空気のとりこ

さて、年の瀬も年の瀬になりました。
最近読売新聞が調べた世論調査では、安倍内閣の支持率が、とうとう63%となったそうです。このことに対して、特に左側の人達はどう理解していいものか困惑してるのを隠さない感じがあるのですが、簡単な話で、世間の空気というものに対して、今の時代は人々が過剰に配慮する・空気としてはこうだろうから、そこから外れないようにしようと必死になっている風潮が強くて、その中で、安倍内閣はろくなことはしてないんだけど、代わりになる人達もいないし、空気が「内閣支持」を望んでるから、支持をしておこう。と言う程度の話なのではないかと思うのです。
このことは、構図としては単純なんだけど、このまま行ってしまっては、世の中が破壊されていくのを止められもしないという、非常に深刻な問題になってきてる訳ですよ。

「空気が言う」から、政権を支持する。

なぜ、「代わりがいないから安倍内閣支持」と言う空気ができてるかを、少し考えてみます。
マスコミの大半は、安倍内閣の政策を批判しないか、多少は批判しても根本的な部分は報道しない。世間一般に生きて暮らしてる人たちに対して大きな負担や不都合を強いるような政策や法律が無理やり通されても、その中身を真面目に深く報じることもなければ、与党がいい加減な答弁やえげつないヤジばかりをし続けて、非常に短い時間で審議を打ち切ったり形だけ整えた上で、中身に対する審議や修正はアリバイ程度に抑えて、数の力で採決を押し切ってることはほとんど報じないし、野党側が抗議を示すのにプラカードを出してるのはなぜかという話はせずに、半ばけなすようにその映像だけを報じてる傾向がものすごく強い。
一方、外交では大失敗と言うか余りに滑りすぎてたり自国の思い込みやエゴばかりゴリ押ししようとするので、諸外国から呆れられてる領域にすらなってるのですが、そのこともほとんど報じない。例えば、12月にあったロシアのプーチン大統領との会談で、功を焦ってか北方四島での共同開発事業はロシアの法律のみの支配下に置かれる・要は、事実上北方四島の領有権主張を放棄する。と言う重大な失敗を、安倍総理プーチンとの二人だけでの会談でしてしまってるのですが、そういう話は全く報じられないで、私達は海外メディアからそうだと言う話を知る状況な訳です。

もう少し書いておくと、2012年に安倍政権に再びなって以降の、生活保護や福祉を受けてる人達への、ネット言論を含めたバッシングや事実のねじ曲げに対しては、批判のまな板に載せられた人達や支援してる人達から「そんなにお金を貰うことはありえない」などの批判が出てはいるのですが、マスコミがそれを取り上げて検証することもない訳です。マスコミの能力から考えて、多少調べれば自分たちの報道の内容が事実に反することがわかりそうなものですが。そのような、事実を政権の政策に沿う形にねじ曲げた上で、政策を実行させて、わたしたちのくらしが苦しくなったことは、実はものすごくたくさんあるのですが、しかし、マスコミはほとんど全てと言っていいくらい、そのことは無視し続けてる。

要は、日本のマスコミの報道を見てる限りに於いては、「安倍内閣に失策なし」「野党はあまりに滑稽な道化だ」と言う、変に事実と反する情報しか目に入らなくなってしまってる訳です。

食事やお金を出す政権は、マスコミがほめる

安倍総理や閣僚は、非常に頻繁に、マスコミ各社の要人や政治部記者との「会食」を行ってきています。この「会食」は、基本的に安倍総理側が食事代を持つものでして、そのことから、今の政権はマスコミを買収してるという批判の声が少なからずある訳ですが、あまり大きくはなってない。表には出てないでしょうが、「お車代」名目での多額のお金が、毎回要人たちには渡されてるでしょう。この費用は、基本的には官房機密費が使われてるとも言われています。
民主党政権下でも総理大臣などとマスコミ要人や政治部記者の会食はありましたが、頻度が小さかったのと、費用はワリカンでした。それ故に、マスコミの要人や政治部の記者からは「ドケチ」と嫌われていたようです。民主党側がケチだったのではなく、「マスコミと一定の距離を置いて、批判をきちんとしてもらう」という、善意から敢えて行われてきたことで、実は、欧米諸国の政権とマスコミの関係としては、法律として規定されてすらいる重要な内容でもあるのですが。

この状況というのは、民主党に一旦政権が移るずっと前から布石としてはあった訳です。小沢一郎が実際には違法行為がされてなかったにも拘らず、違法行為をたくさんした・真っ黒だとマスコミが報じた陸山会事件。この時に、あることないこと検察(東京地検特捜部)がデマを含めた情報をマスコミに流して小沢一郎民主党政権の内閣に入れさせなかったわけですが、この時マスコミで色々と言って回っていた要人たちはみんな、昔の総理・金丸信が作ったとも言われる、政治記者を集めた勉強会の出身者であるという話が取りざたされてました(詳しくは調べてみて下さい)。
そして、そのことは抜きにしても、2001年から2005年の小泉政権では、「小泉劇場」がマスコミで持て囃され、その中では今でも私達の生活や人生を苦しめ続けているような法律や政策が、たくさん通されていた訳ですが、しかし、その中では、このような法律や政策を通しては将来に問題が出る。と言う真っ当な批判や、政権自体や政権の周辺にまつわる犯罪行為を指摘する人達が、おもしろおかしく批判され、それでもくじけない人たちに至っては、冤罪で逮捕されたり極めておかしな形での「自殺」をするまでに至ってる訳です。(りそな銀行の国有化問題や、プチエンジェル事件で調べてみて下さい)

節度をわきまえる政権は、徹底的に批判される

一方、民主党政権では、細かい所まで批判が行き届いていました。政権内部での大臣や政治家同士がお互いの政策や方針を批判したり議論することも、あけっぴろげに報道されてきました。これが、「民主党情けない」と言う「空気」の根底にあることは、確実だと私は思うのです。

要は、最低でも小泉政権以降の自民党政権では、政権の本質的な批判というものは、徹底的にけなされたりバカにされたりしてきていて、批判自体の中身というものが問われることが非常に少なくなった訳です。
それが巡り巡って、時の政権の批判が全くされてないに等しくなってるという、今の状況になってると言えるでしょう。

このことからわかるのは、

・時の政権を円滑に進めるには、マスコミ等に批判をさせないようにしないといけない。
・マスコミに批判をさせずに、野党の印象をわるくするためには、積極的にマスコミを買収しないといけない。

という、非常に身も蓋もなく情けない現状なんですよね。
しかし、それが本当に社会の維持のためにいいか?と言えば、却って社会を壊してる訳ですよね。私達の生活は苦しくなる一方だし、街を歩いたり近所付き合いをしても息苦しさが増す一方だし、ネットでは多少のイデオロギーや感性の違いで他人を罰しようという人達が余りに多くのさばるようになっていて、ネットですら真面目な議論もやりにくく、キツくなってる。
でも、そのことは、事件にでもならない限り報道されないし、事件になったとしても、なんで事件が起きたのか。と言う事がきちんと報じられることも少なくなってる。
しかも、そういう状態で、上の方では道徳とか自分たちの「正しさ」だけで法律や政策を決められて、反対したり修正を求めたりする人達が無視されている状態が、年々ひどくなってる訳ですから、悪い方向にしか世の中が進んでない訳です。

