声の大きな人達だけに、社会を任せては、社会がダメになる。

 最近、「痴漢冤罪」と言う言葉が、多く言われるようになりました。痴漢行為をしたとして、逮捕されそうになった人が、線路に逃げ出すのが東京を中心に、平日は毎日・当たり前に起こるようになり、そして、死者が何人も出る状況になってしまっています。
 なぜ、彼らが逃げ出すかと言えば、逮捕されて同行を求められたら、自分の無罪を証明する方法がない。と言う形で、痴漢行為を罰する法律と言うか条例(迷惑防止条例)が出来ていて、その事によって、自分の無罪を主張し続けた人達が、長期間警察や拘置所に監禁され、裁判所でも、痴漢をしてないという証拠があるときでさえ、「有罪だから有罪」というような理屈で有罪が量産されていたのが、数年前まで痴漢事件の大半の結末だった事が、今になって非常に響いてるわけですね。
 弁護士の人達ですら、「逮捕されたら有罪は免れない」「逮捕されそうになったら、逃げるしかない」と何度も繰り返していて、その事が拡散された事で、線路に逃げ出す人が当たり前に出るようになってしまってる。

 ここで考えないといけないのは、痴漢事件に直接関わってる人達の問題ではなく、明らかに、「迷惑防止条例」と言う、痴漢行為を罰する条例が、余りに簡単に人を逮捕して処罰できる上に、冤罪だという証拠・やってないという証拠があっても有罪に誘導できてしまうような中身のまま、十五年近く放置されてきてる事だと思うんですよ。これを、なぜ、改めることが出来なかったのか。

「迷惑防止」という名目で、誰でもどこでも逮捕できる条例。

 「迷惑防止条例」は、国の刑法などで処罰が困難な行為・例えば痴漢や性器露出、声掛けや公の場で騒いだりするなどの行為を罰するために、00年代頭に、警察とフェミニズム運動が主導する形で、各都道府県に制定が行われた条例です。国の法律であれば、相当厳しい条文の審査があるのが、第二次安倍内閣になるまでは当然のことでしたから、簡単には逮捕や処罰が出来ないようになっていたでしょうが、条例となると、各都道府県の議会の条例審査は、非常に限られた場合を覗いて、殆ど、審査がされずに成立してしまう上に、地元住民の関心が地方政治に対しては非常に薄いから、条例が監視もされてないという、ある種のセキュリティホールのようなものがありますから、その事で、制定を後押しした警察官僚やフェミニズム団体にとって都合が良かったという側面があった訳です。

 制定を後押ししたフェミニズム運動の人達の考えとしては、「痴漢などは『魂の殺人』とも言える重い性暴力なのだから、軽犯罪法などの制約のある法律ではなく、制約が非常に薄い条例で、重い処罰を行うべきだ」と言うのが、あるようなんですね。そして、この人達やこの人達をオピニオンリーダとする人達は、今でも、痴漢の罰は被害者を考えると軽すぎるし、もっと簡単に逮捕できるようにしなければならない。と、運動を続けてます。

 その結果、多くの、都会に住んでいて都心などに毎日電車やバスで通勤している男性は、冤罪の恐怖に怯え続けてるわけですし、実際、多くの冤罪事件が、冤罪被害者の救済や名誉回復がされないままで、いつ冤罪が起こるかわからない状況に置かれてるわけです。

痴漢冤罪は、時の権力が政敵を排除するところから始まった?

 この条例の「威力」が最初に出たのは、慶應大学の植草一秀教授が、りそな銀行の国有化に伴う、財務省と政治家と暴力団による経済犯罪を解き明かし、告発をしようとした矢先に神奈川県警に痴漢行為で逮捕され、彼は無罪を訴えたものの有罪となり教授の職を失い、罰金刑で済みましたが、その二年弱後に、警察官が露骨に取り囲んでる状況で再び痴漢行為をやったとして現行犯逮捕され、彼は無罪をいい続けてきたにも拘わらず、有罪となり刑務所に追い出されたことだったと思います。

植草一秀 - Wikipedia

 

uekusak.cocolog-nifty.com

 

 要は、時の権力や政府の都合の悪いことを調べて回る人やそこに歯向かう人達を社会から抹殺するために、非常に簡単に迷惑防止条例が使われる。そのような目的に、迷惑防止条例が作られたことを疑わざるを得ないということだったわけです(※1)。この辺り、今まさに強行採決が迫っている、共謀罪(テロ等準備罪)の抱えてる問題と、非常ににています。

※1 ネオコンが最も勢力を強めていた、00年代頭のアメリカでも、FBIが政敵を排除するのに、性犯罪が有用だ。と内部で言っているのが報じられていましたが、それの日本版であるとも言えるでしょう。<

冤罪を産まないようにする改正の機運が出たものの、すぐに潰された。

 その後、「それでもボクはやっていない」と言う、周防正行監督の映画なども出来たことで、一瞬だけですが迷惑防止条例を冤罪ができにくいように改正しようという社会的機運が出てきたのですが、そこに対し、「性犯罪者の味方」「痴漢被害者の心情を考えろ」と、声高に、改正を求める人達の声や議論を潰して廻った人達がいました。
 それは、フェミニズム運動家や、そこに同調した人々でした。

 そして、改正を求める機運も、簡単に拘禁されたり有罪にされたりしないような努力を司法等に求める機運も、殆どなくなってしまった状態で、つい最近まで来ました。
  「有罪だから有罪」と言う判決が相次ぎ、長期間拘禁されることが「人質司法」と非難されるのが長く続いた事で、この一二年は、冤罪を作らないようにする努力が、主に裁判所の側で行われ始めるようになりましたが、しかし、全てが遅かった。

 冤罪を起こさないような改正を求める人達が押さえつけられ・あたかも大悪人であるかのようにレッテルを貼られ続けた事で、痴漢行為という一つの違法行為であるとはいえ、警察も裁判所も、そして鉄道会社も、全く信用されなくなってしまい、「自力救済」要は、法律を宛てにしないで、他の法律に違反してでも冤罪から免れるのが当たり前という状態に、陥ってる訳です。

