施行から七〇年目の「憲法の日」だけど、戦後蔑ろにされ続けてきた今の憲法の事を少し。

 私はこの時期になると決まって扁桃腺を腫らして熱も出て塗炭の苦しみを味わうことになるのですが、皆様は、お元気でしょうか。


 と、私信から入って恐縮でしたが、最近の流れに関して色々と書かないといけないとは思いつつも、これを書いた次の日は、日本国憲法が施行されてからの、記念すべき70年めの記念日に当たるのもあって、私なりに、幾らか憲法を絡めて書いていこうと思います。

 憲法と言うと、どうしても9条(戦争の禁止)が話題になりやすく、その次に話題になるのは21条(表現の自由・検閲の禁止)であったり,最近だと24条(家族生活での個人の尊重と両性の平等)が挙げられることが多いですが、もう少し別の条文について、注目してみたいと思います。

十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条 - Wikipedia



憲法九条無視問題よりも、ずっと深刻な、憲法十三条無視問題。

 今の日本、果たして個人が個人として尊重されるということが、きちんと行われてるでしょうか?学校でのいじめ問題や体罰問題は、なかなか改善が見られなくなり、最近だと部活動の強制・特に体育系の部活動で、休日がほとんどない状態で教師も生徒も駆り出されている上に、部活動の指導にしてもその道のプロではなく教師が手弁当でやってるから、きちんとした指導も出来ずにいて、しかも、昔から続いてる「体育会系の序列」は、根強く残されてる。と言う辺りからくる、人間関係の歪みや生徒と教師どちらも疲れ切ってしまってるという事の問題点が、話題になったりしてますね。
更には、前々からここで取り上げてる「管理教育」の問題で、生徒の髪の毛の質や色を学校が規制して、元々の髪の毛が色が薄かったり縮れていたりするのを証明する書類を提出させられるなどという学校が、半分以上であったという調査結果が報道されもしました。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル


 組体操の事故の被害者が未だ少なくなく毎年出ているのに、やめるという決断をしないことなんかも含めて考えていくと、この国の、学校教育には、全く、「全て国民は、個人として尊重される」と言う精神が備わってないとしか言いようがないんですよね。

 教師個人の努力でそこにあらがって、生徒を個人として尊重している人が少なからず現場にいるのはわかるのですが、しかし、そういう教師たちよりも、上の立てた、「生徒を個人ではなく、管理可能な家畜のようにしてしめつける」ような政策や教育方針を、そのまま実行し、進んで生徒の心を折って従順にしていくような人が出世するのは、相変わらずのようですし、教育現場の「憲法」「人権」というものに対する見る眼のなさ・著しく軽蔑するような扱い方が、結局は、子供の頃から人権などを信用させないで、個人のエゴと集団の「空気」に文句を言わずに従い・絶えきれなくなったら逃げることも許さないで、結局自殺するしか選択肢を与えないかのような、「人間」を、大量生産する結果に繋がってるんだと思うんですよね。

人として産まれたはずなのに、なぜ、日本の人は、人としてではなく家畜であるかのように育てられるの

 これは、度々書いてるように、1970年代の後半・ひょっとしたら1960年代の終わりくらいから、教育と労働に関する政策を徹底的に変えていくことで、「物を言わないで黙って働く国民」を作るということに、国が…政府も右派政治家も、財界人たちも…、膨大な資源を投入していった結果なんですよね。

 中曽根教育臨調やその前のからの、内申書と受験競争をベースにした管理教育なんかもそうですし、

 国鉄分割民営化や「連合」結成・総評解体に代表される、労働運動の徹底的な切り崩し(会社や財界に従順な御用組合以外を徹底的に潰していった)、

 会社法や労働法の改悪で、雇用の不安定化を図っていったこと。

 これらは全て、個人を人として尊重するものではなく、物言わぬ家畜・もしくは、物を言わずに死ぬまで働く奴隷としてみなすように、教育を先頭にしてやっていった事だと、私は思います。

 その結果、日本はどうなったかと言えば、就職氷河期の人達は、まともな職につくチャンスすら奪われ続けていますし、その後の世代の人達にしても、非常に安い給料で、毎日終電近くまでサービス残業させられるのも当たり前・会社がツイッターフェースブックをチェックして、会社によっては、趣味でやってる同人活動のような物までギチギチに管理しようとしてくる。それでいて、給料があがるかといわば、逆に下がったりする。
 そして、消費税は増やされ、スーパーで買う食料品の分量が減らされ、しかも、今度は、減らされたままで値上げまで始めるようになってきてるし、そもそも、年金や健保の取り立てが厳しくなりすぎて、可処分所得が下がる一方。

 要は、マルクス経済学が指摘していた意味での、「正しい意味での」、「搾取」が、どうしょうもないくらい広い範囲で行われている上に、人々の多くは社会から個人として尊重されずに、「強い人」の言い分を認めるだけしか生き方を教えられなかったので、誰も声を上げないし、だれも現状に抗う気力すら失いつつある。と言う状況は、どう考えても、憲法十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」とは正反対の状況な訳ですよ。

五〇年先、一〇〇年先の為にも、私達を個人として尊重する社会に作り直す、覚悟。

 いくつもの悪意が、今の憲法をボロボロに骨抜きにするために、最低でもこの四十年間ほどを使ってやってきて、人々から力を奪った。
 しかし、国は、色々と綻び、子供も産まれなくなり、お金も廻らなくなり、崩壊するより最早道が見えなくなってる。