日本は、なぜアメリカと戦争したか。マスコミの責任は何か。

こういう状況は、2000年代になってからだけではないです。実は、1920年代から1945年の敗戦までの、日本もそうでした。詳しく知りたい方はこの時代の新聞とか雑誌の写しを図書館などで見てほしいのですが、当時の日本軍の軍部は、積極的にマスコミ関係者を宴会などに誘い、豪華な食事と酒と芸者でもてなしました。結果、当時のマスコミは、総理大臣は弱腰だ、中国大陸にどんどん侵攻しろ、軍は頑張れ。と戦争を煽り続けてた訳です。そして、軍の青年将校によるテロ事件が繰り返されたこともあり、戦争を拡大する事を批判してはいけない。と言う空気が、世間を覆い尽くしました。
この事があって、第二次世界大戦でのアメリカに対する開戦についても、軍の委託を受けた研究者たちは国力から見ても無理だ。絶対に負ける。と言う研究結果を出したにも拘らず、軍部はそれを握りつぶし・マスコミを通じて早期講和で勝利できるという報道を繰り返し、対米開戦を望む世論を作り、多少の愚痴すらも警察や憲兵に取り締まらせ・そもそも住民の間で自発的に密告し合う状態を作っていった訳です。

結果、戦争には大敗し、1945年8月に核爆弾を落とされ・ソ連の参戦もあり、最近の研究では9月まで戦争を続けたら日本で社会主義革命が起こるという分析を国がするに至って、やっと敗戦を受け入れるという、社会をとことん破滅させる所までずるずる戦争を続ける羽目になった訳です。

わかりやすさに騙されないために自分の手と足と眼で調べるしかない

では、どうすれば、社会を破滅から救えるか・または、社会が破滅した後に速やかに立てなおせるか。
結局は、マスコミが色々おもしろおかしく時の政権を持ち上げたり・批判したり、野党を持ち上げたり批判したりしたとしても、自分の眼で見直していく必要があると思うのです。「心地のいい嘘」「アヘンのような甘い言葉」「おもしろおかしく比較的立場の弱い人・立場の強くない人をけなす報道」。そういう物を、どうにかはねのける必要もあるでしょう(これについては、あとで書きます)。
一見、わかりやすくまとめられてる話やわかりやすく報道されてる話を、そのまま受け入れるのではなく、わかりやすさ自体に秘められてる胡散臭さを嗅ぎ取り、自分の手を使っていろいろ調べ、確かめていく癖をつける必要もあるでしょう。場合によっては、英語の報道を積極的に見ていく必要も出てきます。今は機械翻訳が使い物になる段階に来てるので、自動翻訳でなんとか出来る部分も大きいと思います。

その上で、「言ってはいけない空気」「嘘を付いてでも言わないといけない空気」を、まずは個人と個人の付き合いの中での話や言葉から、きちんと打ち破るように努力を始めないといけないと思うんです。空気に支配されていては、自分にうそをつくし、世の中が壊されていくのに対して眼をふさいでしまう事に、ストレートに繋がってしまいますからね。

千里の道も一歩からということで。

今年、このブログを始めることに、半ば成り行きでなってしまった訳でして、その上で、わかりやすい言葉といいつつ難しい言葉も結構使ってしまってるし、何より暑苦しくて、しかも読む人たちに辛いことを突きつけたり働きかけたりする中身が続いていますが、来年も、どうかよろしくお願いします。

皆様、どうか、よいお年を。

「ホンネの議論」と言いつつ、ホンネが語られない社会。

少し、間が空いてしまいました。

今日(12/25)、朝日新聞のWEBサイトにこういう記事がありました。

http://www.asahi.com/articles/ASJDS6WFQJDJUCLV02G.html?ref=nmail

SMAP、寂しい幕引き 解散理由語られないまま

 年内いっぱいで解散するアイドルグループ「SMAP」。大みそかのNHK紅白歌合戦への出演も見送られ、8月の発表以来、メンバーの口から解散の理由が語られないままの幕引きとなりそうだ。一方で、従来のアイドル像を変える彼らの楽曲や活動に、心励まされてきた人々がいる。
(以下、リンク先の記事で)

 

この記事では、SMAPの解散の理由というものについて「本人の口から語られない」として深く言及することを避け、SMAPの芸能活動に勇気づけられた人達のエピソードを紹介して「プチ美談」を記事にまとめている訳ですが、実際の解散の真相なんてのは、既に一部メディアが報じてる顛末と、テレビを通じて出されてきた事態を見れば、明白な訳ですよね。
まず、SMAPを育て支えてきた飯島マネージャが、ジャニーズ事務所の実際のボスであるメリー喜多川の娘を出世させるのに邪魔になったから首を切られそうになり、飯島氏が独立を模索するのにSMAPの内の、木村拓哉以外の四名がついていこうとしたものだから、メリー喜多川が飯島氏を解雇し、芸能マスコミを通じて、あることないこと飯島氏を批判する記事を搔かせたり、テレビの情報番組で批判的な論調を流させた上で、独立を支援しようとした動きを潰し、テレビの生番組にSMAPのメンバーをさらし首のように出して「私達が間違ってました」と言わんばかりの「釈明」をさせるという「公開処刑」があり、そのことにマスコミの大半が批判をできずにいる間に、ジャニーズ事務所側が手を変え品を変え四名の慰留を試みたけれども、結局、「公開処刑」までしてしまったことで却って「処刑」された側のハラが固まったのか、契約切れまでは事務所に残留するが、SMAPの活動自体はやらない。と言う形に至ってる訳ですよ。
芸能マスコミの多くが既に、木村拓哉とそれ以外の四名との間に長年あった軋轢と、この間の状況で出来た溝が埋まらないどころかどんどんひどくなってるという話を報じてるわけで、そこをきちんと触れて、ジャニーズ事務所と言うよりメリー喜多川がやったことが、明白なパワーハラスメントであるという論調を取ることすら出来ないマスコミというのには、社会的な使命感がないのだろうかとすら思うわけです。

みんな、奥歯に物を挟んでるのに、決まりごとは歪んだ守り方をしてる


もう少し話を拡張していくと、最近年末の風物詩になりつつある「ブラック企業大賞」、今年のノミネートには、ジャニーズ事務所も入ってなければ、11月に給与明細が暴露され、偽装請負と超低賃金による搾取構造が改めて社会的な問題になったアニメ企業(暴露されたのはP.A.ワークス)についても何らノミネートがされなかった訳です。
これも、朝日新聞ジャニーズ事務所パワーハラスメントを言及できなかったのと似た状況ではないかと危惧するのです。