「正義」を掲げる故に人を押しのける、声の大きな人達を乗り越えないといけない。

 この事から、非常に大きな教訓が出てくると思うのです。

 「声の大きな人達」は、彼女ら彼らの善意や正義に基づいて、声を大きくしている場合もあるのですが、しかし、そういう人達によって、それ以外の多くの人たちの利益が大きく損なわれることを、いかなる理由であっても許してはならないし、彼女ら彼らの言い分は一定認めた上で、それ以外にも正義や利益・人権というものがあるのだから、如何にして落とし所を作っていくか。と言う考えや姿勢をブレさせるべきではないといいことです。
そして、自分たちに反する意見の人達や正義や利益に反する人達をむやみやたらに「悪」「悪の味方」などとして非難し続けることで、自分たちの言い分を殆どそのまま通して、社会を動かそうとする人達に動かされてはならないし、そのような人達をありがたがって同調する人々に対しては、状況によっては「たたかう」必要があるということ。

 それらを上手い事やっていかないと、この社会は容易に崩壊するし、それが今まで全くできなかったが故に、痴漢という問題だけではなく、多くの無用なはずの対立やつぶしあい・憎み合いが普通のようにあり、この社会は崩壊してしまってる訳です。

 そこを、きちんと乗り越えるより、崩壊の先にある社会を人が生きる社会には、できないと思うのです。

福島の山火事騒動から考える、共謀罪と今の日本の風潮との合わせ技での危険性。

間が非常に空いてしまいました。扁桃腺の腫れと一緒の感染症も、もうそろそろ決着が付きそうです。

 共謀罪という法律の審議で、毎日国会が紛糾・ぐちゃぐちゃになっています。何がなんでも通したい与党の自民・公明と維新や法務省などの偉いお役人たちは、大臣なども含めていい加減すぎる答弁や、質問に全く答えないで長々と関係ない話を言って時間を潰し、来週にも30時間ちょっとの「審議」が出来たから、無理やり衆議院本会議を通してしまおうと、虎視眈々と「予定表」をマスコミに出してくる。
 今回はそのことではなく、本日(5/12)に、民進党枝野幸男議員の質問について書かれた、三宅雪子衆院議員のTwitterの記述が、ちょっと引っかかったので、そこから入っていこうと思います。

https://twitter.com/miyake_yukiko35/status/862955173265547266
枝野さんの質問。ネット民にかなり関係することが。
風説の流布』が対象犯罪なので、成立したら(させたくありませんが)、デマ、そしてデマと疑われるものの流布(公衆の伝播)の共謀(ここがよくわからない)はだめになります。とか。
この法案、本当に意味不明です。18日に衆で採決?恐ろしい。

 これ、要は、「国やお役所などが『デマ』だと考えることを広めたり・拡散したりすることは、共謀罪の取り調べや取り締まりの対象にしましょう」ということの一環で書かれてる条文である訳ですよ。

風説の流布 - Wikipedia



風説の流布」だけではなく、デモや騒動を起こすことにつながる可能性のあるすべてが取り締まられる危険。

風説の流布」自体は、例えば株価を操作する場合などに限られていますが、企業の不正行為の内部告発や、不正な取引の告発自体が「風説の流布」と疑われ、ネットの言論なんかを見ても、内部告発の類に対して、いとも簡単に「風説の流布だからやめろ」と言う反応が帰ってくることがかなりあるんですよね。
 そして、その他の共謀罪の対象犯罪を見ていくと、「騒乱罪」「偽計業務妨害」などもあったりするんですよね。要は、国であったり地方自治体であったり大企業であったりに対して、都合の悪い「デマ」が流れた場合に、その情報を拡散したりしたり議論した人たちに対して、いつでも取り調べや処罰が行えるように仕掛けがされている。

共謀罪は民主主義を殺す 組織的業務妨害共謀罪の恐怖: 街の弁護士日記 SINCE1992at名古屋

 

www.asahi.com

福島第一原発近辺での、山火事のこと。

 6年前に大事故を起こした福島第一原発の近辺の山林で、最近、山火事がありました。山林ですから、当然、除染は不十分で、原発事故で放出された、汚染物質の多くが、降り積もったり吹き込んできたりしたままになっている。そういう所で山火事が起こるというのは、極端に珍しい話ではなく、1986年のチェルノブィリ原発事故の後、周囲数十キロの範囲が基本的に立入禁止になったので、このような山火事が今までに何度も起こっていて、そのうちの何度かの大火事は、火事によって吹き上げられた汚染物質が広い範囲に拡散し、立ち入り禁止区域の外側の都市部でも強い放射能汚染が再び起こる事が懸念される事態にになったりもしていた訳ですよ。
 今回の山火事は結構規模が大きく、実際、鎮火まで一週間以上かかる結果になってますから、山火事の初期から、広範囲に大きな汚染が広がるのではないか。東京などの都市部でも、少なからぬ影響が出るのではないか。と言う、懸念の声が起こった訳ですよ。問題の山林がどの程度汚染物質が溜まってるのかもわかってない状況で、過去にウクライナベラルーシではそれなりに重大な問題になってるのですから、日本で起こる可能性を警告するのは、ある意味理にかなってる。
ところが、この国の、多くの言論人や「科学者」などは、一斉に、この懸念の声や警告を、「デマ」「非科学的」「嘘つき」と叩き出したわけですよ。このような懸念があることを取り上げた紀伊民報紙がバッシングされて記事撤回に追い込まれただけではなく、このような懸念や「非難すべき」と言う言葉に対し、えげつないまでのバッシングが、GWの連休期間中に展開され、一部の新聞すら、そのバッシングに乗っかった。
浪江町の森林火災で放射能汚染拡大を告げるデマ | スラド



 確かに、公と言うか国が設置させたモニタリングポストの数値は上がらないでいましたが、5月6日前後から、山火事近辺で人が住んでいる場所での放射線や空気中の放射能の測定をしている場所での汚染数値が急激に上がった訳です。
https://mainichi.jp/articles/20170510/ddl/k07/040/020000c


