」と言う事で、議論も情報共有も逃げるようになる。
 政府や大企業などの都合のいい話以外は、全く出回らなくなるような世の中というのを作れますし、そういう「逮捕実績」が積み重なると、警察の公安的な部署に対する予算や人員も一気に増やされるから、そうなれば、街の立ち話や気に入らない相手に対するウソの密告で、色々言いがかりを付けてだれでも逮捕できてしまう体制が出来てしまうことになる。

児童ポルノ・買春禁止法」「淫行条例」での悪循環が、あらゆる問題に広がる悪夢。

 これは別に妄言でもなく、すでに「児童ポルノ・買春禁止法」や「淫行」に関する法律・条例違反で行われていることです。児ポ法に至っては、大半の検挙者が、自分の裸などの写真を撮ったり送ったり・公開したことによる「作成罪」になっていて、つまりは、18未満の若い人たちが主にこの犯罪で逮捕などされていて、それを使い「児童ポルノ被害が急増してる」と警察が大声で言って、関連する予算を多く取り付けたり民間に対して検閲を強めるように要求がされていると言う、一種の悪循環が成立しちゃってるんですよね。

 そういう事が、他の多くのことでも起こってしまうというのが、共謀罪なんですよね。
 それこそ、津波が来たとか原発が爆発したとか、そこまで行かなくても、自分の測ってる放射能の数値が急激に上がったとか、そういう話でも、起こってしまう。

 今回は、恐怖を煽るような話をしてしまいましたが、しかし、今必要なのは、「野党四党に対して、徹底的に国会を止めて、法律の成立を押さえ込んで欲しい」と相手の仕事の邪魔にならない形や、相手の手伝いのついでに、要望を届けていくこととか、街角で意思表示をささやかにでもやっていき、幾らかでも議論を拡げていくことだと思うのです。

施行から七〇年目の「憲法の日」だけど、戦後蔑ろにされ続けてきた今の憲法の事を少し。

 私はこの時期になると決まって扁桃腺を腫らして熱も出て塗炭の苦しみを味わうことになるのですが、皆様は、お元気でしょうか。


 と、私信から入って恐縮でしたが、最近の流れに関して色々と書かないといけないとは思いつつも、これを書いた次の日は、日本国憲法が施行されてからの、記念すべき70年めの記念日に当たるのもあって、私なりに、幾らか憲法を絡めて書いていこうと思います。

 憲法と言うと、どうしても9条(戦争の禁止)が話題になりやすく、その次に話題になるのは21条(表現の自由・検閲の禁止)であったり,最近だと24条(家族生活での個人の尊重と両性の平等)が挙げられることが多いですが、もう少し別の条文について、注目してみたいと思います。

十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条 - Wikipedia



憲法九条無視問題よりも、ずっと深刻な、憲法十三条無視問題。

 今の日本、果たして個人が個人として尊重されるということが、きちんと行われてるでしょうか?学校でのいじめ問題や体罰問題は、なかなか改善が見られなくなり、最近だと部活動の強制・特に体育系の部活動で、休日がほとんどない状態で教師も生徒も駆り出されている上に、部活動の指導にしてもその道のプロではなく教師が手弁当でやってるから、きちんとした指導も出来ずにいて、しかも、昔から続いてる「体育会系の序列」は、根強く残されてる。と言う辺りからくる、人間関係の歪みや生徒と教師どちらも疲れ切ってしまってるという事の問題点が、話題になったりしてますね。
更には、前々からここで取り上げてる「管理教育」の問題で、生徒の髪の毛の質や色を学校が規制して、元々の髪の毛が色が薄かったり縮れていたりするのを証明する書類を提出させられるなどという学校が、半分以上であったという調査結果が報道されもしました。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル


 組体操の事故の被害者が未だ少なくなく毎年出ているのに、やめるという決断をしないことなんかも含めて考えていくと、この国の、学校教育には、全く、「全て国民は、個人として尊重される」と言う精神が備わってないとしか言いようがないんですよね。