この国では、「コンプライアンス遵守」「法令遵守」と言う掛け声が盛んにあり、ちょっとした逸脱行為を個人が行なうと、ネットの多くの人達が袋叩きにして、個人が謝罪するだけではなく退職に追い込まれてしまうような事が頻繁にある一方、企業が労基法を守らなかったり露骨なパワハラをしても、それを批判したり炎上させる人はたしかに少なからずいるんだけど、それが「罰」として機能することは非常に少ないし、労働者や当事者が精神を病んで自殺でもして、遺族が記者会見をして会社を非難するような「おおごと」にでもならない限り、企業が態度を改めることも、社会的風潮に歯止めがかけられようとすることも、最低でも可視化されることが殆ど無いわけです。

そういう不公正さやそこになかなか切り込んだ話を、この社会の主流の人達が手控えすぎていると言うことが一つあって、その上で更に考えないといけないのは、そういう状況に対する人々の不満というのは確かにたくさんあるのだけど、それをマスコミやネット言論が汲み上げようとする場合に、非常におかしな方向に向けられてしまうことが非常に多いことも、もう一つ大きな問題として考えないといけないのではないかと思うのです。

「ホンネ」といいつつ、「敵」への憎悪を煽って利益を得ようとする人たち


首都圏以外で長年放送されてきた番組として、「たかじんのそこまで言って委員会」と言うのがあります。今はやしきたかじんが死んだので(敬称したくない)、番組の名前が変わっていますが。そして、最近では東京圏での似た論調の番組として「ニュース女子」と言う番組が、東京MXで放送されてるようです。
これらの番組の特徴というのは、「ホンネの番組」を目指すと謳った上で、今主流の政治体制と言うか、宗教がかった極右路線や新自由主義路線を賞賛しつつ、その部分に異を唱える人や実害を被って嘆いてる人たちに対して、悪いレッテルを一方的に貼ったり、本当かどうか怪しかったり嘘だと証明されてる話を繰り返し持ち出した上で、そういう人たちのことを悪いイメージを伴う言葉で馬鹿にしたりするところなんですよね。

要は、前に書いた「水戸黄門願望」に乗っかる形で、人々の不満に対する「わかりやすい」解答を示すふりをして、自分たちの一方的な話を人々に吹き込んだり、自分たちやスポンサーに都合の悪い動きを社会的に見て孤立に追い込んできたわけです。こういう「積み重ね」の延長に、今の政権の傍若無人さであったり、社会の崩壊があると、私は思うのですが。

「右ばっかし批判してたらいけないだろう」と言うツッコミがあるだろうからもう少し書いておくと、そういう悪意的な歪め方を使って、自分たちに都合の悪い人たちを攻撃したり、社会的に孤立に追い込んで行くというやり方自体は、左翼を自称する人達の中でも結構あって、最近の状況であれば、例えば「レイシストしばき隊」や「反差別男組」の系列の人達が、自分たちのやってることに対する批判を行なう人達を、右だろうが左だろうが関係なしに「差別者」「レイシスト」と罵倒したり、いろいろな所と連携して社会的排除を狙おうとしたり、フェミニズム運動を自称する人達が、自分たちがやってることが純潔教育と何ら変わりない部分が相当あって、その事で基本的人権を奪われそうになってる人達が、抵抗の意思を示し始めたら、「レイプ魔」「セクシスト」などの的はずれな罵倒を行ったり、その人達の切実な声を取り入れたりして、道徳観を強制する法律や条例に対して待ったをかけようとした議員たちに対して「エロ議員に投票するな」と根回しして廻り、心を折ろうとしたことがある訳ですね。

憎悪を煽ることで利益を得た上で、社会が破滅していく。


そういう流れで、相手に対してレッテルを貼り付けて、事実と関係なしに言いたい放題言ったりして人々からの憎悪を向けていこうということ自体は、自分たちが主導権を握ろう・難しい言葉を使えばヘゲモニーを掌握しようと言う時には、歴史的によく使われてきたことですが、その事が、実は独裁的な政治であったり、政治や社会運営を自分たちだけでやりたいような人達ばかりが賞賛されたり勝ち誇ったりするような不公正な社会のありようというものを形作ってきたんですよね。

その結果として、アメリカの場合には、社会が戦争依存症から抜けられないままに、多国籍資本がのさばって生きるか死ぬかのラインに一億人前後の人達が追いやられていますし、日本の場合には、そのことによって利益を受けるような企業や資産家だけが大儲けして、そのお膳立てをするような政治家だけが増えてしまい、社会では多くの人を不幸にするだけの道徳や倫理観だけが法律や空気で強制される一方、喰うに困ったり文化的に生きる権利やその他の多くの基本的人権を奪われたりして困ってる人たちに対しては、声を上げることすら暴力的な攻撃に晒されてままならずに、自分一人が我慢して朽ち果てることを迫られ・それらは個人間の相互不信や異性間の相互不信を前提とした社会づくりへとつながり、殆どの人が生きづらくも自分と同じか下の立場の他人を叩いて溜飲を下げるだけの社会になって行った訳ですね。

私達が決別しないといけないこと


だからこそ、今回挙げた2つの「態度」問題…波風立てないために本質に切り込まない事を美徳とする態度と、「敵」に対しては幾らでも罵詈雑言や嘘を並べ・悪魔的な振る舞いすらして叱るべきとする態度…を、私達は意識的に克服していかないといけないと思うのです。さもなくば、誰がトップになったところで、社会の破綻は深まり解決から遠のく一方、人々の生きづらさや苦しみというものは雪だるまのように増えていくでしょう。
人間は聖者ではないので、時折そういう方向に向かうこともあるし、それが悪いこととは限らないと考えているのですが、しかし、それが主流であったり、唯一正しいやり方や精神性・風土となっては、より拙い訳で。

結局、単一の文化性が正しいとか単一のイデオロギーや道徳に立って世の中がまとまって動くのが正しい、あるべき姿なんだ。と言う部分を、きちんと捨て去っていく必要があるんですよね。その部分の姿勢、物事に対する立ち位置というもののとり方がきちんと出来てる人たちであるならば、複数ある動き・流れであっても、それが時折対立することがあったとしても、大きな方向性や個別の物事への具体的な対処のありようとしては、概ね「よい」方向に向くのではないかと私は思うのです。
要は、違いを認め、言うことは言うし間違ってるとか辛いとか困るとか言うこともためらわず・情けもなく言うことこそが今の世の中を破綻から救うかもしくは破滅の後に立てなおしていくためには必要とされる態度で、そういう「流れ」が複数あるならば、それぞれ細かい方向性は違っても、ある種のイデオロギーに支配されるとかイデオロギーに序列がつくとかそういう社会ではないのかもしれないけど、今の状況よりは数段マシな社会や人と人の関係の有り様になるのではないかと、私は思うんですよね。