 バッシングをした人達は、この誤りを認めないどころか、色々な言い訳を連ねて、開き直り、事実を認めようとしていない。

国が「デマ」だと言えば、事実でも共謀罪の対象にされる危険。

 さて、脈略もなしにこの話を取り上げたのではなく、これが、共謀罪に当てはめたらどうなるか。と言う事を考える必要があるのではないかと思ったのです。
 共謀罪では、色々な形で政府などが認めない物事を広めることに対して、いつでも捜査や取り締まりが出来るようになっているわけですよ。例えば、放射能汚染や原子炉の爆発があったから逃げないとダメだとか、汚染の責任を取らせるためにデモをしよう。となって、それを警察などが認めなければ、刑法などに違反してる・風説の流布だ・騒乱目的で流言飛語を流した。などとして、調査したり、警察に連行したり出来るように、今までの政府やお役人の答弁を踏まえても、そういう風なよちがガバガバなくらいにある。

 そうなると、山火事で汚染されたものがばらまかれるから避難しろとか換気を気をつけろなんて書くことも、共謀罪の対象にされてしまう。原子炉が爆発したとか、原子炉が臨界暴走してると、諸々のデータから解析し、避難や自衛を求めても、国などが「デマだ」と言い張れば、規制や逮捕の対象になる。

 関わったみんなが、議論したみんなが、逮捕や取調べされる必要はないのですね。ごく一部の、それも、今までデモにも全く言ってなかったような人を何人か逮捕し、組織犯罪や組織的なデマ拡散の類に関わってるかのようにして、腰縄付けられた状態でテレビカメラに晒して、住所も氏名も職業も大々的に報道させて、何ヶ月間か牢屋にいれておけばいい。そうすれば、逮捕された人の社会生命は完全に終わりますし、そうなると、大半の普通の人達は「自分もこうされたくない」と言う事で、議論も情報共有も逃げるようになる。
 政府や大企業などの都合のいい話以外は、全く出回らなくなるような世の中というのを作れますし、そういう「逮捕実績」が積み重なると、警察の公安的な部署に対する予算や人員も一気に増やされるから、そうなれば、街の立ち話や気に入らない相手に対するウソの密告で、色々言いがかりを付けてだれでも逮捕できてしまう体制が出来てしまうことになる。

児童ポルノ・買春禁止法」「淫行条例」での悪循環が、あらゆる問題に広がる悪夢。

 これは別に妄言でもなく、すでに「児童ポルノ・買春禁止法」や「淫行」に関する法律・条例違反で行われていることです。児ポ法に至っては、大半の検挙者が、自分の裸などの写真を撮ったり送ったり・公開したことによる「作成罪」になっていて、つまりは、18未満の若い人たちが主にこの犯罪で逮捕などされていて、それを使い「児童ポルノ被害が急増してる」と警察が大声で言って、関連する予算を多く取り付けたり民間に対して検閲を強めるように要求がされていると言う、一種の悪循環が成立しちゃってるんですよね。

 そういう事が、他の多くのことでも起こってしまうというのが、共謀罪なんですよね。
 それこそ、津波が来たとか原発が爆発したとか、そこまで行かなくても、自分の測ってる放射能の数値が急激に上がったとか、そういう話でも、起こってしまう。

 今回は、恐怖を煽るような話をしてしまいましたが、しかし、今必要なのは、「野党四党に対して、徹底的に国会を止めて、法律の成立を押さえ込んで欲しい」と相手の仕事の邪魔にならない形や、相手の手伝いのついでに、要望を届けていくこととか、街角で意思表示をささやかにでもやっていき、幾らかでも議論を拡げていくことだと思うのです。

施行から七〇年目の「憲法の日」だけど、戦後蔑ろにされ続けてきた今の憲法の事を少し。

 私はこの時期になると決まって扁桃腺を腫らして熱も出て塗炭の苦しみを味わうことになるのですが、皆様は、お元気でしょうか。


 と、私信から入って恐縮でしたが、最近の流れに関して色々と書かないといけないとは思いつつも、これを書いた次の日は、日本国憲法が施行されてからの、記念すべき70年めの記念日に当たるのもあって、私なりに、幾らか憲法を絡めて書いていこうと思います。

 憲法と言うと、どうしても9条(戦争の禁止)が話題になりやすく、その次に話題になるのは21条(表現の自由・検閲の禁止)であったり,最近だと24条(家族生活での個人の尊重と両性の平等)が挙げられることが多いですが、もう少し別の条文について、注目してみたいと思います。

十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条 - Wikipedia



憲法九条無視問題よりも、ずっと深刻な、憲法十三条無視問題。

 今の日本、果たして個人が個人として尊重されるということが、きちんと行われてるでしょうか?学校でのいじめ問題や体罰問題は、なかなか改善が見られなくなり、最近だと部活動の強制・特に体育系の部活動で、休日がほとんどない状態で教師も生徒も駆り出されている上に、部活動の指導にしてもその道のプロではなく教師が手弁当でやってるから、きちんとした指導も出来ずにいて、しかも、昔から続いてる「体育会系の序列」は、根強く残されてる。と言う辺りからくる、人間関係の歪みや生徒と教師どちらも疲れ切ってしまってるという事の問題点が、話題になったりしてますね。
更には、前々からここで取り上げてる「管理教育」の問題で、生徒の髪の毛の質や色を学校が規制して、元々の髪の毛が色が薄かったり縮れていたりするのを証明する書類を提出させられるなどという学校が、半分以上であったという調査結果が報道されもしました。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル


 組体操の事故の被害者が未だ少なくなく毎年出ているのに、やめるという決断をしないことなんかも含めて考えていくと、この国の、学校教育には、全く、「全て国民は、個人として尊重される」と言う精神が備わってないとしか言いようがないんですよね。

 教師個人の努力でそこにあらがって、生徒を個人として尊重している人が少なからず現場にいるのはわかるのですが、しかし、そういう教師たちよりも、上の立てた、「生徒を個人ではなく、管理可能な家畜のようにしてしめつける」ような政策や教育方針を、そのまま実行し、進んで生徒の心を折って従順にしていくような人が出世するのは、相変わらずのようですし、教育現場の「憲法」「人権」というものに対する見る眼のなさ・著しく軽蔑するような扱い方が、結局は、子供の頃から人権などを信用させないで、個人のエゴと集団の「空気」に文句を言わずに従い・絶えきれなくなったら逃げることも許さないで、結局自殺するしか選択肢を与えないかのような、「人間」を、大量生産する結果に繋がってるんだと思うんですよね。