 そのような状況だからこそ、私達は、すこしでも、「尊重される個人」のありようを取り戻していかないといけないんですよ。それも、社会や会社にとって利用価値があるから尊重されるのではなく、社会や会社が、自分たち「個人」をもっと尊重しろ。尊重しないのなら、「個人」は今の社会や会社を見捨てて、自分たちが尊重できるような社会や会社に作り直す。と言う、結構な覚悟が必要かもしれないような、社会の総入れ替え・総建て直しを、やっていくことこそが、私達が生き残り・後の世代が生き残るだけではなく、後の世代が人間らしく個人として尊重されるようになることで、後の世代やそのまた後の世代が増えていく、50年先・100年先には衰退を免れ、もう一度栄える準備を始められるような社会や国へと作り直す第一歩だと、私は思うのです。

「豊洲市場反対はゼロリスク信仰だ」と言う言葉にある、気味の悪さ。

 東京都の築地市場を、豊洲に移転するしないで揉めてる件、「豊洲移転に反対する人はゼロリスク信仰だ」という言葉で非難する人が増えているような気がします。しかし、豊洲市場の土地の空気からはシアン系のガスや水銀のような、食品を汚染する可能性の高いガスが出ていて、築地は基本的には土壌の汚染にとどまってるという事が、その手の話からはすっぽり抜けてるんですよね。要は、表面的な数字の多い少ないやらにこだわって、豊洲市場の環境にも、使い勝手の悪さにも、実は議論をやってない。
science.srad.jp

 この背景には、もちろん、豊洲に移転しないと責任を問われる人達が水面下で動いてPA(パブリック・アセプタンス)的なことを、著名人や学者・雑誌などに行っていることに、多くの人が乗っかってしまってるということがあるのでしょうし、それはろくでもない人の手のひらの上で転がされてるという意味で、余りによろしくないとは思うのですが、もう少し考えていくと、科学を永遠に変わらない「真理」として捉えてる人達の絶望的な多さが見えてくるように思えてならないのです。

科学は永久普遍の真理ではないはずなのだが…。

 科学というものは、ニュートンの法則みたいに非常に長い間使われてきて変わらないでいいと判断されてるものはともかく(でも、相対性理論などが出てきてるので不動というわけでもない)、殆どの物事は、後から出た研究で正反対になったりする可能性があるし、更には、色々な利害の関わる問題に関しては、多くの資金が動き・その資金の為に、事実でないことが真理とされたり、事実の一部だけ抜き出して真理扱いしたり、決定的な事実が存在するのに見てみぬふりされたりすることが、結構あるわけですよ。
 例えば、福島第一原発の事故で起こった、深刻な放射能汚染を「除染できたから深刻ではない」と言い張ったり、放射能汚染の健康被害は大したことはない。と言う大前提のために、甲状腺がんの手術数を、国がごまかしていたり。と言うのは、原子力発電を推進してきた人達が、「それでも原子力しかないんだ」と言う世論を固めるためだけではなく、自分たちがやってきたこと・原発を推進し、原発に必要な安全措置をケチったままで運転を認めたりなどしてきた事の責任や、その結果起こった事故での健康被害の責任を逃れる為にやられていることだと思うのです。

「カネで買われた科学」を乗り越えていく必要性。

 豊洲市場に話を戻しましょう。豊洲市場には、非常に不明瞭であやしいお金の動きが沢山あったし、そもそも石原元都知事と一部の都庁官僚が、色々反対論をねじ伏せて強引に決定したという経緯があった訳です。豊洲市場の設計や運営体制には、ゴールドマン・サックスの系列企業が深く関わっていて、市場の利用者は完全に蚊帳の外の状態で、どんどんと建設が進められた訳ですよ。
 大手の会社しか使えないような高額な利用料も設定され、中小零細業者は非常に不利な扱いを受けることが予定されていた。
 最初の頃から、建設予定地はガス工場の跡地ということで、土壌も地下水も汚染されてるからやめるべきという反対運動があったわけです。でも、「決める政治」を半ば掲げていた、石原氏や猪瀬氏は、これを強引に推し進めたし、マスコミもそれに乗っかり続けてきた。バックに、森喜朗元総理がいたという話も、最近出てきましたね。

 結局、非常に大きなお金が・それも、その土地や建物や施設の価値とは大きくかけ離れたお金が、この件では動いているし、それを(元々あった批判を無視して)強引に進めてきた人達からすれば、使えなければ逮捕されて刑務所に送られかねない訳です。ここまで来たら、死なばもろとも、何がなんでも豊洲に完全移転させるしかない。
 そういう、思惑の存在を抜きにして、「科学的なふりをする」ことの中で、「ゼロリスク信仰だ」と言う、非常に乱暴な話が一部の「著名人」から始まり、どんどんネットにも広がり、みんながそれを信じ込み始めてる訳ですよ。

 私達は、このように、著名人と言う存在に対して、物事の判断を預けすぎてるように思うのです。その結果、科学は著しく金に左右されるようになるし、ものによっては生存を脅かされるようなものを安全であると勘違いさせられてしまうし、人々が街に出て・ストライキもちゃんとやって、大統領の首を飛ばした韓国よりも、日本のほうが優れた民主主義だというふざけた話を信じ込んでしまう。
 そして、それらは、この国を壊して私腹を肥やしたり悪いことをした責任を取らずに逃げ延びてる人達を、どんどんのさばらせる結果になってる。


