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日本に、民主主義があるのか?

昨日(2016年12月9日)、お隣韓国では大統領が弾劾されて事実上辞任に追い込まれましたが、日本では、TPPが無理やり批准されると同時に関連法律の改正案も一緒に成立しました。これらは、衆参両方とも反対の声が大きいのに、ほとんど修正されずに与党と賛成する政党の数の力で通されました。今回は、この違いについて少し書いてみようと思います。

知らされるか、知らされないか。

日本のテレビや新聞では、連日韓国の事を大きく取り上げていますが、TPPの事は詳細に報じられることもなければ、日本各地で根強い反対があることも、さらりとしか触れられてないです。そして、衆議院で非常に短い時間で数の力で無理やり採決に持ち込んだことに関しても、採決当日は多少は触れましたが、それが今後日本にとってどういう悪影響があるかとか、審議時間が非常に短かったことについては、誰でもわかるような言葉を使わずに逃げるような報道が多かったですし、参議院の審議に至っては、相当強引な進行が行われていたのに、ほとんど報じられなかった。そして、TPPが決まった途端、実はこんなに不利なんですとか生活に影響があるという話が、数日程度続いてフェードアウトしていくのでしょう。
反面韓国のことは、大規模集会が開かれていたという事はしつこいくらいに報道されてましたが、それが、全国規模の大規模なストライキゼネスト)を何度も伴ってきているものだということは、殆ど報じられてない。まるで、ゼネストと大統領の退陣がセットになってる事自体がタブーであるかのように。

こういう、マスコミがありのままを報じず、法律を決める側・時の権力の側には都合の悪い話は報じなかったり、全てが決まって裁判を起こしてもひっくり返すのが絶望的な状況になって初めて、実は国民がコレだけ損をします。と触れだして、それも数日から数週間で忘れ去られる。と言う状況の中に、私達が置かれてることと、韓国ではそういう、日本では触れられてない情報が多く流され・忘れ去られることなく流れ続けてると言う事を、やはり、日本の特殊性として見ておかないといけないのではないかと思う訳です。

知らないこと・知らされないことが徹底してる上に、個人がずたずたに分断されて個人の苦しみや怒りがそこで終わってしまっている日本と、検閲が厳しく知らされないことが多いはずなのに多くの人が知っていて、しかも人々が横のつながりで動いてしまう韓国。この格差が、なんでもかんでも与党のやりたい放題で決まったら強制力を持って、不都合を受ける人達は仕方ないと我慢するよりなくなってる日本と、デモやゼネストで大統領の首を飛ばせる韓国との格差になってると思うのです。

発展すらしてない日本の民主主義

池上彰が、「韓国の民主主義は発展途上」と自分の番組で述べて、ごく一部で問題視されましたが、今まで書いたことを考えると、実際には、日本の民主主義は発展すらしてなくて、韓国は東アジアの中では進歩した民主主義を維持できているという評価が出来るのではないかと思うのです。
これは、多くの論客は「日本が遅れてる」「皆が愚民だから」と言う、自虐的な文脈で語られますが、私はそうは思わなくて、「歴史的経緯から考えて仕方ないが、しかし、なるべく急いで克服しないと、国全体が滅ぶし諸外国に乗っ取られてしまいかねないだろう」と思う訳です。

例えば、特に若い人の自民党=今の政権与党や安倍内閣=今の内閣に対する支持率が高かったり、投票先として与党が多いというのが、今年の半ばに話題になりましたが、その最大の理由として「与党支持でないと/与党に投票しないとバカにされるから」と言うのがあったのに、注目したいと思います。これは、日本における個人が、個人として尊重されず、誰が決めたのかも非常にあやふやだし経緯もわからない「空気」の虜にされてるという事を示す、一つの好例だと思うのです。

私が、子供の親の立場であるのも含めて考えるに、これは、学校教育の時代錯誤さによるところが一番大きくて、後は、大人の社会がそういう形で最適化されてることとその事に危機感を持ってない人が非常に多いことがその次の原因なのではないかと思うのです。

学校教育では、組体操や班活動に代表されるように、「何らかの集団に帰属すること」「その集団に迷惑をかけないこと」「迷惑をかけた人間は懲罰的に排除されても仕方ないこと」、更には、「決まってる決まりはどんなに不条理でも守らないといけない」と言うことを繰り返し、身体に叩き込まれる訳です。これの弊害が、今になって猛烈に社会全体に吹き出してるのではないかと私は思うのです。要は、個人とは集団に隷属するものであり、ごくごく一部の選ばれた「エリート」のみが、個人として主体性を発揮し物事を決める権利を得られるのであり、その他の人々は決められたことを考えずに実行し・廻りに迷惑かけないようにひっそりと忍従せよ。と言うのが、今の学校教育と、その先にある社会全体の風潮になってると思うのです。

集団主義を克服せよ

最近、「陰キャ」と言う言葉が流行り始めてますが、これだって、学校社会なり狭いコミュニティの中で「好ましい」とされる人物像のみが社会的に恩恵を受け・そこに入れない人やそのように頑張ってもなれない人達を排除するという風潮を象徴してるし、それが、「自民党に投票しないとバカにされる」と言う、ものすごいおかしな話に繋がってきているのです。

そのような、「廻りからバカにされない」「廻りに迷惑をかけない」ということの中には、個人の尊厳はないんですよね。尊厳を発揮できず尊重もされない社会で育てられた末に、いざ就職しても個人の尊厳を徹底的に蔑ろにする環境が大半の人には待ってるわけですから、そりゃ、民主主義に必要な素養自体が日本にいる人達には備わってない。言い方を変えれば、学校教育によって、そのような素養が意図的に、奪い尽くされて社会に送り込まれてる。

ここを、既に社会に送り出された人たちも、今学校教育の猛威に晒されてる人達も、きちんと克服し、拒否していかないといけないと思うのです。そういう、自立した個人がいないで空気に振り回されて、損は専ら自分たちだけで引き受け、一部の「エリート」の養分として吸い尽くされる事を乗り越えていかない限り、日本社会は、立ち直ることがないだろうと思うのです。エリートが、善に固まって与えるのみであるならまだしも、エリートは、人々を自分の倫理観で縛り付け・富も何もかも自分たちのみで独占していく。そこを変えていくのは、多くの人々がきちんと議論をして物事を自分たちで決めていくと言う、その行為と結果によってしか出来ないのですが、しかし、そこに至るには、今の社会の有り様や自分の身の回りの状況に対して、きちんと疑問を持って駄目なところは駄目だと考えていくしかない。これは、非常に辛い作業だと思いますが、それが出来なければ、多くの人が、死ぬでしょうね。

さて、どうしたものでしょうか。