人として産まれたはずなのに、なぜ、日本の人は、人としてではなく家畜であるかのように育てられるの

 これは、度々書いてるように、1970年代の後半・ひょっとしたら1960年代の終わりくらいから、教育と労働に関する政策を徹底的に変えていくことで、「物を言わないで黙って働く国民」を作るということに、国が…政府も右派政治家も、財界人たちも…、膨大な資源を投入していった結果なんですよね。

 中曽根教育臨調やその前のからの、内申書と受験競争をベースにした管理教育なんかもそうですし、

 国鉄分割民営化や「連合」結成・総評解体に代表される、労働運動の徹底的な切り崩し(会社や財界に従順な御用組合以外を徹底的に潰していった)、

 会社法や労働法の改悪で、雇用の不安定化を図っていったこと。

 これらは全て、個人を人として尊重するものではなく、物言わぬ家畜・もしくは、物を言わずに死ぬまで働く奴隷としてみなすように、教育を先頭にしてやっていった事だと、私は思います。

 その結果、日本はどうなったかと言えば、就職氷河期の人達は、まともな職につくチャンスすら奪われ続けていますし、その後の世代の人達にしても、非常に安い給料で、毎日終電近くまでサービス残業させられるのも当たり前・会社がツイッターフェースブックをチェックして、会社によっては、趣味でやってる同人活動のような物までギチギチに管理しようとしてくる。それでいて、給料があがるかといわば、逆に下がったりする。
 そして、消費税は増やされ、スーパーで買う食料品の分量が減らされ、しかも、今度は、減らされたままで値上げまで始めるようになってきてるし、そもそも、年金や健保の取り立てが厳しくなりすぎて、可処分所得が下がる一方。

 要は、マルクス経済学が指摘していた意味での、「正しい意味での」、「搾取」が、どうしょうもないくらい広い範囲で行われている上に、人々の多くは社会から個人として尊重されずに、「強い人」の言い分を認めるだけしか生き方を教えられなかったので、誰も声を上げないし、だれも現状に抗う気力すら失いつつある。と言う状況は、どう考えても、憲法十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」とは正反対の状況な訳ですよ。

五〇年先、一〇〇年先の為にも、私達を個人として尊重する社会に作り直す、覚悟。

 いくつもの悪意が、今の憲法をボロボロに骨抜きにするために、最低でもこの四十年間ほどを使ってやってきて、人々から力を奪った。
 しかし、国は、色々と綻び、子供も産まれなくなり、お金も廻らなくなり、崩壊するより最早道が見えなくなってる。

 そのような状況だからこそ、私達は、すこしでも、「尊重される個人」のありようを取り戻していかないといけないんですよ。それも、社会や会社にとって利用価値があるから尊重されるのではなく、社会や会社が、自分たち「個人」をもっと尊重しろ。尊重しないのなら、「個人」は今の社会や会社を見捨てて、自分たちが尊重できるような社会や会社に作り直す。と言う、結構な覚悟が必要かもしれないような、社会の総入れ替え・総建て直しを、やっていくことこそが、私達が生き残り・後の世代が生き残るだけではなく、後の世代が人間らしく個人として尊重されるようになることで、後の世代やそのまた後の世代が増えていく、50年先・100年先には衰退を免れ、もう一度栄える準備を始められるような社会や国へと作り直す第一歩だと、私は思うのです。

「豊洲市場反対はゼロリスク信仰だ」と言う言葉にある、気味の悪さ。

 東京都の築地市場を、豊洲に移転するしないで揉めてる件、「豊洲移転に反対する人はゼロリスク信仰だ」という言葉で非難する人が増えているような気がします。しかし、豊洲市場の土地の空気からはシアン系のガスや水銀のような、食品を汚染する可能性の高いガスが出ていて、築地は基本的には土壌の汚染にとどまってるという事が、その手の話からはすっぽり抜けてるんですよね。要は、表面的な数字の多い少ないやらにこだわって、豊洲市場の環境にも、使い勝手の悪さにも、実は議論をやってない。
science.srad.jp

 この背景には、もちろん、豊洲に移転しないと責任を問われる人達が水面下で動いてPA(パブリック・アセプタンス)的なことを、著名人や学者・雑誌などに行っていることに、多くの人が乗っかってしまってるということがあるのでしょうし、それはろくでもない人の手のひらの上で転がされてるという意味で、余りによろしくないとは思うのですが、もう少し考えていくと、科学を永遠に変わらない「真理」として捉えてる人達の絶望的な多さが見えてくるように思えてならないのです。

科学は永久普遍の真理ではないはずなのだが…。

 科学というものは、ニュートンの法則みたいに非常に長い間使われてきて変わらないでいいと判断されてるものはともかく(でも、相対性理論などが出てきてるので不動というわけでもない)、殆どの物事は、後から出た研究で正反対になったりする可能性があるし、更には、色々な利害の関わる問題に関しては、多くの資金が動き・その資金の為に、事実でないことが真理とされたり、事実の一部だけ抜き出して真理扱いしたり、決定的な事実が存在するのに見てみぬふりされたりすることが、結構あるわけですよ。
 例えば、福島第一原発の事故で起こった、深刻な放射能汚染を「除染できたから深刻ではない」と言い張ったり、放射能汚染の健康被害は大したことはない。と言う大前提のために、甲状腺がんの手術数を、国がごまかしていたり。と言うのは、原子力発電を推進してきた人達が、「それでも原子力しかないんだ」と言う世論を固めるためだけではなく、自分たちがやってきたこと・原発を推進し、原発に必要な安全措置をケチったままで運転を認めたりなどしてきた事の責任や、その結果起こった事故での健康被害の責任を逃れる為にやられていることだと思うのです。