 これが、この国の崩壊の根本にあることだと思うのです。


 日本国内以外の意見もきちんと調べ、色々な見解に触れ、自分の力で考えて、結論を出しつつ、議論していく。と言うくらい、厳しいことをしないと、ここからは回復できないのではないかとすら思うのですが、しかし、この国が崩壊するということは避けようがない状況ですから、回復することを嫌でもやらないと、私達は生きることすらできなくなるのではないか。そういうふうに、最近、思うのです。

「政治が就職活動に不利」と言う社会風潮が、森友疑獄や東芝破綻などの社会の崩壊を招いてる。

最近、こんな記事が出て、一部で話題になってます。
ちょっと長くなりますが、一部引用します。

政治アカのフォローは就活に不利。 都議選候補予定者が若者の解説に「そりゃ政治離れするよ」


政治アカウントをフォローすると就職活動に不利になる。

こんな若者の意見を聞いたと紹介するツイートが話題になっている。投稿したのは、2016年の都議選補選(大田区)に無所属で立候補した写真家の溝口晃一さんだ。
(中略)

 

——「政治的な意見を表明することが就活に悪影響になる」問題についてどうお考えですか?

私も経営者でしたから、多少の「色が付いている」は理解しますが、デモに出て捕まって社名まで出てしまうような行為をしそうな人なら、遠慮するでしょう。

今は、JCや商工会などの小規模商業者の集まりでも自民党推しをするか、無関心を装うかしないと、どこでどう取引に関わることで理不尽な目に合うかわからないから、と警戒しているように見えます。

中小零細企業は、景気が悪くなってからの一強の政治になって、定期的に仕事のあるところは「官」であることから、取引上の上流に「官」の影がある事業なら、非政権側にいるとは思われたくないと思うのが当然ですし、そのような従業員を抱えていると思われたくないのも理解します。

なんとなく監視されている社会のようで、出来うる限りの不安要素は取り除きたいというのが、透けて見えます。

代議士選挙が中選挙区制度の頃は、同じ自民党でも違う候補を推しても「同じ自民だから」と許されている面があって、おおっぴらに支持を表明していた人もいたように思いますが、今は、どちらかしかないので、表明には覚悟がいるのではないでしょうか。

 

 
 基本的に、「若い人たち」の政治への関わり方が、政治を全て拒否しないと就職に非常に不利になるから、今の状況に問題があっても関わらない。という事について、溝口氏が色々な切り口からインタビューに答えてるのですが、これは、状況として深刻だと思うと同時に、実のところ、私が若かった30年ほど前も、余り変わらなかったなと思うのです。多くの人間が政治への不満や不安を表明していても、表面上無関心を装わないと、就職だけではなく日常生活でも不都合を強いられる。と居う漠然とした怖れを抱えていたのを、私はいろいろな人と話していく中で耳にすることが多かったと記憶しています。

「保身から来る政治嫌い」は、30年前から続いてる。

 それは、実は、社会のありようや政治の動きに対して何らかの異議を唱えたり文句を言ったりして、あまつさえデモなどする人を、小さな芽であっても見逃さずに警察の暴力で排除すると同時に、公安警察などを使い・就職でも「まともな会社」から排除させていって、総じて社会からも排除していく・表通りからは無色化して、社会の底辺に追いやっていく。という、高度経済成長後期の流れがあってのことだったし、そこには、度々このブログで書いている、管理教育の過激化や集団重視の教育というものもセットにされていった事だと、私は思っています。
 しかし、その事は、私は「排除される側」に近かったからこそ書けていたことだと思いますが、非常に危ういものを感じていた訳ですし、そして、その危機感は表明し続けてきましたが、「妄想」「考えすぎ」などと嘲笑されるよりなかった訳です。その位、1990年代当時の人々の意識と言うのは、1995年の地下鉄サリン事件を経てもなお。どころか経たらなおさら、その傾向が強くなるくらいには、表通りにいる人々は「天下泰平」を享受し、その裏側にある、一部の人達の悪意のようなものを見えないまま・又は見てみぬふりしていた訳ですよ。
 その、長年の積み重ねの結果として、「政治に関心を持つことや表明することは就職の大きなリスクだから一切やらない」という若い人たちが非常に多くなり、「忙しいしわからないから、選挙にも行かないし関心も持たない」と言うことに代表される、「政治に関心を持たないことこそが社会的に正しい」と言う風潮だと思うのです。そして、それを半ばデザインした人々やそこに乗ることで巨万の富や権力を握ってる人々は、「悪意」の積み重ねの成果だ。とばかりに、日本の経済も人々の生活も、喰い荒らして、それが長くは続けられないのを予感してるのか、特定秘密保護法で都合の悪い証拠を見られないようにし、共謀罪で、国民の大半をギチギチに締め付けたり脅しをかけたりしようとし始めてる。



人々から政治を引き剥がしたことで、犯罪やり放題になった一部の人々。

 更には、政治を社会から引き剥がし、特権にしてしまったことで、一部の人達がやりたい放題出来て、犯罪も一部の人達は無制限に近くなってるわけですよ。普通の人々が、喰うに困るなりしてやむなくした数百円の万引きですら、テレビのニュースで曝されるし運が悪ければネットで袋叩きにされて、その後の更生なんか知ったことか。とされるのに、偉い人達の子息は集団強姦や強盗や殺人をしても色々理由を付けられて不起訴になったり、起訴されてももっともらしい理由で無罪にされる。
 森友疑獄にしても、自衛隊の日報問題にせよ、国会に出てきた役人が、あからさまなウソの答弁を続け、都合が悪くなると答弁拒否していて、それは与党の偉い人たちを「忖度」したものだと言われているけど、誰も、その責任を取ろうとしないし、責任を取らせようという世論の盛り上がりもあまりない。
 東芝の破綻問題にせよ、数日前に浮上した日本郵政の巨額損失にせよ、高給官僚の集団が特定の企業人と結託して巨額の損失を起こすような経営判断を現場の反対を無視して押し付け、そこにまつわるキックバックなんかを、多分タックスヘイブンの裏口座に入れた上で、いざ問題が表に出始めた頃には逃げて、誰も責任を取れとは言えなくなってる。