素晴らしき、ダブルスピーチ。

12月13日の夜、沖縄は名護市の沖合で、夜間の空中給油訓練をしていた米海兵隊オスプレイが、給油中の事故で飛行ができなくなり、名護市の浜辺近くに「不時着」し、機体がまっぷたつに折れるような「大破」をしました。どう見ても「墜落」にほかならない状況だし、実際海外マスコミや米軍の準機関紙「星条旗」も「墜落」と表現してるのですが、日本のマスコミ各社は米海兵隊の発表や防衛省の発表する「不時着」を頑なに使うし、「軍事の専門家」を自称する人々やそれに追随する人々は、しゃかりきにすら見えるような勢いで、「不時着」と言う表現の「正しさ」を理屈をこねにこねていい続けてます。

昨日(12月15日)夜から本日にかけて行われてる、日本とロシアの首脳会談でも、安倍総理プーチン大統領の会談で、北方領土の共同開発はロシアの法律のみの管理下で行なう(要は、今まで領土問題だから日本も北方四島に対して日本の法律の支配が及ぶと主張してきていたのを放棄する)などの、領有権を主張してきたところに対して事実上領有権を放棄すると総理大臣の職権で言ってしまったと言う状況が、ロシア政府側から談話の形で出されて報道され、日本政府側はそれに対してきちんとした形での抗弁がない。と言う、要は言い訳はしてるけどロシア側の話が間違ってるとも言わない。と言う状況なのに、日本のマスコミが「領土問題の話はしてない」などと繰り返し、「成果があった」「長い時間会談できたのも成果だ」などのごまかしとも言える話を今日の朝から繰り返してる訳です。

言葉は言い換えられ、事実はごまかされてしまってる、いま。

このような、「言葉の言い換え」「ごまかし」は、この五六年ものすごく多くなっていて、例えば東日本大震災の影響で福島第一原発が爆発して、テレビが生中継することになった時に、「爆発弁だ」と言う「専門家」の言葉を根拠に「水素爆発や臨界爆発ではない。原子炉は大丈夫だ」と言う人が後を絶たなかったり、安倍内閣の経済政策が、現実問題として「失敗」したのに対して「道半ば」などと言って、頑なに失敗を認めず同じことを繰り返すことに対して、マスコミや多くの人達が唯々諾々とそれを拡散し続けたりなど、本当に、書ききれないほど沢山の「言葉の言い換え」が、この国では日常的に行われてる訳です。

そして、原発事故に関してもう少し書いておくと、実際に原発や燃料プールで、一号機から四号機までが臨界暴走状態にあったことが、当時東京電力が公表していた「暫定値」からも明らかでしたし、2016年の春になって東京電力自体が「実は臨界暴走だったと当時に分かっていたが公表しなかった」と認める事態になってしまってる訳ですが、事故当時、あろうことか、原子物理学の専門家達や科学ジャーナリストが先頭に立って「臨界はありえない」「原子炉は健全だ」「臨界暴走や破局事故を言ってるのは、デマ野郎だ」と声高に言い、ネットで「やはり破局事故ではないか・臨界暴走ではないか」「放射能汚染や健康被害からどう逃げようか」などと書いたり不安を述べてる人達を、「デマを言うな」とどやしつけまくり、そこには多くの人達が追随して同じようにどやしつける。と言う、非常に恐ろしい状況が、この五年間ずっと続いてきてて、その結果として、福島県や国が、事故直後に急いで「自主避難」した人々に対して「住宅支援を打ち切る」などの嫌がらせを一気に行ったり、「福島県に戻れ」と戸別訪問して脅しめいたことを言ったり、避難した人達の子供が学校で「いじめ」というよりも「恐喝」といったほうが的確な行為を学校で同級生などからやられてるにも拘らず、学校側が「問題がないと考えた」と放置したり隠そうとしたりしてるのが立て続けにバレるという事態に繋がってしまってる訳です。

ある種の人たちに都合が悪いから、言い換えられる「言葉」と、捻じ曲げられる「事実」。

これらの「言葉の言い換え」に共通してるのは、その時の政権や権力・権威が都合が悪いと思う・人々に都合の悪さが見透かされるような「言葉」や「物事」が、別の言葉や物事で言い換えられ、多くのことがなかったことだという風に、その物事をあまり見てない人達が思い込まされたり、事実を事実として受け止めようとする人達やそこから振る舞いを考える人達が、あたかも「妄想狂」「反社会的存在」であるかのように周囲に印象づけ・孤立させていくような結果に追い込まれていくということなんですよね。

こういう事は、既に1950年代にイギリスの作家・ジョージ・オーウェルが小説「1984年」の中で、「二重思考・ダブルシンク」「ニュースピーク」と言う言葉を作って、鋭く批判・風刺していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%80%9D%E8%80%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AF

曰く、

戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり

 

この作品の背景には、当時最大の勢力を誇っていた超大国・ソヴィエトの政治体制下での思想統制言論統制の過酷さがあって、没後50年ほど経って開示された情報によると、オーウェルはイギリスの諜報機関・MI5に協力して、反共産主義のプロパガンダとして小説を執筆していたとも言われています。
そして、このソヴィエトのスターリン時代の「社会主義」「共産主義」の亡霊としての、「ダブルスピーチ」とも言えるような言論の捻じ曲げや情報の捻じ曲げをする人々が、今の日本で暴れ続けている訳です。

私達の多くは、自己主張を悪いこととし、その場の空気や何やを読み・声の大きい人が言うことはどんなにでたらめでも笑顔で受け入れ・従うことが美徳だと育てられてきましたし、政治というものと自分の暮らしや人生などを結びつけてはならないという変な自己規制を持ち続けてる。と言う事を、これまで書いてきましたが、その事と、こういう現象は密接に繋がってると私は思うのです。
声が大きな人、乱暴な理屈を重ね・言葉をごまかしたり事実を捻じ曲げて、全く反対の意味合いすら簡単に持たせて恥じない人達が、余りにのさばりすぎていて、最近になって、幾らかの界隈ではそれに対しての怒りの表明や批判を隠さない人達が出てきてはいますが、大抵の話に対しては、多くの人が声の大きな側の話を唯々諾々と受け入れ・そこに正しさを感じ取り、幾らかの人に至っては、それのみが正義だと信じ込んで、そこに疑問を挟んだりする人や、辛い目に合わされたと訴える人達を、蔑み、公然と貶し、袋叩きにすらする事が後を絶たない。

ダブルシンク・ダブルスピーチを乗り越えていくより、生き残る途はない。

ここをも、私達はどうにかして乗り越えていかないといけないのです。

声の大きな人達だけが、自分の考えや意見をゴリ押しするだけではなく、事実をごまかすために暴力的な言論や行動を恥じないという状況に対して対抗できるのは、それ以外の人達が諌め・批判すると同時に、いろいろな視点・いろいろな価値観・いろいろな利害を隠さず表明することで巻き起こる議論や、そこから半ば自然発生する諸々行動、その場その場かぎりのつながりかもしれないけど、それを多く重ねてくることで、必然的に出てくるであろう、何本かの大きな流れによって、そのような邪悪な人達をきちんとあるべき立ち位置に追い込んで行くこと。それこそが、今まで私達が、上から取り上げられてきた人生や民主主義の根本的なありようをとりもどすことであり、社会が壊れてしまっている現状を、建て直す・修復していく上で、最も重要な事になると、私は思うのです。

