新年だけど、めでたさが感じられず…

新年になりました。
世の中の状況が状況なので、「あけましておめでとうございます」とはいいにくい状況ですね。その上で、書こうと思ってることがいくつもあってなかなか順番を付けられてないのですが、少しづつ書いていきます

権威主義が民主主義と社会自体を破壊する。

日本では、権威主義が過剰に蔓延してきました。ある問題に対して権威を持ってる人が言う事を、その人の専門外の話であってもそのまま受け売りすることで、それに対する反論や異論に目を向けないでしまうという事が、当たり前に「正しい」とされてきました。
しかし、そのことが、日本の今置かれてる破局的な状況を招いた大きな要因なのではないかと、私は思うのです。

例えば、1990年代初頭、日本の給料が高いから・終身雇用で労働者が護られてるから、競争原理が働かずに日本は世界の競争に負ける。と言う、良くよく考えると何重にもおかしな・論理的に破綻してる話が、マスコミを中心にもてはやされました。労働者をクビにして行くことが、株を買ってくれる投資家からいい評価を貰う方法で、クビにした後の新規採用も、絞っていくべきだし、労働者が声を上げたり行動したりするのは、単なるワガママだから、非常に格好悪いし規制されるべきだと。
こういう話をマスコミは勿論、マスコミで持て囃されてる「評論家」が繰り返し行いました。そして、それに対する反論があれば、「社会主義的だ」「労働者はわがままにやってきてるのに味方するのか」と、公共の放送の場で…例えば、朝まで生テレビ!で…激しい口調で罵倒されることすら、珍しくなかった。

結果、「就職氷河期」と呼ばれている、新卒採用が極端に少なくなった15年ほどの期間が起こってしまい、多くの労働者・働く人は給料が高いとは言えず、いつ首を切られるかもわからず、社員食堂で高い金を払わされたりするような差別をされてしまう、派遣社員になるよりなくなりました。
そして、そういう中で正社員もその他も長時間労働をすることがいいことだと思わされるようになり、際限ない長時間労働や心労で心身を壊して働けなくなる人が沢山出ましたし、みんな心に余裕がないものだから、お互いに排除し合うことで社会が成り立つ部分が大きくなり、給料が下がるのに物価が上がる(最低でも下がらない)事もあって、晩婚化や非婚化、孤独死が当たり前の光景となり、極端な少子化が誰も止められない所まで来てしまってる。(ここの部分で、今の日本で主流であるところの「フェミニズム」「女性運動」の果たした、犯罪的な役割があるのですが、そこら辺を書き出すと話がぐちゃぐちゃになるので、別の機会に。)

個人が背負えないものをたくさん背負わされてる現状。

今は、いろいろなことが個人に背負わされすぎて・個人が自分が楽になるようにはやってはいけないと縛られすぎた結果、耐えきれなくなって錯乱したり、見ず知らずの人に暴力を振るうことも頻繁に起こり始めてますが、これも、同根なんですよね。
個人が、徹底的に個人として尊重されず、大きな括りの「人種」「性別」「職種」「会社」などの属性でしか、全く見られなくなったということと、個人に対して過剰過ぎるまでに「わがままを言うな」「泣き言を言うな」と迫られたり、「隣りにいる奴・別の属性の奴は全て敵だと思え」と言いたげな社会風潮や受験制度があまりに長く続いたりした結果、だれもが他人を信用できなくなり、誰もが自分が困っても自分一人で背負い込んで行くのが「政治的に正しい」のだと、思い込んでしまってる。

その大きな転機は、確かに1990年代もあるんですが、その前に実際の転機があって、1980年代初頭、中曽根康弘が総理大臣となり、新自由主義に基づく改革として、教育制度や内容を根本から変えると同時に、労働運動・労働組合を、世論操作してまで(国鉄民営化に関しては近年、当時の運輸省や内閣が、新聞やラジオ等への偽名での投稿などの世論対策を積極的に行なうために資金を投入していたのが明らかにされましたが)孤立させ、労働運動に頼らずにやるのが「政治的に正しい個人」なのだ。と刷り込んで行ったわけです。「金持ち・富豪・大企業は政治的に正しい・政治的に素晴らしいのだ」と言うメディア戦略を伴って。(「メザシの土光」とか…)
後、「恋愛資本主義」と呼ばれてるような、個人同士が競って上に立つことを良しとするような恋愛観の普及というものも、無視は出来ないでしょう。恋愛資本主義である以上、おびただしい数の「敗者」が出ますが、それは、社会では基本的に蔑ろにされ・別の属性を構成する歯車としての最適化を要求されてる個人が、恋愛でなんとか個人の尊厳を取り戻そうとする時に、恋愛資本主義で「資本」を持たない・例えばブサメンとか陰キャとか呼ばれてる人たちは、「恋愛市場」に参加しても「負ける」し、そもそもいろいろな社会的風潮…これは、手を変え品を変え未だに新しく出来ては消えてますが…が、「資本を持たない奴は参加するな」みたいなことを、テレビとかの番組や雑誌含めて猛烈に繰り返してきた訳です。