「地上の楽園」と「この世の生き地獄」。

 そういう、社会の崩壊。というのと、「普通の人たちが政治を拒否する」と言うのは、私は密接な関係があると思うのです。
 身近なこと・不満な事を変えろという声が、普通の人たちから出ず・政治や社会の動きに影響が及ぼせず、そこから出る不都合は、専ら末端の・「下の」人達が甘んじて受ける。ということは、上の方に行けた人達や親の代から上の方の人達にとっては、非常に都合がいいわけですよ。自分の思い通りに殆どのことを動かせて、しかもそれが失敗しても刑務所に入ることもなければ、財産を没収されることも、破産して首を吊るよりなくなることもないし、そういう心配なんかしないでも、「下」の人達にそういう責任を押し付けて取らせ再起不能にし、自分は適当に「みそぎ」しておけばやり直しがいくらでも効くわけですから。「上」の人達にとっては、こんな「地上の楽園」はない。ひょっとしたら、北朝鮮以上の楽園なのではないかと思います。

 しかし、それでは、もう、たくさんのことが立ち行かなくなってるし、このままでは滅んだ後も更に滅ぶよりないいのだと言うことを、私達こそがきちんと正面から見ていくよりないと思うのです。自分でおそるおそるでも出来る範囲からでも、政治に対して意見を表明したり、何らかの形で関わって行かないと、上の人達は、この世の生き地獄である日本をより生き地獄にするだけだし、最後には何もかもうまく行かなくなって海外に逃げるかもしれない。
 社会を私達のために変えられるのは、「上」の人達ではなく、水戸黄門でもなく、私達のみである。と言う事を、覚悟していくよりないと思うのです。

「政治を持ち込むな」と叫ぶ人々が、正反対の政治的意見を同じ場で言う、ダブルスタンダード。

 Facebookに、「きのこ部」という、きのこについての色々を取り上げる、写真中心のコミュニティがあります。
https://www.facebook.com/groups/287379671368261/

 ここで、4月17日(月)に、「共謀罪について、法務大臣が『きのこや山菜を取りに行くのも監視や処罰の対象になりうる』と答弁していたが、私達も処罰されるんだろうか」旨、不安を表明するために記事へのリンクを掲示した人がいました。
https://www.facebook.com/groups/287379671368261/permalink/1106154922824061/

 ところが、「趣味のコミュニティに政治を持ち込むな」という、声の大きな人達がその書き込みに非難のコメントを連ね始め、それに対して「現実的な問題ではないか』と自重を求める人達も出たんですが、政治を持ち込むな。政治を持ち込むやつは排除すべき。という合唱が起こり始めました。
 しかし、その合唱をした人達は、同じスレッドで野党はダメだとか、左翼を排除するために監視しないといけないとか言う事を書いてる訳ですよ。

 この、二重基準ダブルスタンダードダブスタ)が広くまかり通ってしまってることについて、少し考えてみようと思います。

ダブルスタンダードは、冷戦崩壊の頃から拡がっている?

 こういう、政治的に特定の方向の意見を持っていて、それに反する意見を排除したり貶めたりするために、「☓☓に政治を持ち込むな」と言うのは、日本でインターネットが一般化し始めた2000年代の初頭・大体2003年あたりには、既にネットでかなり猛威を振るっていたと思います。もう少し遡ると、政治家が日の丸君が代の強制であったり歴史教科書に対して都合の悪い記述を削除させたことであったりに対して反対する人達・特にその意思表示を国旗国歌の強制の場や教科書選定の場で行う人に対して、「政治を教育に持ち込むな」と恫喝も入った感じの強い調子で、TV等で非難するというのがあったと思います。
 要は、最初に、自称「保守」の右派政治家がそういう事を言い出し、それを、ネットの人達・大体は後に自民党ネットサポーターズに参加してるような人たちによって、四六時中声高に言われ・些細な書き込みも監視し見つけ次第袋叩きにしていくような形で行われていったことが、最低でも冷戦崩壊以降に関しては、根本にあったのだと思うのです。