水戸黄門を期待してばかりでは、駄目になるだけだ。

お知らせ/2018-10-30: noteで「投げ銭販売」はじめました。150円ですのでよろしくお願いします

 

一昨日(12月13日)、オスプレイが墜落しましたが、「不時着」と言う、事故の深刻さを和らげるかのような言葉を、マスコミが「自主規制」で使い続けています。又、もうすぐ閉会になる国会では、反対する人が非常に多いTPPとカジノ法案が、殆どマトモな議論もされずに、数の力で無理やり可決・成立させられました。
どちらも、このブログ的には言及すべき話なのですが、まずは後者について書いていきましょう。

強行採決と無視ばかりの、最近の国会。


今回の国会の問題点は、色々と語られてますが、
①反対が根強い法律や条約を
②議論のベースになる資料も不十分な状態で
③非常に短い時間の審議だけで
④与党などが数でむりやり可決した
と言う辺りになるかと思います。

これらは、幾らかの人が言ってますが、議会制民主主義の否定ではあるのですが、そのような「難しい」言葉を使わないで言えば、「議論するより自分のわがままだけで国を左右する」と言う人々が、本格的に自分を隠さなくなったという事だと思います。

テレビでは、大手マスコミのOBの人がしたり顔で「野党は情けない」と言ってますが、しかし、今の議会の構成を考えると、数がない状態なのだから、動くにしても限界があるし、そもそも野党側には与党に考えが近い人も少なくないのだから、仕方ない(この理由はもう少し細かくあとで書きます)。と言う事が言えると思うんですよね。

「議論の拒絶」と言う問題について考えていくと、それは、日本の大半のひとが望んでいるのではないか。と言う問題がやはりあると思うのです。日本人は、「水戸黄門」を好んできました。好き勝手放題やってる悪代官や小役人を、お忍びで旅をしている、幕府の副将軍である水戸光圀が暴いてお裁きをし、最後に悪代官や小役人が平伏して咎を受け入れる。と言う話を繰り返す、何年か前まで長きに渡って放送されてきた時代劇シリーズが「水戸黄門」ですが、ここから言えるのは、「苦難を強いられてもひたすら平民は我慢し、突然現れた名君がそれを裁いて平民を救う」と言う物語に、最近までの人々が望ましいと思う社会や政治のありようが凝縮されてきていたのではないかと思うのです。

で、「水戸黄門」が本当に名君であるならば、それはそれで悪くはないのですが、今の「君主」は、自分たちがやってることは悪代官であるのに、マスコミやネットの言論工作を通じて、「名君が出ないから暴君でも仕方ない」と言う空気・同調圧力を非常に強く作り、そのことによって野党の数を増やさないように腐心してるように見えますし、それと同時に、「議論を許さない」と言う姿勢は、実は、言論工作によって反対する人達を「悪代官」「小役人」と見せてしまうこととセットになってて、「情けない・暴君で小役人の民進党」を、「水戸黄門である自民党」が「成敗する」と言う構図を、これは、事実とは全く違うのですが、演出することに成功してる部分も大きいと見えます。

そこで、「野党が情けない」と言うマスコミOBたちの発言やそれに基づくニュースの編集や新聞等の見出しが効いてくる訳です。ここで、「与党は数の力で反対意見を無視して無理やり決めた」とは、彼らは絶対に言わない。これを言ってしまうと、本当の悪代官が誰であるか、感づく人が多くなるからです。「野党は情けない」と言う言葉には、「単純明快にスピード感を持って決められる与党は(決める中身のことは棚上げして)素晴らしい」と言う言葉が暗黙の内にセットにされてる訳ですから。

「悪代官」がいつの間にか「水戸黄門」にされてしまう、マスコミの不思議な力



しかも、今の与党や与党の中の人達は悪代官と言うのでは余りに甘いような悪事を色々働いてるわけですが(後日書いていくことになるでしょう)、しかし、そのことは殆どマスコミが触れないか、触れたにしてもその場だけ「中立的に」報じるだけで、何が問題で誰が損害を被ってるかという分析も殆どなければ、そのような検証作業も、新聞は未だやってるにせよテレビは全くと言っていいほど、やって来てない訳です。つまりは、与党は何を失敗しても・何を悪い事しても、よほど世の中に目を凝らしてる人でない限り、気が付かないような構図が、強固な形で出来上がってる。

そのような事の積み重ねで、この国では今の与党や内閣が、圧倒的な支持を続けてる訳です。

そして、与党や内閣の決めたことを正していく役割を持ってるはずの裁判所も、自分たちの保身や出世を大事にしてるのか、一度決まったことが憲法に反していたり大きな損害を世間に背負わせるような結果になっていたとしても、それが間違いだと言わずに、正しいと厚塗りし続けてるわけです。裁判所がこうなのは、今の政権になってからと言うより、戦後ずっと変わってないことで、明らかに基本的人権を損なってる話でも、それで人が死んだり死ぬような苦痛を背負わされてるのが誰の眼にも明らかな話でも、なかなか「違法」「違憲」とは言わない風土が、冷戦初期から長く続いてきてて、今の政権になって、なおさらその傾向が極端に傾いているに過ぎない訳です。

しかし、そうであるからこそ、世の中と言うか日本社会はどんどん疲弊して、悪い方向に加速してることに皆が気づいていてもなかなか修正されない訳ですね。
本当に「下々の民」の事を考えて、「水戸黄門」になろうとした総理大臣は、今までに何人かいたことはいました。例えば、鳩山由紀夫政権や、東日本大震災以降の菅直人政権は、その象徴的なものだったと思います。しかし、(これも、後日細かく書いていきますが、)官僚組織や財界の激しい抵抗と、その事を面白おかしく報じていたマスコミに便乗して、政権与党内でのし上がろうとするような人達に足元を崩され・特に一部の官僚が事実にない情報を出し続けて大臣たちの心をへし折り、倒されて言った訳です。

このことから、私達は教訓を導き出す必要があって、それは、
・「水戸黄門」が来るのを呆けて期待してちゃいけない。
・「悪代官」ほど、自分が「水戸黄門」だと見せようとするし、マスコミもそれを激しく助ける。
・本当に自分たちのためのことをしようとする「水戸黄門」が出てきたのなら、私達一人一人が積極的に助けたり、議論などを通じて相互に情報交換や意見具申、もしくは向こうに届くような意思表示を出来る関係を結べるように努力していくしかない。
・「水戸黄門」は、自分たちで作って送り込んでくくらいの覚悟を持ってどうするか行動を決め続けないといけない。
と言うことになると思うんですよね。