「カネで買われた科学」を乗り越えていく必要性。

 豊洲市場に話を戻しましょう。豊洲市場には、非常に不明瞭であやしいお金の動きが沢山あったし、そもそも石原元都知事と一部の都庁官僚が、色々反対論をねじ伏せて強引に決定したという経緯があった訳です。豊洲市場の設計や運営体制には、ゴールドマン・サックスの系列企業が深く関わっていて、市場の利用者は完全に蚊帳の外の状態で、どんどんと建設が進められた訳ですよ。
 大手の会社しか使えないような高額な利用料も設定され、中小零細業者は非常に不利な扱いを受けることが予定されていた。
 最初の頃から、建設予定地はガス工場の跡地ということで、土壌も地下水も汚染されてるからやめるべきという反対運動があったわけです。でも、「決める政治」を半ば掲げていた、石原氏や猪瀬氏は、これを強引に推し進めたし、マスコミもそれに乗っかり続けてきた。バックに、森喜朗元総理がいたという話も、最近出てきましたね。

 結局、非常に大きなお金が・それも、その土地や建物や施設の価値とは大きくかけ離れたお金が、この件では動いているし、それを(元々あった批判を無視して)強引に進めてきた人達からすれば、使えなければ逮捕されて刑務所に送られかねない訳です。ここまで来たら、死なばもろとも、何がなんでも豊洲に完全移転させるしかない。
 そういう、思惑の存在を抜きにして、「科学的なふりをする」ことの中で、「ゼロリスク信仰だ」と言う、非常に乱暴な話が一部の「著名人」から始まり、どんどんネットにも広がり、みんながそれを信じ込み始めてる訳ですよ。

 私達は、このように、著名人と言う存在に対して、物事の判断を預けすぎてるように思うのです。その結果、科学は著しく金に左右されるようになるし、ものによっては生存を脅かされるようなものを安全であると勘違いさせられてしまうし、人々が街に出て・ストライキもちゃんとやって、大統領の首を飛ばした韓国よりも、日本のほうが優れた民主主義だというふざけた話を信じ込んでしまう。
 そして、それらは、この国を壊して私腹を肥やしたり悪いことをした責任を取らずに逃げ延びてる人達を、どんどんのさばらせる結果になってる。


 これが、この国の崩壊の根本にあることだと思うのです。


 日本国内以外の意見もきちんと調べ、色々な見解に触れ、自分の力で考えて、結論を出しつつ、議論していく。と言うくらい、厳しいことをしないと、ここからは回復できないのではないかとすら思うのですが、しかし、この国が崩壊するということは避けようがない状況ですから、回復することを嫌でもやらないと、私達は生きることすらできなくなるのではないか。そういうふうに、最近、思うのです。

「政治が就職活動に不利」と言う社会風潮が、森友疑獄や東芝破綻などの社会の崩壊を招いてる。

最近、こんな記事が出て、一部で話題になってます。
ちょっと長くなりますが、一部引用します。

政治アカのフォローは就活に不利。 都議選候補予定者が若者の解説に「そりゃ政治離れするよ」


政治アカウントをフォローすると就職活動に不利になる。

こんな若者の意見を聞いたと紹介するツイートが話題になっている。投稿したのは、2016年の都議選補選(大田区)に無所属で立候補した写真家の溝口晃一さんだ。
(中略)

 

——「政治的な意見を表明することが就活に悪影響になる」問題についてどうお考えですか?

私も経営者でしたから、多少の「色が付いている」は理解しますが、デモに出て捕まって社名まで出てしまうような行為をしそうな人なら、遠慮するでしょう。

今は、JCや商工会などの小規模商業者の集まりでも自民党推しをするか、無関心を装うかしないと、どこでどう取引に関わることで理不尽な目に合うかわからないから、と警戒しているように見えます。

中小零細企業は、景気が悪くなってからの一強の政治になって、定期的に仕事のあるところは「官」であることから、取引上の上流に「官」の影がある事業なら、非政権側にいるとは思われたくないと思うのが当然ですし、そのような従業員を抱えていると思われたくないのも理解します。

なんとなく監視されている社会のようで、出来うる限りの不安要素は取り除きたいというのが、透けて見えます。

代議士選挙が中選挙区制度の頃は、同じ自民党でも違う候補を推しても「同じ自民だから」と許されている面があって、おおっぴらに支持を表明していた人もいたように思いますが、今は、どちらかしかないので、表明には覚悟がいるのではないでしょうか。

 

 
 基本的に、「若い人たち」の政治への関わり方が、政治を全て拒否しないと就職に非常に不利になるから、今の状況に問題があっても関わらない。という事について、溝口氏が色々な切り口からインタビューに答えてるのですが、これは、状況として深刻だと思うと同時に、実のところ、私が若かった30年ほど前も、余り変わらなかったなと思うのです。多くの人間が政治への不満や不安を表明していても、表面上無関心を装わないと、就職だけではなく日常生活でも不都合を強いられる。と居う漠然とした怖れを抱えていたのを、私はいろいろな人と話していく中で耳にすることが多かったと記憶しています。

「保身から来る政治嫌い」は、30年前から続いてる。

 それは、実は、社会のありようや政治の動きに対して何らかの異議を唱えたり文句を言ったりして、あまつさえデモなどする人を、小さな芽であっても見逃さずに警察の暴力で排除すると同時に、公安警察などを使い・就職でも「まともな会社」から排除させていって、総じて社会からも排除していく・表通りからは無色化して、社会の底辺に追いやっていく。という、高度経済成長後期の流れがあってのことだったし、そこには、度々このブログで書いている、管理教育の過激化や集団重視の教育というものもセットにされていった事だと、私は思っています。
 しかし、その事は、私は「排除される側」に近かったからこそ書けていたことだと思いますが、非常に危ういものを感じていた訳ですし、そして、その危機感は表明し続けてきましたが、「妄想」「考えすぎ」などと嘲笑されるよりなかった訳です。その位、1990年代当時の人々の意識と言うのは、1995年の地下鉄サリン事件を経てもなお。どころか経たらなおさら、その傾向が強くなるくらいには、表通りにいる人々は「天下泰平」を享受し、その裏側にある、一部の人達の悪意のようなものを見えないまま・又は見てみぬふりしていた訳ですよ。
 その、長年の積み重ねの結果として、「政治に関心を持つことや表明することは就職の大きなリスクだから一切やらない」という若い人たちが非常に多くなり、「忙しいしわからないから、選挙にも行かないし関心も持たない」と言うことに代表される、「政治に関心を持たないことこそが社会的に正しい」と言う風潮だと思うのです。そして、それを半ばデザインした人々やそこに乗ることで巨万の富や権力を握ってる人々は、「悪意」の積み重ねの成果だ。とばかりに、日本の経済も人々の生活も、喰い荒らして、それが長くは続けられないのを予感してるのか、特定秘密保護法で都合の悪い証拠を見られないようにし、共謀罪で、国民の大半をギチギチに締め付けたり脅しをかけたりしようとし始めてる。