1970年代から急激に悪くなった、日本社会の風通し。

 日本の社会というのは、何度か書いていますが、「場の空気」を握った人たちが言う事を、議論をさせないようにして呑み込ませて、それによって呑み込んだ個人に降りかかる不都合は、もっぱら呑み込んだ人が背負うことになり、「場の空気」を握って結論を押し付けた人達は、それが起こしたことの結果責任を一切取らないどころか出世したり財産を増やしたりしてしまうという、非常におかしな構造で固まっています。
 これは、私は、繰り返しになるけど、遅くとも1970年代以降の学校教育がそのような「道徳観」を校則や体罰・諸々の班行動などの形で身体感覚として刷り込んでいったことと、問題のある道徳観をや1980年代の「中曽根構造改革」が社会の構造を劇的に悪い方向に変えてしまったことの、大きな成果であったと思うわけです。
 私達は、確かに風通しが悪いどころか全然風が通らない社会に置かれているけど、それは大昔からそうだったと言うよりも、戦争に負けて多少経ってから1970年代の半ばくらいまでは風通しが結構あったのに、それを拙いと思った人たちによって、風通しのない社会位にされてしまってるし、風通しがないから、皆が窮屈だと思っても、それを変えるにはどうすればいいのかすらわからなくなってる。
 そういうなかで「☓☓に政治を持ち込むな」と、スシポリス並に重箱の隅をつついて、今の政治や社会の有り様や自分たちの行く先に対して不安や不満を述べる人たちを非難し・言葉を言わせないようにする人達が、それとは正反対の政治的意見を何ら恥じずに同じ場で言ってしまうということが、認められてしまってるんだと思うんですよ。



「負の成功体験」を振り回して場の空気を握ろうとする人達を乗り越えるために。

 彼らからすれば、その場の空気を握って、気に入らない意見や人物を黙らせ・叩き潰せるという「負の成功体験」をたくさん抱えてもいるわけですから。
 こういう事を長年認めてしまってるから、社会が破滅し始めてるわけで、風通しを良くするためには、「水戸黄門」を待っていたんではダメで、問題を感じた人達が自分の意見をきちんと言うようにしないとダメで、それは、その意見を気に入らない人からは「電波」「妄想」「陰謀論」という、非常に悪い言われ方・レッテル貼りをされてしまう場合が非常に多いのだけど、それでも、言うことは言うし、それと一緒に、なんでそう考えるのかということを,なるべく論理的に・もしくは丁寧に言ってくしかないと、私は思うのです。

今ある右派勢力の主流派ではなく、小池百合子頼みでもない、「新しい保守」「新しい右派」を作る覚悟が、ありますよね?

今回、非常に長くなりました。
最近、「オタク系Twitter」でよく見られる、言説の一部の問題を書いた上で、そのような事を書いたりしている人たちに対して、檄文を書く形になっています。
 但し、「野党がなんで評価されないのか」ということの一つの状況への洞察を、1.〜2.で書きましたので、気が向きましたらそこだけでもお読みいただけますとありがたいとおもいます。

 色々な方面で、「野党が頼りない」「森友学園加計学園の疑獄の問題なんかやらずに、法律を審議しろ」と言う声が、相変わらず出ているどころか、いくらかの人達の中では言葉の激しさが増し続け、そこに釣られて同意する人も出始めています。例えば、漫画等の表現規制に反対する立場でやってきた人達の中で、そのような論調に乗って野党四党への批判を展開して、与党に取り入ってる文化人のやり方しかない、山田太郎参院議員は自民党からでも出るしかない。みたいな言葉で、人々を煽ってる人達がいたりするわけですよ。これは、なんでそれが起こったのか考えると、非常に深刻な事だと思うのです。

1.与党が多すぎて太鼓持ち政党までいるとこうなっちゃう、見世物小屋化してる国会。

 今の国会の状況では、与党と一部の野党(維新の党や日本のこころなど)がいれば、何でも出来てしまうんですよ。野党が議場に入って何かを言っても、全て与党に都合のいい言葉だけがつまみ食いされ、与党や内閣の答弁は物凄くいい加減で野党の質問に答える気もないし、与党が中身を増しにするために何かやるかと言えば、総理大臣におべっかを使う訳のわからない話を長々と質疑の場でやったりまでしてる。
そういう背景があって、今、たてつづけに、非常に拙い法律が出されてきたり、出されて殆ど質疑もなしに法律になったりしてるんですよ。民法の改悪とか、介護保険の利用者負担率を30%にはね上げるとか、種子法を廃止して、日本固有の種を誰も管理しなくて良くして外国の・それも毎回種を買わされるだけではなく、色々な制約や罰金がセットにされてる、モンサントのような巨大アグリビジネスが日本の農業を牛耳れるようにしようとしたりとか、すべてそういう構図で出てきていたり、既に成立させられたりしてるんですよ。

 そういう中で、そこに反対する人やその代表者たちが議会で出来るのは、「一日でも一時間でも長く、議会を止めて、可能ならば解散総選挙に追いやって法案審議を次の国会まで先延ばしにする」。これが精一杯の足止めなんですよ。
 今の内閣のように、元々の法律を出す意図がムチャクチャだったり、特定の人達の利益や利害・イデオロギーを満足させることだけで法案を作り、それで大きな損害を受ける人達や生存に関わるような危険を感じさせられてる人達を、徹底的に無視するような中身を、強引に出して強引に可決させてしまうような人達に対して、そうでない人達が議会で抗うには、この六年ほどの選挙の結果は、余りに冷酷なのです。そして、その理由が「棄権の多さ」であったことは、誰もが正面から受け止め、選挙に行かなかったり選挙に行かせられなかった責任を持って、次はもっと前向きにやっていくようにしましょう。と思うのです。

2.「漫画表現規制」をめぐる、反対する人々の言葉から、「野党不信」の背景を考察してみる。

 今の、少なからぬ人達から野党が批判されてる理由のなかには、実は、「フィクションへの表現規制」を誰がどのように考えてどう動いたか。と言う問題に関しての、憤慨や齟齬・危機感というものが色濃くあるんですよね。
 要は、野党四党は「左翼」と近いから、フェミニズムに理解を示している。「まなざし村」などと呼ばれてる、過激な中でも(言葉が)過激なフェミニスト達は、これから書く歴史的経緯のこともあって、専ら表現規制を自分の快・不快になぞらえて(これは、日本の主流派フェミニストの伝統的なスタイルでもありますが)表現規制を求めるだけではなく、「オタク」と呼ばれる階層や男性全体に対して、ヘイトスピーチどころかヘイトクライムをも示唆してくるような言葉を、日々吐き出していて、「左翼」の側からは、それを諌めたり運動の現場や理論誌の誌上から排除することも、一向にやられない。と言うような不信感があるんですよね。