水戸黄門」は、いつも心をへし折られるのだから、一人一人が「水戸黄門」になろう。



つまりは、本当に「水戸黄門」になろうとする政治家というのは、大抵が内側での議論を推奨し・マスコミ等からの批判を却って歓迎するものですが、それと同時に、足を引っ張ろうとする人達や心をへし折ろうとする人達に取り囲まれているものでもあるのですから、自分の(自分たちのではなく)不利益を要求するのでもない限りに置いて、私達一人一人が支えて、「貴方方のやってることを支持します」と目に見える形で見せつけていき続ける必要がある。ということなんですよね。
そして、そのような人達は、あとで書こうと思ってますが選挙システムの根本的な問題によって年々政治の場に出てくるのが少なくなってもいますから、私達で動ける人がもっと出てくると同時に、この国の選挙システムを変えるために強く意思表示しつつ、一人一人が議論したり、自分の出来る範囲での行動を、人々の間で重ね合わせることで、自分(たち)の側から、複数の「水戸黄門」が絶えず出てくるようにしないと駄目だということなんですよ。

旧いテレビで出てきたような、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は、自然には出てこないんだ。という、諦めにも似た覚悟と、それでも自分や自分たちは生きていかないといけないんだから、政治や行政や社会や、この社会の空気自体を自分たちの力で少しづつでも変えていかないといけない。という覚悟をも持っていかないと、この国は壊れ続ける一方だし、壊れきって/壊した人達が逃げ出した後に社会を立て直すことも出来ないと、私は思うのですね。

高度経済成長と管理教育が招く、日本社会の破綻。

前の記述でのコメント欄で、具体的にどういうことだろうかと質問があったので、当初の予定を変更して、少し、管理教育について書いていこうと思います。

1970年代。安保闘争ベトナム反戦運動に代表される学生運動の政治的課題が一段落し、その後の方向を模索する中で、内ゲバが起こされました。これは、鈴木邦夫によると、左翼運動や学生運動の中にいる公安警察の協力者が、彼らの意を忖度して組織間の対立を過剰に煽り・自分が協力者だとバレないために過激化させていったとのことですが、このようにして学生運動と大衆が切り離された時期には、上尾暴動に見られるように、労働者も又、労働運動や学生運動と対立していた時代でした。
この70年代の「怒れる若者」の多くは、暴走族などに参加していたと思いますが、それに対する文部省側の「対策」として、70年代末期から90年代前半にかけて、徹底した管理教育が広範囲の学校現場や地域社会に導入されていきました。

最も過激であった愛知の管理教育の実例を記述してるサイトをいくつか紹介しますが、

・とにかく管理 http://toppy.net/nagoyanow/edu2.html

・素晴らしき愛知の管理教育 http://togetter.com/li/175355

これらのサイトにある話は愛知県などの「管理教育先進自治体」に限ったことではなく、私が住んでた神奈川県でも相当部分が行われていました。
明らかに意味のない服装検査や個人の家での私生活にまで踏み込んだ生活統制、丸刈り等での髪型等の画一化や、後はこれらには殆ど出ていませんが、「軍隊式」と呼ばれる旧軍のスパルタ的な軍事教練を真似た体育教育に、教師の暴力への最大級の承認。これとセットにされるように、学校生活の個別の状況下で、班単位での積極的に行われたり体育でもマスゲームや組体操的な物が重視されていたりもしており、これらは「集団に従わない個人」や「自分の能力的に集団に従えない個人」に対して、「(集団に)迷惑をかけるな」と言う「美名」の元で、どんどん攻撃し・最終的には排除していく事を集団全体に奨励するような形になっていっていた事があった訳です。

従って、多くの人が、学校教育で、「その場の空気を掴んだ人や(政治的な)強者にはご無理ごもっともで従うよりない」「暴力を受けても、暴力を受けた自分に原因があったと自分を責めるのが先だ」「集団が失敗した場合、自分が責められないためには集団に最大限従う」と言う、保身術・処世術を身体感覚で叩き込まれていった訳です。

これらは、程度の差はあれ全てセットとして学校現場に持ち込まれていたし、多くの都道府県(東京都はわからないですが)では、これらに、学校がない時の外出制限や学校の承認のない個人的活動の全面禁止などがセットにされ、地域ぐるみで子どもたちを監視する・それも、治安対策として徹底的に個人を弾圧するような形で子どもたちを監視する。と言う構造が、至るところに出来ていった訳です。

90年代なかばに、管理教育を原因とする死亡事故や自殺が立て続けにあったことで、この手の管理教育は表面上は相当緩和されましたが、近年と言うか2000年代に入るか入らないかになっても、石原慎太郎東京都知事になった時に、青少年問題を取り扱うセクションとして「青少年治安対策本部」を立ち上げ・東京や神奈川主導で、青少年健全育成条例(青少年保護育成条例)を、特定の宗教じみた価値観で子どもたちを縛るものへと変質させていった動きが全国的にありましたし、最近問題になった組体操問題のように、未だに集団を重視し「集団に迷惑をかける個人は許さない」と言う風潮が根強くある訳です。(ネットの炎上の半分くらいも、この行動原理に依存するでしょうね)

管理教育と高度経済成長が招いた、エゴイズム。



そういう中では、個人の尊重とか差異を認めるなんてのは「きれいごと」でしかない訳ですよ。もう少し言うと、明文化されてる法律よりも、明文化されてる憲法よりも、校則とか職場の空気とか社会の空気みたいな「その場の(明文化されてない)ローカルルール」の方が、大事になる。法律や憲法も含めた「きれいごと」を認めていたら、その場が廻らないでしょう。と言う事が、そこかしこで頻繁に繰り返されることに対して、それが当たり前のことだという「常識」が、暗黙の内に出来上がってしまってる。

個人の尊厳も差異も、集団がうまく廻ることには全く劣るとなると、その場の集団はそれで見た目はいいのでしょうが、その集団にせよ、もっと大きな単位の集団の中の一要素に過ぎないわけですから、当然、その中の他の「一要素」である集団との衝突は頻繁に起こりますし、それ以上に怖いのは「合成の誤謬」とでもいいますか、「一要素」が他の「一要素」と軋轢なく過ごしたり、もっと上の集団をうまく廻そうと必死になる時に、それが近視眼的であったり短期的なことしか考えてなかったりすると、容易に、集団全体がおかしなことをやってもおかしいとは思わずにそのままおかしなことばかりをがむしゃらにやるようになりがちなんですよね。

ブラック企業が絶えないとか、その中で個人が過労で仕事できなくなっても放置されたり、自殺しても状況が悪くなったりするのは、いい例でしょう。

エゴイズムが招く、合成の誤謬と社会全体の破綻。



これは、国についても言える部分が相当あって、例えば財務省は税金をたくさん取りつつ、支出を削り・高官たちの天下り先を用意してくれる企業や法人に重点的に予算を配分したり重点的に減税したい。と言う行動原理で最低でも冷戦終結後は一貫してて、そのことで、所得再配分がおかしくなってて、その事を他の省庁が改善しようとしてもなかなか予算承認しなかったり、逆に予算を削れと迫ったりするわけです。

お金の流れを決める最上流がそういう状況で、他の省庁も、個別のセクションでは善意があっても、集団で見ると自分の省庁が自由に使える予算(特別会計)を増やしたいとか、自分のセクションと繋がってる人に多く仕事を出したいとか、後は、天下り先を増やしたいとか、そういう事が集団全体では優先されていくんですよね。

