種子法改悪からの流れで考える、2018年以降の近未来の日本崩壊。

 さて、2018年となりました。私の身内に昨年不幸があったので、「新年のご挨拶」と言う形は差し控えさせていただきますが、散々な年末でした。母が晩秋に亡くなり、その後の後始末的なことをやっているのですが、そこら辺でそこそこ忙しかったことで身体が弱っていたのか、昨年最後の週に見事にA型インフルエンザが発病し…旧い友人たちと会うことも諦めざるを得なくなるし、未だにウィルスが居座って苦しみすら感じる状況です。
 皆様も、インフルエンザの予防や万が一かかった時の拡散防止には、本当に気をつけてくださいませ。

 昨年は、母が亡くなったことの告知を、「背に腹は変えられない」と載せた辺りから、一気にPVが増え始め、一年目で12,000以上という私が予想だにしないPVを頂き、その後、どうも「アルファツィッタラー」と少し前なら呼ばれていたような方がこのブログを紹介してくださったのかPVが更に急速に増えたりして、未だに慌てています。そんな注目を浴びるつもりもないで始めた物だったし、PVが増えたからもっとPVを取ろうとウケを取るのに走るなら、それは違うだろう。と言う気持ちが非常に強いので、まぁ、今年も前と変わらずに賛否両論溢れて当たり前の事を、マイペースで書いていこうと思います。

2017年を簡単に振り返る。

 世の中の流れとしての2017年を振り返ると、
「普通の人は法律を守らないといけないしその他はみだす・逸脱すると直ぐにネット等で非難が殺到する」
のに、
「偉い立場の人は法律は無視しても罰を受けないし、普通の人がやれないようなあくどいことをしてもやったもの勝ちだし、しかも、法律を自分たちに都合よく変えても罰を与えられない」
と言う構図が、物凄く露骨に出てきた一年だったと思うんですよ。

 世間の人たちは、やれ法律を守れだコンプライアンスを守れだ、ネットで晒されないようにしようだ、ギチギチに締め付けられて疲れ果ててるのに、偉い立場の人たちは八百長もし放題だし賄賂をもらったり法律を無視して国のカネを「おともだち」に沢山流したり、それでいて「カネが足りないから福祉や教育は無駄金扱いして減らします」と言っても、ろくに非難もされない。
 総理大臣のおべっかを書き連ねたり太鼓持ちやったりする人が、本業の立場を悪用して女の人を呼び出し仕事をやると話して酒を呑む場を作り、その場で睡眠薬だか何だか酒に入れて女の人をひっくり返してレイプして訴えられても、警察が逮捕しようとすれば止められるし、検察が起訴しようとすれば、検察お手盛りで不起訴を「合法的に」認めさせる。起訴しようとした人や逮捕しようとした人は、左遷されてしまってもいますね。
 共謀罪や一昨年の戦争法(安保法)、その前の特定秘密保護法に代表される少なくない法律も、「法律の上にある法律」である憲法を完全に無視してるし、批判も多かったし、法律が出来るプロセスの中に沢山の非合法なやり方が繰り返えされてるのに、作ったもの勝ちになってます。

種子法改悪がもたらす、2018〜2020年の食料崩壊。

 昨年末、本当に年の瀬に、「種子法改正に基づき、地方自治体がやってきた種苗の確保事業への国の補助を打ち切る」事が決まりました。

 要は、コシヒカリササニシキのような、元からあった種を都道府県などの農業試験所が改良して、農家の方に安く卸すことで、日本の農業は成り立ってきたのですが、そこに使われてきた税金を使わないようにします。後は、主に国内外の大手バイオ企業が作る「一回きりで、しかも外国で問題を沢山起こしてる」種を買って下さい。いままであった種の維持とかそういうのは、バイオ企業の邪魔だから国は助けません。とう言う感じですね。

 このことや、有害性が高いとされてるグリホサートの規制緩和・それも、土に残る濃さを400倍まで認めるとした「改正」が、12月25日に農水省から出された訳ですよ。

日本の崩壊は、最終段階に入った?