 その中で、今の野党四党が過去に表現規制を止める上で大きな受け皿となったことを無視し、野党は表現規制派と繋がってるから信頼できない。与党議員とロビイングしてくれる赤松健先生や参院選で29万票取って落選した後に総理官邸に招かれた山田太郎先生のようにやるしか、表現規制派防げないんだ。と吹き上がる人々が出始めていたところに、先月書いたように、森友疑獄追究をしている野党四党の動きをディスるためにPA(パブリック・アセプタンス)が展開されていって、そのPAに「吹き上がる人々」が取り込まれてしまってるんですよ。
 これは非常にまずいなぁ。と思うんですよ。表現規制を止めて、規制を緩和させていくやり方は、一つじゃなくてたくさんあり、そのやり方にはクリエイティブなものもあればいいし、いくつもの「流派」が並行してないと潰されるし、それらが何本かの大きな川になってお互い潰し合わないように気をつけるのが大事だと、思うのですね。



3.「漫画の表現規制」「アニメやゲームの表現規制」等々の近現代史

 歴史をご存じない人達に簡単に説明しておきます。
 漫画などのフィクション作品をめぐる表現規制の歴史は、戦後ずっとせめぎ合ってきていて、そのバランスが90年代の頭に崩れだしていったんですよね。表現の規制を「わいせつ規制」とリンクさせて法制化を求める、「念法眞教」「キリストの幕屋」などの一部の宗教団体(これらの宗教は、軒並み、日本会議に参加してもいる)の動きがあり、その反対側では「性の商品化」批判や「性暴力撲滅」の文脈から、表現規制を求めたフェミニズム団体があった訳です。そして、このフェミニズム団体には、過去の経緯からキリスト教矯風会組んで、色々な動きをしてきました。
 そして、そのフェミニズム運動は、左翼の一部と歴史的に同じところ(成田空港建設反対闘争での熱田派)から出てきていて、その内部であった強姦事件やグループの対応の悪さから来たゴタゴタの影響でグループを抜け、熱田派が事実上(反対運動として)解体した後に「市民運動」を始めた人達と繋がっていって、
フェミニズム運動の側が「ポルノや性暴力を根絶するためには、他の人権を完全に制限すべき」「基本的人権は自分たちの目的の下にある」と言うキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンの「反ポルノフェミニズム」理論に強い影響を受けて、90年代頭の表現規制運動や性の商品化排除運動を邁進していったのですが、この人達と最初に出てきた「念法眞教」のような宗教団体、そして、治安と言うより道徳の為に性風俗全てを自分の手中で制御する「正しさ」に取り憑かれていた警察(の生活安全部中心の)官僚たちが、徐々に手を組んでいったんですよね。
 最初は運動の場で一緒に開催するとか、児童ポルノ問題に関する国際会議に参加し、「日本は世界最大の児童ポルノ大国」と言うウソを発表し、外圧を呼び込んだ上で児童ポルノ・買春禁止法(現在、若い人たちの性に関する人権を著しく攻撃してる法律ですね)を成立させた辺りでしたが、その中で、男女共同参画事業を利権化して、この三者の代表者が仲良く国や自治体の男女共同参画会議や青少年問題の審議会に参加し、奥平康弘先生のように基本的人権を侵害するなと言う人達を排除し、90年代末から今に至る、青少年の人権制限や盛り場に対する不条理すぎる規制を、フィクションへの表現規制とセットで方や条例に入れ込んでいってる訳です。
 今騒ぎになってる、アダルトビデオを巡っての相当強引な捜査・摘発や、アダルトビデオ制作者全般に対する「フェミニズム運動を中心にした」誹謗中傷は、彼女ら彼らの道徳観や野望の達成目標が増やされたことでもあるし、そこには、男女共同参画事業や青少年健全育成事業が、フェミニズム運動・警察・右派宗教の共同の利権権益となったことの延長線として、アダルトビデオ等の規制利権を彼らで独占して、性表現全般を骨抜きにしていく悪巧みも、含まれているでしょうね。

 そういう中で、彼らの動きを00年代に足止めしたのは、保坂展人(現世田谷区長)であり、枝野幸男であり、福島みずほであった訳です。今まで、ラジカルフェミニズム運動に引きずられてきていた左派系議員や中道系・左右のリベラル系議員を説得して回り、少なくない議員さんたちと問題を共有していって、結果、児童ポルノ・買春禁止法を策定した人々の頭にあった「徹底した治安重視で人権制限し放題のの管理社会」は、彼らの「仕事」によって、第二次安倍政権が出来た2012年までは、殆ど足止めを食らうことになっていった訳です。
勿論、左派議員の中でも、矯風会日本ユニセフ協会とつながりの深い人達は、彼らへの理解を半ば拒みましたが。



4.今ある右派勢力の主流派ではなく、小池百合子頼みでもない、「新しい保守」「新しい右派」を作る覚悟が、ありますよね?