で、そのような流れというのは、通常の国であれば、マスコミが一定の疑問を呈すると同時に大衆が声を上げるのを助ける役割を果たすものですが、日本では、記者クラブ制度が強固すぎて、マスコミが省庁に過剰に配慮して、明白な汚職ですら批判を手控えてきた歴史があるわけです。これも、合成の誤謬と言えるでしょう。

そういう、合成の誤謬が社会全体という非常に広い範囲にまで蔓延し、しかも、そこを糾したい人や、不都合をうけて困ってる人が声を上げれば、その他の人達がなんだかんだ言って攻撃したり・攻撃はしなくても蔑んだりするような状態が、長く続いてきてるわけです。要は、ややこしいことは「水戸黄門」に任せておけばいい。不都合を受けてる人達は、どうせ、怠け者や半端者なんだから、自分たちが共感して某かする必要もない。と言う、非常に冷淡な・個人の窮状に対してと言うより社会全体に対して冷淡で、結局は目先と数年程度の短い期間のエゴを満足させるだけの人達が、管理教育に代表される社会教育のありようによって、社会の大半を占めるようになってしまっているから、結局、社会構造の上の方でそれこそ後先考えずにめちゃくちゃやるのを、誰も止められないし方向を変えることもできない状態になってる訳です。

ここを、なんとかしていかないと、日本社会は全面的な崩壊を経ても、更に危ない人々や、外国のエゴを代弁するだけの人々に食い荒らされていき、その内そのような人達の大半は日本から逃げ出すでしょうから、諸外国が事実上統治するよりなくなるのではないかと、私は思うのです。

日本に、民主主義があるのか?

昨日(2016年12月9日)、お隣韓国では大統領が弾劾されて事実上辞任に追い込まれましたが、日本では、TPPが無理やり批准されると同時に関連法律の改正案も一緒に成立しました。これらは、衆参両方とも反対の声が大きいのに、ほとんど修正されずに与党と賛成する政党の数の力で通されました。今回は、この違いについて少し書いてみようと思います。

知らされるか、知らされないか。

日本のテレビや新聞では、連日韓国の事を大きく取り上げていますが、TPPの事は詳細に報じられることもなければ、日本各地で根強い反対があることも、さらりとしか触れられてないです。そして、衆議院で非常に短い時間で数の力で無理やり採決に持ち込んだことに関しても、採決当日は多少は触れましたが、それが今後日本にとってどういう悪影響があるかとか、審議時間が非常に短かったことについては、誰でもわかるような言葉を使わずに逃げるような報道が多かったですし、参議院の審議に至っては、相当強引な進行が行われていたのに、ほとんど報じられなかった。そして、TPPが決まった途端、実はこんなに不利なんですとか生活に影響があるという話が、数日程度続いてフェードアウトしていくのでしょう。
反面韓国のことは、大規模集会が開かれていたという事はしつこいくらいに報道されてましたが、それが、全国規模の大規模なストライキゼネスト)を何度も伴ってきているものだということは、殆ど報じられてない。まるで、ゼネストと大統領の退陣がセットになってる事自体がタブーであるかのように。

こういう、マスコミがありのままを報じず、法律を決める側・時の権力の側には都合の悪い話は報じなかったり、全てが決まって裁判を起こしてもひっくり返すのが絶望的な状況になって初めて、実は国民がコレだけ損をします。と触れだして、それも数日から数週間で忘れ去られる。と言う状況の中に、私達が置かれてることと、韓国ではそういう、日本では触れられてない情報が多く流され・忘れ去られることなく流れ続けてると言う事を、やはり、日本の特殊性として見ておかないといけないのではないかと思う訳です。

知らないこと・知らされないことが徹底してる上に、個人がずたずたに分断されて個人の苦しみや怒りがそこで終わってしまっている日本と、検閲が厳しく知らされないことが多いはずなのに多くの人が知っていて、しかも人々が横のつながりで動いてしまう韓国。この格差が、なんでもかんでも与党のやりたい放題で決まったら強制力を持って、不都合を受ける人達は仕方ないと我慢するよりなくなってる日本と、デモやゼネストで大統領の首を飛ばせる韓国との格差になってると思うのです。

発展すらしてない日本の民主主義

池上彰が、「韓国の民主主義は発展途上」と自分の番組で述べて、ごく一部で問題視されましたが、今まで書いたことを考えると、実際には、日本の民主主義は発展すらしてなくて、韓国は東アジアの中では進歩した民主主義を維持できているという評価が出来るのではないかと思うのです。
これは、多くの論客は「日本が遅れてる」「皆が愚民だから」と言う、自虐的な文脈で語られますが、私はそうは思わなくて、「歴史的経緯から考えて仕方ないが、しかし、なるべく急いで克服しないと、国全体が滅ぶし諸外国に乗っ取られてしまいかねないだろう」と思う訳です。

例えば、特に若い人の自民党=今の政権与党や安倍内閣=今の内閣に対する支持率が高かったり、投票先として与党が多いというのが、今年の半ばに話題になりましたが、その最大の理由として「与党支持でないと/与党に投票しないとバカにされるから」と言うのがあったのに、注目したいと思います。これは、日本における個人が、個人として尊重されず、誰が決めたのかも非常にあやふやだし経緯もわからない「空気」の虜にされてるという事を示す、一つの好例だと思うのです。

私が、子供の親の立場であるのも含めて考えるに、これは、学校教育の時代錯誤さによるところが一番大きくて、後は、大人の社会がそういう形で最適化されてることとその事に危機感を持ってない人が非常に多いことがその次の原因なのではないかと思うのです。

学校教育では、組体操や班活動に代表されるように、「何らかの集団に帰属すること」「その集団に迷惑をかけないこと」「迷惑をかけた人間は懲罰的に排除されても仕方ないこと」、更には、「決まってる決まりはどんなに不条理でも守らないといけない」と言うことを繰り返し、身体に叩き込まれる訳です。これの弊害が、今になって猛烈に社会全体に吹き出してるのではないかと私は思うのです。要は、個人とは集団に隷属するものであり、ごくごく一部の選ばれた「エリート」のみが、個人として主体性を発揮し物事を決める権利を得られるのであり、その他の人々は決められたことを考えずに実行し・廻りに迷惑かけないようにひっそりと忍従せよ。と言うのが、今の学校教育と、その先にある社会全体の風潮になってると思うのです。

集団主義を克服せよ

最近、「陰キャ」と言う言葉が流行り始めてますが、これだって、学校社会なり狭いコミュニティの中で「好ましい」とされる人物像のみが社会的に恩恵を受け・そこに入れない人やそのように頑張ってもなれない人達を排除するという風潮を象徴してるし、それが、「自民党に投票しないとバカにされる」と言う、ものすごいおかしな話に繋がってきているのです。