人々から政治を引き剥がしたことで、犯罪やり放題になった一部の人々。

 更には、政治を社会から引き剥がし、特権にしてしまったことで、一部の人達がやりたい放題出来て、犯罪も一部の人達は無制限に近くなってるわけですよ。普通の人々が、喰うに困るなりしてやむなくした数百円の万引きですら、テレビのニュースで曝されるし運が悪ければネットで袋叩きにされて、その後の更生なんか知ったことか。とされるのに、偉い人達の子息は集団強姦や強盗や殺人をしても色々理由を付けられて不起訴になったり、起訴されてももっともらしい理由で無罪にされる。
 森友疑獄にしても、自衛隊の日報問題にせよ、国会に出てきた役人が、あからさまなウソの答弁を続け、都合が悪くなると答弁拒否していて、それは与党の偉い人たちを「忖度」したものだと言われているけど、誰も、その責任を取ろうとしないし、責任を取らせようという世論の盛り上がりもあまりない。
 東芝の破綻問題にせよ、数日前に浮上した日本郵政の巨額損失にせよ、高給官僚の集団が特定の企業人と結託して巨額の損失を起こすような経営判断を現場の反対を無視して押し付け、そこにまつわるキックバックなんかを、多分タックスヘイブンの裏口座に入れた上で、いざ問題が表に出始めた頃には逃げて、誰も責任を取れとは言えなくなってる。

「地上の楽園」と「この世の生き地獄」。

 そういう、社会の崩壊。というのと、「普通の人たちが政治を拒否する」と言うのは、私は密接な関係があると思うのです。
 身近なこと・不満な事を変えろという声が、普通の人たちから出ず・政治や社会の動きに影響が及ぼせず、そこから出る不都合は、専ら末端の・「下の」人達が甘んじて受ける。ということは、上の方に行けた人達や親の代から上の方の人達にとっては、非常に都合がいいわけですよ。自分の思い通りに殆どのことを動かせて、しかもそれが失敗しても刑務所に入ることもなければ、財産を没収されることも、破産して首を吊るよりなくなることもないし、そういう心配なんかしないでも、「下」の人達にそういう責任を押し付けて取らせ再起不能にし、自分は適当に「みそぎ」しておけばやり直しがいくらでも効くわけですから。「上」の人達にとっては、こんな「地上の楽園」はない。ひょっとしたら、北朝鮮以上の楽園なのではないかと思います。

 しかし、それでは、もう、たくさんのことが立ち行かなくなってるし、このままでは滅んだ後も更に滅ぶよりないいのだと言うことを、私達こそがきちんと正面から見ていくよりないと思うのです。自分でおそるおそるでも出来る範囲からでも、政治に対して意見を表明したり、何らかの形で関わって行かないと、上の人達は、この世の生き地獄である日本をより生き地獄にするだけだし、最後には何もかもうまく行かなくなって海外に逃げるかもしれない。
 社会を私達のために変えられるのは、「上」の人達ではなく、水戸黄門でもなく、私達のみである。と言う事を、覚悟していくよりないと思うのです。

「政治を持ち込むな」と叫ぶ人々が、正反対の政治的意見を同じ場で言う、ダブルスタンダード。

 Facebookに、「きのこ部」という、きのこについての色々を取り上げる、写真中心のコミュニティがあります。
https://www.facebook.com/groups/287379671368261/

 ここで、4月17日(月)に、「共謀罪について、法務大臣が『きのこや山菜を取りに行くのも監視や処罰の対象になりうる』と答弁していたが、私達も処罰されるんだろうか」旨、不安を表明するために記事へのリンクを掲示した人がいました。
https://www.facebook.com/groups/287379671368261/permalink/1106154922824061/

 ところが、「趣味のコミュニティに政治を持ち込むな」という、声の大きな人達がその書き込みに非難のコメントを連ね始め、それに対して「現実的な問題ではないか』と自重を求める人達も出たんですが、政治を持ち込むな。政治を持ち込むやつは排除すべき。という合唱が起こり始めました。
 しかし、その合唱をした人達は、同じスレッドで野党はダメだとか、左翼を排除するために監視しないといけないとか言う事を書いてる訳ですよ。

 この、二重基準ダブルスタンダードダブスタ)が広くまかり通ってしまってることについて、少し考えてみようと思います。

ダブルスタンダードは、冷戦崩壊の頃から拡がっている?

 こういう、政治的に特定の方向の意見を持っていて、それに反する意見を排除したり貶めたりするために、「☓☓に政治を持ち込むな」と言うのは、日本でインターネットが一般化し始めた2000年代の初頭・大体2003年あたりには、既にネットでかなり猛威を振るっていたと思います。もう少し遡ると、政治家が日の丸君が代の強制であったり歴史教科書に対して都合の悪い記述を削除させたことであったりに対して反対する人達・特にその意思表示を国旗国歌の強制の場や教科書選定の場で行う人に対して、「政治を教育に持ち込むな」と恫喝も入った感じの強い調子で、TV等で非難するというのがあったと思います。
 要は、最初に、自称「保守」の右派政治家がそういう事を言い出し、それを、ネットの人達・大体は後に自民党ネットサポーターズに参加してるような人たちによって、四六時中声高に言われ・些細な書き込みも監視し見つけ次第袋叩きにしていくような形で行われていったことが、最低でも冷戦崩壊以降に関しては、根本にあったのだと思うのです。