 そういう歴史的経緯があるのを、眼の前で見続けることすら多かった私からすれば、今、ネットで廻ってる話も、論調も、あまりに乱暴すぎる形で「左派」「中道」「リベラル」というものを見下してるように思えてならないのです。
 見下している人達は、自分たちが支持してる「保守」「右派」政治家が、今の状況では飼い殺しか排除の対象にしかならないという現実を見て、与党の上位層を反表現規制で占める所まで、えげつない真似を繰り返してでも行うか、もしくは、そのような旧来の宗教も関わってる「保守」「右派」とは離れ、ある程度リベラリズム立憲主義を受け入れる「リベラル右派」とも言える流れを作る方に力を注ぐか、どちらかを決めろ。と支持してる政治家や右派・保守言論人たちに迫っていくことこそをやっていってほしいのだと、私は思うのです。
 左派は気に入らないのはわかりますが、左派を貶めて、その結果右派の議席が増えたとしても、貴方方の目標は達成されないどころか、今より目標が遠ざかるのが眼に見えてるのだから、きちんと、やるべきことが何か考え直してもらいたいと思うんですよ。

森友疑獄の根本には、選挙制度「改悪」があるのではないか。

 間が空いてしまいました。

 森友学園疑獄や加計学園疑獄に限らず、総理や総理夫人周辺で沢山のスキャンダルと、官僚が「忖度」した事によって起こってる法令違反行為やその他の「ありえない」動きが沢山国会で追及され報道されてるにも拘わらず、今の政権が退陣も解散総選挙も行わない背景について、少し趣を変えて考えていきましょう。

 「非常に強い内閣」「安倍一強体制」というものが、背景にはありますが、つまりは、自民党の中の人事もお金の流れも安倍晋三氏が握ってしまい、逆らう人が殆どいなくなった事や、自民党が圧倒的に多数の議員を送り出してるので無理やり通せば何でも出来てしまう状況なのが、安倍政権にせよその周辺で媚びへつらうために法令違反行為を繰り返してる官僚たちにせよ、一向に責任を取らない背景にあるわけですよ。そして、それは、今の選挙制度の問題・特に小選挙区制や比例代表制の問題に、直結していく訳です。

小選挙区制度や比例代表制度の弊害。

 小選挙区制とは、一つの選挙区…例えば神奈川1区なら神奈川1区の範囲からは、一人しか議員を出さないような制度な訳です。そうなると、どれだけあいさつ回りして顔を売れたかとか、バックに大きな組織を付けられたかで、勝負の大半が決まってしまうわけですよ。そこには、その人が何を議会でやりたいかとか、日頃から何を考えどうするべきと言ってるか。と言う話は、全く入ってこない。

 比例代表制では、政党が選挙の基本単位になります。従って、政党に所属しない・意見も既存の政党とは異なる人達は、ここでも出るのが非常に困難で(何千万円もの大金を投じて、自分の政党を作って、そこで法律に定められてる人数を候補に出せば出られはしますが…)、しかも、組織力のある政党以外には票が集まらないから、ここでも多数派政党が有利になる。

 世の中には多くの意見があり、多くの望みや利益利害というものがあるのですが、今の選挙制度は、そもそも非常に狭い範囲の利益利害しか代弁してない上に、政党の中でもごくごく一部の人にお金や候補の割当てに関する力が集中するような制度になっているので、なおさら狭い範囲の利益利害だけが政治で強調されてしまってる。

 そうなれば、多くの人は「選挙に行っても変わらない」「デモなどをしても変わらない」と、政治に関わることを諦め始めてしまいますから、そうなれば、少数の利益利害で国を廻したい人達にとってはボーナスステージとなり、自分たちの組織票だけで国を支配したかのような事を出来てしまう。これが、今の状況なんだと思うのです。

1980〜1990年代の政治報道のおかしさが、この事態に繋がってる。

 従って、小選挙区制度や比例代表制度が、実は今起こってる日本の多くの問題の根本と言うか、巡り巡ってこの事態になってるわけですが、なんでこれが出来たかと言えば、1994年に小選挙区制が出来るまでの約10年間、ものすごい勢いで小選挙区制や比例代表制がこの国の選挙制度に持ち込まれていったわけですよ。


 その中では、マスコミが半ば主導するようにして「小選挙区制で腐敗はなくなる」(当時、中選挙区制の下での「金権選挙」が長年の問題になっていた)とか、「政党主体の選挙こそがあるべき姿だ」と、毎日毎日喧伝していったわけですよ。そして、その動きを批判したり反対したりする人たちが、軒並み「国の腐敗を許している国賊」的なレッテルを貼られてニュースや政治バラエティで、それこそものすごい勢いで怒鳴りつけられまでして非難され、みんな「金権政治家」的な悪いレッテルを貼られて選挙報道で非難されるのを怖れて、批判する人達は黙ってしまった訳ですよ。


 殆どの政党や言論人が、黙るか「選挙制度改革」に賛成するかのどちらか(私の記憶では、最後まで黙らなかったのは共産党くらいだった)に態度を決めてしまい、反対する人が殆どいなくなった中で、これらの選挙制度改革が決められていきました。

 私は、あの時の怖ろしさ・ファシズムに片足を突っ込み始めた怖ろしさと同時に、当時のマスコミの報道の酷さというものを、今でも鮮明に覚えているわけです。

絶望は、又、希望を作るチャンスにもなる。

 あの頃といわず、そのずっと前から、この国の選挙も政治も、日々を生きてる人々とは非常に遠い距離にあって、政治家とコネでも出来なければ意見を世の中に反映する事が不可能に近かったのですが、小選挙区制や比例代表制がこの国の国政選挙に入ったことで、その事が決定的になってしまったと、私は思うし、そこを、これからは変えていかないといけないと思うのです。