そのような、「廻りからバカにされない」「廻りに迷惑をかけない」ということの中には、個人の尊厳はないんですよね。尊厳を発揮できず尊重もされない社会で育てられた末に、いざ就職しても個人の尊厳を徹底的に蔑ろにする環境が大半の人には待ってるわけですから、そりゃ、民主主義に必要な素養自体が日本にいる人達には備わってない。言い方を変えれば、学校教育によって、そのような素養が意図的に、奪い尽くされて社会に送り込まれてる。

ここを、既に社会に送り出された人たちも、今学校教育の猛威に晒されてる人達も、きちんと克服し、拒否していかないといけないと思うのです。そういう、自立した個人がいないで空気に振り回されて、損は専ら自分たちだけで引き受け、一部の「エリート」の養分として吸い尽くされる事を乗り越えていかない限り、日本社会は、立ち直ることがないだろうと思うのです。エリートが、善に固まって与えるのみであるならまだしも、エリートは、人々を自分の倫理観で縛り付け・富も何もかも自分たちのみで独占していく。そこを変えていくのは、多くの人々がきちんと議論をして物事を自分たちで決めていくと言う、その行為と結果によってしか出来ないのですが、しかし、そこに至るには、今の社会の有り様や自分の身の回りの状況に対して、きちんと疑問を持って駄目なところは駄目だと考えていくしかない。これは、非常に辛い作業だと思いますが、それが出来なければ、多くの人が、死ぬでしょうね。

さて、どうしたものでしょうか。

「日本の美徳」は本当に美徳なのか?

当面は、問題提起的でテーマにまとまりがない状況が続きます。ご容赦を。

美徳が、社会を腐らせる。

日本での美徳として、「決まったものはなんでも守る」というのがあると思うのですが、これが、日本社会をこれだけ劣化させたのだと思うのですね。

問題点としては2つあって、
①決まった途端に決定に至る過程が不問にされ、強制力だけが独り歩きしてる。
②決定に至る過程で、なるべく多くの意見を取り込もうという努力がまったくなくて、一方的な話だけで決められてしまう。
この2つは、それぞれが問題点が相当ある訳ですが、2つ合わさった場合の破壊力というのが相当ある訳ですよ。
この日本社会では、「なんでこんなこと決まってるんだろうか」という話が非常に多い訳ですよ。誰も得するとは思えないどころか殆どの人が損してるのが明白なのに、決まりとして決まってるから、決まりは守らないといけない。と言う、あまりにトートロジーな話が多くなってる。
そして、そういう「決まり」が条例であったり法律であったり、校則であったりして強制力を持ってるのはともかく、そこに疑問をさし挟んだり・その決まりでこれだけ困ってます。とでも言おうものなら、世間が袋叩きにしてくることも非常に多い。
この事が、実は、日本社会の硬直性とか、検証可能性の少なさを裏付けてる最大の要因ではないかと思うのです。微に入り細に渡りそういう「きまりごと」が、なんでそういうものが出来たのかきちんと筋道立てて説明できるわけでもないのに決まってて、それを守ることが自己目的化しているのが、それこそ小さな頃の学校教育から徹底されて「当たり前のこと」と思うようにしつけられた結果として、社会のもう少し大きな枠組みでの「決まり」自体を疑問に思うことや自分が実害を受けてるのだと告発する事自体が半ばタブーとされるようになり、結局、社会の規制の有り様を考える機会に恵まれなくなり、社会がどんどん「なぜできたのかすら定かではない決まりを守ること」それ自体に最適化されて、多少そこからはみ出せば警察が罰を与えたり・最近だとネットでそういうのを見つけてきては晒して袋叩きにする人が後を絶たなくなってる。

「きまりごと」で本当に大事なのは何か

実は、社会の「きまりごと」で大事なことって、「なんでそんな決まりがあるのか」「誰が得をして誰が損をするのか」って事と同時に、「損する人が出た場合に、それをどう変えていくべきか・もしくは変えないほうがいいのか議論できる状況であること」だと思うんですよね。
日本社会では、「議論できない状況」の方が圧倒的に多いんですよね。私が長年問題視してる「性表現規制」とか「青少年健全育成」と言う物を制度化した条例や法律・社会常識なんかは、それが一気に(異論や批判を力づくで押さえ込んで)推し進められてから、20年経って、やっと、そういう議論がある程度社会的に認められ始める状態になってるという状態で、他の問題がどうかと言えば、そういう状態になれてないものが大半ですよね。

最近ホットな問題だと、「カジノ法案」。多くの人が反対してて、しかも殆どの人にメリットがなくて、一部の人達の贈収賄とかマネーロンダリングが捗るだけだ。って指摘すら多く出されてるのに、国会で一応審議の格好取ったから採決ね。で、強行採決しちゃって法律化する。こんな法律が、日本には結構あるだけじゃなしに、それで困ってるとかこれは間違ってるだろう。と表明したりすると、「決まったことに文句を言うな」と袋叩きにされるもんだからなかなか言えず、言えても、マスコミなどが「決まったことだから」と無視することが殆どだから、議論自体が存在しないかのような扱いになってしまう。


欧米社会は褒められないところも相当ありますが、しかし「議論できる状況にあること」を何がなんでも護らないといけないという態度を多くの人が持ち続けてるという一点で、非常に偉いと思う訳です。まぁ、最近の「政治的正しさ」の蔓延ぶりとその反動としての極右的なものへの支持の集まりを見ていると、非常に危うい局面に立ちつつあるなと思うのですが。

結局、日本社会に欠けてるのは「一度決まったことでも、絶えず検証し・不都合が出たら直していく」と言う態度だと思うのです。何かが「きまりごと」として決まる時には、一方の都合であったり世の中で勢いを持ってる側の思い入れであったりで、決まってしまうものなんですが、それに対して反対の意思を表明した人達がその後検証を続けても、そこで「やっぱりこれは拙いでしょう」と言う話を出してきても、結局「反対したからいちゃもんつけてるだけだろう」とか、もっと下品で救いのない誹謗中傷(スティグマと言ってもいいでしょう)がぶつけられて、世の中から排除される傾向が、ものすごく日本社会では強くなっている。

歴史的に見たらどうか

 
私の見ている範囲では、昔からこうであったのではなく、1980年代・要は中曽根康弘が政権を握って色々「改革」していった辺りから、マスコミの論調も社会的な風潮も、そういう「異論を排除し・議論を拒否する」傾向が、ものすごく強くなってきている感じがしていて、田原総一朗という人物が一つのキーマンであると思いますが、そこは省くとして、異論や議論を排除する風潮が1980〜2000年代に急激に進み、この社会の硬直性を加速させて、2010年代後半に日本が急激に衰退する下地均しをする結果になったと、思うわけですよね。

ここを克服して、議論や対話を尊重しつつ、一度決まったことでもきちんと文句を言える状況を建て直していかない限り、日本が再び世界的な地位をとるなんてことはないし、そもそも、日本の社会全体が窮屈かつ貧しくこすっからいままで、みんなストレスを過剰に抱えてギスギスしてる状態を抜け出すことは出来ないのではないかと、思うのです。

さて、どうしたものでしょうか。