新自由主義改革と恋愛資本主義の結果起こってる荒廃

個人として尊重された経験があまりなく、他人の良し悪しを属性でフィルタリングするのが当たり前のようになってて、その中での相互の対立が激化してる。しかも、個人に背負わされた苦労や苦難をその属性が分担して背負うでもなく、専ら個人が「2つの苦労」を背負い続けてる。と言うのが、2000年代末期から2010年代半ばの社会風潮で、それは未だに続いてるのですが、しかし、そのことが何を巻き起こしたかと言えば、街角での無意味とも言える暴力事件の頻発や、個人が過剰に自信を喪って何も出来ないようなところに追い込まれて抜け出せなくなってる事なんですよね。
結局、少子化とかそういう問題の根底にあるのは、個人が徹底的に蔑ろにされ・これは後で書ければば書きますが個人がとことんエゴのために他人を利用するのが「政治的に正しい」と言う社会風潮が長く続いてきたことと、「上からの改革」ばかりを待望する風潮・「上からの改革」は中身がどんなにひどくても素晴らしいものなんだ。と言うメッセージが民主党政権に交替する前までと自民党に再び政権が移ったあとは(ここがキーポイントになります)繰り返しマスコミ等で流されていて、人々が半ば洗脳されたままだという事に繋がってくるように思うんですよ。

社会福祉制度の欠陥や人為的な不備の問題も、勿論あります。今の政権になってからは、社会福祉制度全般がものすごく薄っぺらくなったし、最優先で犠牲にされるようにもなってるので、この問題は非常に深刻ですが、これについても後で書ける時に書きましょう。

「上からの改革」が、現状期待できないですし、仮にいま野党(かつ自民党太鼓持ちをやってない政党)に政権が移ったとしたら、どうなるかといえば、今までのような状況で得をしてきた高級官僚・特に財務省の高級官僚たちがいろいろなところに手を回して状況の改善をしようとする政権を潰しにかかるでしょう。マスコミに「非現実的だ」などと言わせ、付き合いを持ってた議員たちに政権の足を引っ張らせ、総理大臣の首をすげ替えようとする。民主党政権時代に二度もそういうことがありましたよね。鳩山政権も菅政権も、結局はマスコミが高級官僚側に付き、党内で権力闘争をしたい人たちがマスコミや官僚の尻馬に乗り、官僚の一部が徹底したサボタージュとウソ情報を内閣に出し続けたことで、退陣に追い込まれたのですから(Cable Gateで調べると色々悪事が出てきます)。

そうならずに世の中を(大半の人にとっていい方向に)変えるのに何が必要かと言えば、「下からの改革要求」がものすごい分量と熱量を伴わないと、改革は出来ないし、改革できたとしてもそれはごくごく一部の金持ちや資産家が国の財産や私らの財布を私物化するものにしかならない。と言うのは、散々経験してきてるわけでして。

「下からの上に対する改革」こそが今の日本に欠けてる

個人が徹底的に責任を負わされて、重圧に耐えきれないのに耐えてる結果、他人に対して徹底的に攻撃的になったり、意見の違いで排除するのを最優先にしていたら、それこそ、「何も変えたくない偉い人達」の思う壺だということです。
今の、生き地獄とも言えなくもない現状を変えるには、今まで何十年間にも渡って刷り込まれてきたことや背負わされてきたことが、本当に正しいことだったのか。と一旦疑って考えた上で、それでも社会や政治の現状はすぐには動かないし黙ってても動かないんだから、まずは意見表明や(ストライキのような)具体的行動を一人からでも始め、似た方向の人たちが自然に・緩やかに繋がって行くことで、「川」そ作り、その川が更に合流することで、何本かの大河となり、政治や行政や企業が、動くより内容にしていくと同時に、政治にも行政にも企業にも、数は少ないけれど善意を持って、状況が悪くなろうとするのを体を張って止めようという人たちがいるのですから、そのような人たちと繋がれる時に繋がって、彼らの「後ろ盾」となって彼らが負けないようにすると同時に、彼らの考えや行動をこちら側から、積極的にアップデートさせていくのがものすごく大事なんですよね。

これは、日本では、戦後70年間、その時々では多少は起こってきたし、東京都青少年健全育成条例改悪反対運動が2009〜2010年に実際に行い、児童ポルノ・買春禁止法の(フィクション作品や絵画などを規制対象に含めようなどの)改悪反対運動でも、長年緩やかな枠組み・状況として出来てきてるのではあるのですが、別の問題だとなかなかそうはならずに、その場限りの問題提起や運動が仕掛け花火のように激しく火を吹き出しては消えていき、その後殆どの人たちから忘れられて行く。ということの繰り返しになっていったんですよね。ここを、全ての社会問題・全ての政治問題で、不利益を受けたり強い疑問や反感を持って反対したりしてる人達は、乗り越えていかないと駄目なんですよね。

一本の、激しくも強い川だけで某かを変えようというのは、最低でも今の日本の政治システムや社会システムでは無理になってきてる。何本もの緩やかな流れと激しい流れが交じり合い、交じらない何本かの流れとなっていき、交じらない同士が潰し合うのは相手に害をなしたときくらいにしておこう。と言うモデルで、「太く長く」物事を改善したり悪くさせないように、それなりに権力を持ってる人たちに圧力と対話と力の後ろ盾をこちら側から出せるように構築していくことでしか、この国は根本から変わらないかのような、複雑怪奇な末期的症状に陥ってるのですから。

さて、横道にそれすぎました。「権威主義」の弊害に関しては、稿を変えます。