 今、安倍政権は徹底的な独裁体制を作り上げてきて、もう何歩かで完成しそうではありますが、そのことで、多くの困ってる人達が無視され・踏みにじられている一方で、上の方の人達が自分たちの中だけで大金を廻し、法律を無視しねじ曲げ、自分たち以外にはどんどんと厳しい法律を押し付け、なんでも逮捕して罰せられるようにしようとしてる訳ですよ。共謀罪のように。

 これだけ、急激に社会を崩壊に追い込んでしまっていることは、裏返せば、それまでの社会の有り様や選挙制度の有り様の結果であるし、それだけ、「現状を変えないといけない」と言う人たちへの不条理な批判を押さえ込める可能性が上がってることでもあるんですよね。要は、変える変えると言って悪い結果を放置してきたんだから、マシな方向に、変えろ。と政治家達やマスコミ達の中でもまだ善意と良識の残ってる人達の背中を推し、尻を叩き、もっと広い範囲の利益利害や意見が、政治や社会に反映させられるようにしてほしい。という流れを、これから一人ひとりが作っていくいいチャンスにも、なってるように思うのですね。

既成の政党にうんざりしても、そこを通さないと崩壊が止められない矛盾。

前回の記事で、多少反応があって、「大半の人は既成政党にうんざりしてるから棄権してると思う」というご意見がありまして、そこから少し考えていきましょう。

確かに、それは間違ってないと思うのです。今ある政党の不甲斐なさと言うか水面下で訳のわからない「妥協」をしがちで、多くの人が困ってる問題に関しても、党内で声の大きな人や影響力のある人が反対すると、なし崩しに変えられない方向になってしまう。そういうことが、非常に多いことは事実なんですよね。だからといって、既存の政党が期待できないから、棄権しちゃおうとか、泡沫候補に入れておこう。となると、今度は、今の与党のような組織票が強くて、でもうそつきだったり自分たちの私利私欲で政治を私物化してしまうような人達が圧勝してしまう。
そういう、大きな矛盾を、この国の選挙に関わる制度は抱えてるし、その矛盾を放置するどころかマスコミがこぞって「矛盾を拡大させるのが正しい」というようなことを長年繰り返していたことの後押しを受けて、議員定数が減らされ・小選挙区制などの組織票勝負で政党の中心の権力が異常に強くなる制度を放置し、結果として、よほどの金持ちと組織がバックにいる人以外は、選挙に出ることすら出来なくされてしまってるんですよね。

 

水戸黄門願望を抜け出すという覚悟の必要性。

ここは、変えていかないといけないし、変えるには、多くの人の政治に対する意識を「お客さん」的と言うか、水戸黄門に任せる事でいいんだ。というところを抜け出して、色々な方法で政党に対し変えることを要求しつつ、可能ならば自分たちの代表を国政に送り込むだけの状況にしていかないと、ダメなわけです。

とは言え、それを実現するには、どう考えても十年では収まらない長い期間がかかりますし、その間、何も政治に対して私達がしないでいるならば、状況がもっと悪い方向に進むのみな訳ですよ。この悪くなっていくのを食い止め、悪くなってしまったことを建て直す。という部分のことは、残念ではあるのですが、既存の政党・特に、この事態を招いた与党(自民・公明)や維新などの衛星政党ではなく、そこに対抗してる野党四党に議会の場での「力」となってもらうよりないわけです。
繰り返しになりますが、短期的・中期的にやっていく必要のあることや現状で可能な最善の選択肢を考えるということと、長期的な目標をきちんと分けておいたほうがいい。

 

社会を建て直す上での政治と「私達」のありよう。

その中でベストを目指すには、野党四党に組織になってない多くの人が意見表明を絶えず行い、個別個別の物事で要望を出しつつ、マスコミに対しては個別の問題で、自分がやってほしいと思うことについてはあまり足を引っ張るなという声を、やはり組織化されてない「数」で常時示していく事や、個別の動きでこれはいい・これはわるいからやめてくれ。という話を、政党側に上げていって、それに対する考えを向こうに情報発信させていくような「圧力の好循環」を作っていくことから始めていく必要があるように思うんですよ。
殆どの日本人は、「困ったら水戸黄門が出てきて解決してくれる。水戸黄門になれない政党は無能だ」ってイメージに毒され続けてますから、そこを解毒していき、自分が政党や政治家に対して色々意思表示したり要求したりしていき・政党から絶えず意思表示を求める代わりに、それを多少なりともやってくれる政党に対しては応援するし、マスコミや官庁や他の政党が、自分のやってほしいことの足を引っ張るなら、それを止めたり牽制したりする。という、ある種微妙な力のバランスを作っていく必要があると思うんです。

政治家は偉い人じゃないし、何かを恵んでくれる人ではない。自分やある問題で思いを同じく人達が動かし・突きつけ・その上できちんと仕事するなら支えていく対象で、言い方は悪くなってしまうけど、「私や私達の公僕・しもべ」なんだ。と言うふうに、意識を変えていきましょう。
根本から、人々と政党の関係性、選挙と私達の関係性を、変えていきましょう。

そういう人が多くなることや努力の積み重ねこそが、この国を建て直す上で、最も大事になっていくことだと思うのですね。