 専門的な方が解説をされてるでしょうから、専門的な話はそちらに任せますが、この事は、日本の崩壊が、私達が見えない所で最期の段階に入ったのだろうな。と思ってしまうことだったんですよね。
 既に、TPP条約を無理やり批准したり、オリンピックで何兆円もの予算を出しておきながら、現場の作業員にはお金がいかず、過労死も相次いでるし、何かにつけて専門家や学生を「ボランティア」と称してタダで非常に厳しい環境で働かせようとしてる。と言う辺りから露骨になりだしたのですが、
 今まで貯めてきた日本の富のようなものを、ごくごく一部の人たちが、法律に護られる形で奪い、タックスヘイブンなどに逃して、勝ち逃げを図ろうとし始めてるな。と思うわけですよ。

 少子化の問題や、「民営化」「規制緩和」でインフラがメチャクチャになったり労働者がひどい扱いを受け、それらが重なることで、国が滅びかねない。と言うことは、何十年も前から、主に左翼の人たちを中心に警告されていたことだった訳ですよ。
 しかし、バブル景気がすごかった1980年代やその幻想とも言える物が色濃く残っていた1990〜2000年代にかけては、「保守」を自称する・今まさに「勝ち逃げ」をはかってる人たちや代弁者達が「古臭い」「時代遅れ」「共産主義」などと大きな声で攻撃し、マスコミもこの手の警告を非常に小さな形でしか取り上げなくなり、「改革こそ素晴らしい(中身は見ていない)」「新自由主義こそ正しい、企業をもっと優先すべき」「苦しんでる末端の人たちの苦しみは、全て、甘えだ」と言う言葉を出す人をくりかえし重用して来ました。
 このことで、世論が非常におかしな方向に行き、既に問題があると皆がうっすら感じ始めても、なぜそう感じるかということが全くわからなくなり(だって、片方に偏った知識や情報しか、マスコミもネットの主流も見せなかったんだから、当たり前でしょう)、途方に暮れて今日を生きるに精一杯でいるしかなくなり、徹底的に問題を先送りし続けて来た訳です。

「やったもの勝ち」で勝ち逃げしようとしている、ごくわずかの人々。

 そして、「勝ち逃げしようとしている人たち」は、この問題の先送りが、自分の出世や保身のような利益に直結してきた人たちでもありますから、先送りや詐欺師の物言いを奨励してきた。

 その結果、日本には先がなくなってしまった訳ですが、この人たちは責任を取りたくないし、自分や家族の将来だけは安泰にしておきたいものですから、国富・国の富を徹底的に奪い取り、日本の金庫を空っぽにする事に力を注ぎ始めたのだと思います。アベノミクスなんかも、要は、そういう作業でしょう。
 それは、2011年の東日本大震災が大きな後押しをしましたが、実際にはもっと昔からだったと思います。
 何しろ、立場がありお金や資産も膨大に海外に逃してる人たちからすれば、彼らが権力を握ってるし法律も無視できる立場になってるのですから、海外に逃げることは非常に簡単に出来るわけで、日本がその後どうなろうが…それこそ、ソマリアルワンダのようになろうがどうしようが…関係ない訳ですよ。
 やれ「愛国」だ「美しい国」だ言った所で、その国を自分たちが支配できないなら人々を皆殺しにしても構わない。程度の「覚悟」は、第二次世界大戦での日本国内がどうであったかを考えれば・そして、「勝ち逃げする人々」がどのような家系を中心とするか考えれば、容易に想像がつくことですからね。

「国の富を持ち逃げするであろう人々」が壊した社会を建て直すために。

 私個人は、「このような無法者には、人々が、もっぱら無法で対抗するより、解決策はないのではないか」と言ういやな気持ちを相当持っている訳ですが、しかし、どちらにせよ、国富を空っぽにして逃げる人たちをキチンと処罰し、今までの責任を全て取らせる必要があるし、国富を戻していく為に、それこそ、憲法を無視してでも財産を没収し、今後百年以上は再起できないようにする必要性が出てくるでしょうね。
 それも又、「建て直し」の中で、私達一人ひとりが「そうは言うけど、本当はどうしていくべきか」真剣に考え・議論を深め、流れを作っていく必要に迫られると思いますし、そのような非常に厳しい決断を迫られ・社会に対する「問題の先送り」をやめていかないと生き残りようが無くなる状況も、もうすぐ・ひょっとしたら今年中には迫られることになるのだろうとは、私は思いますが。