1970年代から急激に悪くなった、日本社会の風通し。

 日本の社会というのは、何度か書いていますが、「場の空気」を握った人たちが言う事を、議論をさせないようにして呑み込ませて、それによって呑み込んだ個人に降りかかる不都合は、もっぱら呑み込んだ人が背負うことになり、「場の空気」を握って結論を押し付けた人達は、それが起こしたことの結果責任を一切取らないどころか出世したり財産を増やしたりしてしまうという、非常におかしな構造で固まっています。
 これは、私は、繰り返しになるけど、遅くとも1970年代以降の学校教育がそのような「道徳観」を校則や体罰・諸々の班行動などの形で身体感覚として刷り込んでいったことと、問題のある道徳観をや1980年代の「中曽根構造改革」が社会の構造を劇的に悪い方向に変えてしまったことの、大きな成果であったと思うわけです。
 私達は、確かに風通しが悪いどころか全然風が通らない社会に置かれているけど、それは大昔からそうだったと言うよりも、戦争に負けて多少経ってから1970年代の半ばくらいまでは風通しが結構あったのに、それを拙いと思った人たちによって、風通しのない社会位にされてしまってるし、風通しがないから、皆が窮屈だと思っても、それを変えるにはどうすればいいのかすらわからなくなってる。
 そういうなかで「☓☓に政治を持ち込むな」と、スシポリス並に重箱の隅をつついて、今の政治や社会の有り様や自分たちの行く先に対して不安や不満を述べる人たちを非難し・言葉を言わせないようにする人達が、それとは正反対の政治的意見を何ら恥じずに同じ場で言ってしまうということが、認められてしまってるんだと思うんですよ。



「負の成功体験」を振り回して場の空気を握ろうとする人達を乗り越えるために。

 彼らからすれば、その場の空気を握って、気に入らない意見や人物を黙らせ・叩き潰せるという「負の成功体験」をたくさん抱えてもいるわけですから。
 こういう事を長年認めてしまってるから、社会が破滅し始めてるわけで、風通しを良くするためには、「水戸黄門」を待っていたんではダメで、問題を感じた人達が自分の意見をきちんと言うようにしないとダメで、それは、その意見を気に入らない人からは「電波」「妄想」「陰謀論」という、非常に悪い言われ方・レッテル貼りをされてしまう場合が非常に多いのだけど、それでも、言うことは言うし、それと一緒に、なんでそう考えるのかということを,なるべく論理的に・もしくは丁寧に言ってくしかないと、私は思うのです。

今ある右派勢力の主流派ではなく、小池百合子頼みでもない、「新しい保守」「新しい右派」を作る覚悟が、ありますよね?

今回、非常に長くなりました。
最近、「オタク系Twitter」でよく見られる、言説の一部の問題を書いた上で、そのような事を書いたりしている人たちに対して、檄文を書く形になっています。
 但し、「野党がなんで評価されないのか」ということの一つの状況への洞察を、1.〜2.で書きましたので、気が向きましたらそこだけでもお読みいただけますとありがたいとおもいます。

 色々な方面で、「野党が頼りない」「森友学園加計学園の疑獄の問題なんかやらずに、法律を審議しろ」と言う声が、相変わらず出ているどころか、いくらかの人達の中では言葉の激しさが増し続け、そこに釣られて同意する人も出始めています。例えば、漫画等の表現規制に反対する立場でやってきた人達の中で、そのような論調に乗って野党四党への批判を展開して、与党に取り入ってる文化人のやり方しかない、山田太郎参院議員は自民党からでも出るしかない。みたいな言葉で、人々を煽ってる人達がいたりするわけですよ。これは、なんでそれが起こったのか考えると、非常に深刻な事だと思うのです。

1.与党が多すぎて太鼓持ち政党までいるとこうなっちゃう、見世物小屋化してる国会。

 今の国会の状況では、与党と一部の野党(維新の党や日本のこころなど)がいれば、何でも出来てしまうんですよ。野党が議場に入って何かを言っても、全て与党に都合のいい言葉だけがつまみ食いされ、与党や内閣の答弁は物凄くいい加減で野党の質問に答える気もないし、与党が中身を増しにするために何かやるかと言えば、総理大臣におべっかを使う訳のわからない話を長々と質疑の場でやったりまでしてる。
そういう背景があって、今、たてつづけに、非常に拙い法律が出されてきたり、出されて殆ど質疑もなしに法律になったりしてるんですよ。民法の改悪とか、介護保険の利用者負担率を30%にはね上げるとか、種子法を廃止して、日本固有の種を誰も管理しなくて良くして外国の・それも毎回種を買わされるだけではなく、色々な制約や罰金がセットにされてる、モンサントのような巨大アグリビジネスが日本の農業を牛耳れるようにしようとしたりとか、すべてそういう構図で出てきていたり、既に成立させられたりしてるんですよ。

 そういう中で、そこに反対する人やその代表者たちが議会で出来るのは、「一日でも一時間でも長く、議会を止めて、可能ならば解散総選挙に追いやって法案審議を次の国会まで先延ばしにする」。これが精一杯の足止めなんですよ。
 今の内閣のように、元々の法律を出す意図がムチャクチャだったり、特定の人達の利益や利害・イデオロギーを満足させることだけで法案を作り、それで大きな損害を受ける人達や生存に関わるような危険を感じさせられてる人達を、徹底的に無視するような中身を、強引に出して強引に可決させてしまうような人達に対して、そうでない人達が議会で抗うには、この六年ほどの選挙の結果は、余りに冷酷なのです。そして、その理由が「棄権の多さ」であったことは、誰もが正面から受け止め、選挙に行かなかったり選挙に行かせられなかった責任を持って、次はもっと前向きにやっていくようにしましょう。と思うのです。

2.「漫画表現規制」をめぐる、反対する人々の言葉から、「野党不信」の背景を考察してみる。

 今の、少なからぬ人達から野党が批判されてる理由のなかには、実は、「フィクションへの表現規制」を誰がどのように考えてどう動いたか。と言う問題に関しての、憤慨や齟齬・危機感というものが色濃くあるんですよね。
 要は、野党四党は「左翼」と近いから、フェミニズムに理解を示している。「まなざし村」などと呼ばれてる、過激な中でも(言葉が)過激なフェミニスト達は、これから書く歴史的経緯のこともあって、専ら表現規制を自分の快・不快になぞらえて(これは、日本の主流派フェミニストの伝統的なスタイルでもありますが)表現規制を求めるだけではなく、「オタク」と呼ばれる階層や男性全体に対して、ヘイトスピーチどころかヘイトクライムをも示唆してくるような言葉を、日々吐き出していて、「左翼」の側からは、それを諌めたり運動の現場や理論誌の誌上から排除することも、一向にやられない。と言うような不信感があるんですよね。

