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声の大きな人達だけに、社会を任せては、社会がダメになる。

 最近、「痴漢冤罪」と言う言葉が、多く言われるようになりました。痴漢行為をしたとして、逮捕されそうになった人が、線路に逃げ出すのが東京を中心に、平日は毎日・当たり前に起こるようになり、そして、死者が何人も出る状況になってしまっています。
 なぜ、彼らが逃げ出すかと言えば、逮捕されて同行を求められたら、自分の無罪を証明する方法がない。と言う形で、痴漢行為を罰する法律と言うか条例(迷惑防止条例)が出来ていて、その事によって、自分の無罪を主張し続けた人達が、長期間警察や拘置所に監禁され、裁判所でも、痴漢をしてないという証拠があるときでさえ、「有罪だから有罪」というような理屈で有罪が量産されていたのが、数年前まで痴漢事件の大半の結末だった事が、今になって非常に響いてるわけですね。
 弁護士の人達ですら、「逮捕されたら有罪は免れない」「逮捕されそうになったら、逃げるしかない」と何度も繰り返していて、その事が拡散された事で、線路に逃げ出す人が当たり前に出るようになってしまってる。

 ここで考えないといけないのは、痴漢事件に直接関わってる人達の問題ではなく、明らかに、「迷惑防止条例」と言う、痴漢行為を罰する条例が、余りに簡単に人を逮捕して処罰できる上に、冤罪だという証拠・やってないという証拠があっても有罪に誘導できてしまうような中身のまま、十五年近く放置されてきてる事だと思うんですよ。これを、なぜ、改めることが出来なかったのか。

「迷惑防止」という名目で、誰でもどこでも逮捕できる条例。

 「迷惑防止条例」は、国の刑法などで処罰が困難な行為・例えば痴漢や性器露出、声掛けや公の場で騒いだりするなどの行為を罰するために、00年代頭に、警察とフェミニズム運動が主導する形で、各都道府県に制定が行われた条例です。国の法律であれば、相当厳しい条文の審査があるのが、第二次安倍内閣になるまでは当然のことでしたから、簡単には逮捕や処罰が出来ないようになっていたでしょうが、条例となると、各都道府県の議会の条例審査は、非常に限られた場合を覗いて、殆ど、審査がされずに成立してしまう上に、地元住民の関心が地方政治に対しては非常に薄いから、条例が監視もされてないという、ある種のセキュリティホールのようなものがありますから、その事で、制定を後押しした警察官僚やフェミニズム団体にとって都合が良かったという側面があった訳です。

 制定を後押ししたフェミニズム運動の人達の考えとしては、「痴漢などは『魂の殺人』とも言える重い性暴力なのだから、軽犯罪法などの制約のある法律ではなく、制約が非常に薄い条例で、重い処罰を行うべきだ」と言うのが、あるようなんですね。そして、この人達やこの人達をオピニオンリーダとする人達は、今でも、痴漢の罰は被害者を考えると軽すぎるし、もっと簡単に逮捕できるようにしなければならない。と、運動を続けてます。

 その結果、多くの、都会に住んでいて都心などに毎日電車やバスで通勤している男性は、冤罪の恐怖に怯え続けてるわけですし、実際、多くの冤罪事件が、冤罪被害者の救済や名誉回復がされないままで、いつ冤罪が起こるかわからない状況に置かれてるわけです。

痴漢冤罪は、時の権力が政敵を排除するところから始まった?

 この条例の「威力」が最初に出たのは、慶應大学の植草一秀教授が、りそな銀行の国有化に伴う、財務省と政治家と暴力団による経済犯罪を解き明かし、告発をしようとした矢先に神奈川県警に痴漢行為で逮捕され、彼は無罪を訴えたものの有罪となり教授の職を失い、罰金刑で済みましたが、その二年弱後に、警察官が露骨に取り囲んでる状況で再び痴漢行為をやったとして現行犯逮捕され、彼は無罪をいい続けてきたにも拘わらず、有罪となり刑務所に追い出されたことだったと思います。

植草一秀 - Wikipedia

 

uekusak.cocolog-nifty.com

 

 要は、時の権力や政府の都合の悪いことを調べて回る人やそこに歯向かう人達を社会から抹殺するために、非常に簡単に迷惑防止条例が使われる。そのような目的に、迷惑防止条例が作られたことを疑わざるを得ないということだったわけです(※1)。この辺り、今まさに強行採決が迫っている、共謀罪(テロ等準備罪)の抱えてる問題と、非常ににています。

※1 ネオコンが最も勢力を強めていた、00年代頭のアメリカでも、FBIが政敵を排除するのに、性犯罪が有用だ。と内部で言っているのが報じられていましたが、それの日本版であるとも言えるでしょう。<

冤罪を産まないようにする改正の機運が出たものの、すぐに潰された。

 その後、「それでもボクはやっていない」と言う、周防正行監督の映画なども出来たことで、一瞬だけですが迷惑防止条例を冤罪ができにくいように改正しようという社会的機運が出てきたのですが、そこに対し、「性犯罪者の味方」「痴漢被害者の心情を考えろ」と、声高に、改正を求める人達の声や議論を潰して廻った人達がいました。
 それは、フェミニズム運動家や、そこに同調した人々でした。

 そして、改正を求める機運も、簡単に拘禁されたり有罪にされたりしないような努力を司法等に求める機運も、殆どなくなってしまった状態で、つい最近まで来ました。
  「有罪だから有罪」と言う判決が相次ぎ、長期間拘禁されることが「人質司法」と非難されるのが長く続いた事で、この一二年は、冤罪を作らないようにする努力が、主に裁判所の側で行われ始めるようになりましたが、しかし、全てが遅かった。

 冤罪を起こさないような改正を求める人達が押さえつけられ・あたかも大悪人であるかのようにレッテルを貼られ続けた事で、痴漢行為という一つの違法行為であるとはいえ、警察も裁判所も、そして鉄道会社も、全く信用されなくなってしまい、「自力救済」要は、法律を宛てにしないで、他の法律に違反してでも冤罪から免れるのが当たり前という状態に、陥ってる訳です。

「正義」を掲げる故に人を押しのける、声の大きな人達を乗り越えないといけない。

 この事から、非常に大きな教訓が出てくると思うのです。

 「声の大きな人達」は、彼女ら彼らの善意や正義に基づいて、声を大きくしている場合もあるのですが、しかし、そういう人達によって、それ以外の多くの人たちの利益が大きく損なわれることを、いかなる理由であっても許してはならないし、彼女ら彼らの言い分は一定認めた上で、それ以外にも正義や利益・人権というものがあるのだから、如何にして落とし所を作っていくか。と言う考えや姿勢をブレさせるべきではないといいことです。
そして、自分たちに反する意見の人達や正義や利益に反する人達をむやみやたらに「悪」「悪の味方」などとして非難し続けることで、自分たちの言い分を殆どそのまま通して、社会を動かそうとする人達に動かされてはならないし、そのような人達をありがたがって同調する人々に対しては、状況によっては「たたかう」必要があるということ。

 それらを上手い事やっていかないと、この社会は容易に崩壊するし、それが今まで全くできなかったが故に、痴漢という問題だけではなく、多くの無用なはずの対立やつぶしあい・憎み合いが普通のようにあり、この社会は崩壊してしまってる訳です。

 そこを、きちんと乗り越えるより、崩壊の先にある社会を人が生きる社会には、できないと思うのです。