 教師個人の努力でそこにあらがって、生徒を個人として尊重している人が少なからず現場にいるのはわかるのですが、しかし、そういう教師たちよりも、上の立てた、「生徒を個人ではなく、管理可能な家畜のようにしてしめつける」ような政策や教育方針を、そのまま実行し、進んで生徒の心を折って従順にしていくような人が出世するのは、相変わらずのようですし、教育現場の「憲法」「人権」というものに対する見る眼のなさ・著しく軽蔑するような扱い方が、結局は、子供の頃から人権などを信用させないで、個人のエゴと集団の「空気」に文句を言わずに従い・絶えきれなくなったら逃げることも許さないで、結局自殺するしか選択肢を与えないかのような、「人間」を、大量生産する結果に繋がってるんだと思うんですよね。

人として産まれたはずなのに、なぜ、日本の人は、人としてではなく家畜であるかのように育てられるの

 これは、度々書いてるように、1970年代の後半・ひょっとしたら1960年代の終わりくらいから、教育と労働に関する政策を徹底的に変えていくことで、「物を言わないで黙って働く国民」を作るということに、国が…政府も右派政治家も、財界人たちも…、膨大な資源を投入していった結果なんですよね。

 中曽根教育臨調やその前のからの、内申書と受験競争をベースにした管理教育なんかもそうですし、

 国鉄分割民営化や「連合」結成・総評解体に代表される、労働運動の徹底的な切り崩し(会社や財界に従順な御用組合以外を徹底的に潰していった)、

 会社法や労働法の改悪で、雇用の不安定化を図っていったこと。

 これらは全て、個人を人として尊重するものではなく、物言わぬ家畜・もしくは、物を言わずに死ぬまで働く奴隷としてみなすように、教育を先頭にしてやっていった事だと、私は思います。

 その結果、日本はどうなったかと言えば、就職氷河期の人達は、まともな職につくチャンスすら奪われ続けていますし、その後の世代の人達にしても、非常に安い給料で、毎日終電近くまでサービス残業させられるのも当たり前・会社がツイッターフェースブックをチェックして、会社によっては、趣味でやってる同人活動のような物までギチギチに管理しようとしてくる。それでいて、給料があがるかといわば、逆に下がったりする。
 そして、消費税は増やされ、スーパーで買う食料品の分量が減らされ、しかも、今度は、減らされたままで値上げまで始めるようになってきてるし、そもそも、年金や健保の取り立てが厳しくなりすぎて、可処分所得が下がる一方。

 要は、マルクス経済学が指摘していた意味での、「正しい意味での」、「搾取」が、どうしょうもないくらい広い範囲で行われている上に、人々の多くは社会から個人として尊重されずに、「強い人」の言い分を認めるだけしか生き方を教えられなかったので、誰も声を上げないし、だれも現状に抗う気力すら失いつつある。と言う状況は、どう考えても、憲法十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」とは正反対の状況な訳ですよ。

五〇年先、一〇〇年先の為にも、私達を個人として尊重する社会に作り直す、覚悟。

 いくつもの悪意が、今の憲法をボロボロに骨抜きにするために、最低でもこの四十年間ほどを使ってやってきて、人々から力を奪った。
 しかし、国は、色々と綻び、子供も産まれなくなり、お金も廻らなくなり、崩壊するより最早道が見えなくなってる。

 そのような状況だからこそ、私達は、すこしでも、「尊重される個人」のありようを取り戻していかないといけないんですよ。それも、社会や会社にとって利用価値があるから尊重されるのではなく、社会や会社が、自分たち「個人」をもっと尊重しろ。尊重しないのなら、「個人」は今の社会や会社を見捨てて、自分たちが尊重できるような社会や会社に作り直す。と言う、結構な覚悟が必要かもしれないような、社会の総入れ替え・総建て直しを、やっていくことこそが、私達が生き残り・後の世代が生き残るだけではなく、後の世代が人間らしく個人として尊重されるようになることで、後の世代やそのまた後の世代が増えていく、50年先・100年先には衰退を免れ、もう一度栄える準備を始められるような社会や国へと作り直す第一歩だと、私は思うのです。