 その中で、今の野党四党が過去に表現規制を止める上で大きな受け皿となったことを無視し、野党は表現規制派と繋がってるから信頼できない。与党議員とロビイングしてくれる赤松健先生や参院選で29万票取って落選した後に総理官邸に招かれた山田太郎先生のようにやるしか、表現規制派防げないんだ。と吹き上がる人々が出始めていたところに、先月書いたように、森友疑獄追究をしている野党四党の動きをディスるためにPA(パブリック・アセプタンス)が展開されていって、そのPAに「吹き上がる人々」が取り込まれてしまってるんですよ。
 これは非常にまずいなぁ。と思うんですよ。表現規制を止めて、規制を緩和させていくやり方は、一つじゃなくてたくさんあり、そのやり方にはクリエイティブなものもあればいいし、いくつもの「流派」が並行してないと潰されるし、それらが何本かの大きな川になってお互い潰し合わないように気をつけるのが大事だと、思うのですね。



3.「漫画の表現規制」「アニメやゲームの表現規制」等々の近現代史

 歴史をご存じない人達に簡単に説明しておきます。
 漫画などのフィクション作品をめぐる表現規制の歴史は、戦後ずっとせめぎ合ってきていて、そのバランスが90年代の頭に崩れだしていったんですよね。表現の規制を「わいせつ規制」とリンクさせて法制化を求める、「念法眞教」「キリストの幕屋」などの一部の宗教団体(これらの宗教は、軒並み、日本会議に参加してもいる)の動きがあり、その反対側では「性の商品化」批判や「性暴力撲滅」の文脈から、表現規制を求めたフェミニズム団体があった訳です。そして、このフェミニズム団体には、過去の経緯からキリスト教矯風会組んで、色々な動きをしてきました。
 そして、そのフェミニズム運動は、左翼の一部と歴史的に同じところ(成田空港建設反対闘争での熱田派)から出てきていて、その内部であった強姦事件やグループの対応の悪さから来たゴタゴタの影響でグループを抜け、熱田派が事実上(反対運動として)解体した後に「市民運動」を始めた人達と繋がっていって、
フェミニズム運動の側が「ポルノや性暴力を根絶するためには、他の人権を完全に制限すべき」「基本的人権は自分たちの目的の下にある」と言うキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンの「反ポルノフェミニズム」理論に強い影響を受けて、90年代頭の表現規制運動や性の商品化排除運動を邁進していったのですが、この人達と最初に出てきた「念法眞教」のような宗教団体、そして、治安と言うより道徳の為に性風俗全てを自分の手中で制御する「正しさ」に取り憑かれていた警察(の生活安全部中心の)官僚たちが、徐々に手を組んでいったんですよね。
 最初は運動の場で一緒に開催するとか、児童ポルノ問題に関する国際会議に参加し、「日本は世界最大の児童ポルノ大国」と言うウソを発表し、外圧を呼び込んだ上で児童ポルノ・買春禁止法(現在、若い人たちの性に関する人権を著しく攻撃してる法律ですね)を成立させた辺りでしたが、その中で、男女共同参画事業を利権化して、この三者の代表者が仲良く国や自治体の男女共同参画会議や青少年問題の審議会に参加し、奥平康弘先生のように基本的人権を侵害するなと言う人達を排除し、90年代末から今に至る、青少年の人権制限や盛り場に対する不条理すぎる規制を、フィクションへの表現規制とセットで方や条例に入れ込んでいってる訳です。
 今騒ぎになってる、アダルトビデオを巡っての相当強引な捜査・摘発や、アダルトビデオ制作者全般に対する「フェミニズム運動を中心にした」誹謗中傷は、彼女ら彼らの道徳観や野望の達成目標が増やされたことでもあるし、そこには、男女共同参画事業や青少年健全育成事業が、フェミニズム運動・警察・右派宗教の共同の利権権益となったことの延長線として、アダルトビデオ等の規制利権を彼らで独占して、性表現全般を骨抜きにしていく悪巧みも、含まれているでしょうね。

 そういう中で、彼らの動きを00年代に足止めしたのは、保坂展人(現世田谷区長)であり、枝野幸男であり、福島みずほであった訳です。今まで、ラジカルフェミニズム運動に引きずられてきていた左派系議員や中道系・左右のリベラル系議員を説得して回り、少なくない議員さんたちと問題を共有していって、結果、児童ポルノ・買春禁止法を策定した人々の頭にあった「徹底した治安重視で人権制限し放題のの管理社会」は、彼らの「仕事」によって、第二次安倍政権が出来た2012年までは、殆ど足止めを食らうことになっていった訳です。
勿論、左派議員の中でも、矯風会日本ユニセフ協会とつながりの深い人達は、彼らへの理解を半ば拒みましたが。



4.今ある右派勢力の主流派ではなく、小池百合子頼みでもない、「新しい保守」「新しい右派」を作る覚悟が、ありますよね?

 そういう歴史的経緯があるのを、眼の前で見続けることすら多かった私からすれば、今、ネットで廻ってる話も、論調も、あまりに乱暴すぎる形で「左派」「中道」「リベラル」というものを見下してるように思えてならないのです。
 見下している人達は、自分たちが支持してる「保守」「右派」政治家が、今の状況では飼い殺しか排除の対象にしかならないという現実を見て、与党の上位層を反表現規制で占める所まで、えげつない真似を繰り返してでも行うか、もしくは、そのような旧来の宗教も関わってる「保守」「右派」とは離れ、ある程度リベラリズム立憲主義を受け入れる「リベラル右派」とも言える流れを作る方に力を注ぐか、どちらかを決めろ。と支持してる政治家や右派・保守言論人たちに迫っていくことこそをやっていってほしいのだと、私は思うのです。
 左派は気に入らないのはわかりますが、左派を貶めて、その結果右派の議席が増えたとしても、貴方方の目標は達成されないどころか、今より目標が遠ざかるのが眼に見えてるのだから、きちんと、やるべきことが何か考え直してもらいたいと思うんですよ。