いきなりの珍事?に、慌てふためくも、性風俗労働者の危機について考えてみる。

 いきなり、一日で4000PVを越える日が出てきたりして、大慌てしていました。どなたが紹介されたかわからないですが、ありがとうございます。そして、こんな「おかしな」ブログがあるということで、眼についた方、どうか、他の記事も時折読んでくださいませm(_ _)m

 さて、最近と言うか、昨日今日になってネットで盛り上がってる問題として「はあちゅう事件」と言うのがあります。電通に勤めてた女性が元の上司のセクハラ・パワハラを告発し、独立していた件の上司を辞職に追い込んだ…が、その女性も曰く付きの人で、過去の暴言や悪行が批判されて、カオス状態にある。と言う話ですが、今回はそれをやりません。やればPV稼げるのでしょうけど、既に、二人の方が私が頷けるような解説や文章を書いてるので、それを紹介するだけにしようと思います。
kyoumoe.hatenablog.com
www.byosoku100.com
追加:これも良く出来は論評なので:
cakes.mu

風俗営業に携わる人達が日々晒されてる「危険」。

 で、それと同時に微妙に話題になってる問題として、昨日大宮であった「風俗ビル」の火災で死者が四人出たという話がある訳です。これについての記事の中で、「風俗営業・特にソープやヘルスなどの売春やそれに準ずる行為が絡む業種では、店や建物が古くなっても、建て替えられないし設備の入れ替えられない場合がかなりある」と言うのがありまして、それを受けて、多分ソープランドで働いてる当事者の方だと思いますが、「建て替えられないし旧い設備を使わないといけなくて、危険な思いをしながら働き続けてるのを助けてほしい」というようなツイートをされた方がいたんですよ。

https://twitter.com/hatarakuossan_n/status/942390037118722048
ソープの建て替えを許可してください。
老朽化した建物とボイラーは危険です。
ソープなんかあるからいけないんだ、ではなくて。 ソープの需要はなくなりません。
ですから、安全に働ける場所を作らせてください。お願いします。

 なかなか、この手の話が話しにくいし、話す機会もなかなかみえないので、ついつい私ですら見落としがちになってしまうのですが、やっぱり、危険な状況で働くことを強要されてる・それも、経営者が悪徳だとかそういうことではなく、店にお金があっても、経営者がなんとかしたくても、法律の制限があってできなくなっている。と言う事がある訳ですよ。

風俗営業法」などの、悪しき法律。

 「風俗営業法」と言う法律があります。この法律は、ソープランドファッションヘルスなどの性的な労働を伴うものから、ラブホテル、そして、ダンスクラブやゲームセンターに至るまで、盛り場の・もう少しいうなら人間の下世話なんだろうけど欠かさずつきまとうことに対する商売全般を規制する法律な訳ですよ。
 その中で、ソープランドに限らずラブホテルなんかもそうなんですが、「盛り場の中でなおかつ、学校や公園から200メートル以上離れている場所にしか新設を認めないし、地元の同意も必要である」「公安委員会や保健所の認可なしに、設備の更新を認めない」などの、ガチガチの項目がある訳ですよ。
 これは、1980年代以降くりかえし強化されグレーゾーンがなくされていったと記憶していますが、その結果、特に、「性」にまつわる商売というものは、新しく立ち上げるのが物凄く困難になってるし、古くなって危険な設備を入れ替えたり、危険な建物を建て替えることも、事実上やれないように追い込まれてる自治体が、大半を占めるようになってるわけですよ。

「街をきれいにする」事が、実は人を切り捨て壊していった。

 それを後押ししたのは、日本で主流であるような類のフェミニズム運動であったり、そのバックにいるような宗教(キリスト教矯風会など)や、右派の宗教、そして、「性を全て綺麗にしないといけない」と突き進んでる一部の警察官僚ではあるのですが、その人達と組んで「道徳的」に振る舞う「一般市民」「町内会」というものが、物凄い厚みであった訳です。

 この人達が、出来レースと言うか殆ど八百長のようにして「街を浄化しないといけない」と警察や保守系の議員だけでなく左派の議員にもに「陳情」し、その他の人達の意見を入れさせないようにして、法律を変えさせたり、規制を強化したりしてきたという歴史があるのです。(これは、暴力団追放運動も同じ構図で、これも、非常に大きなマイナスを今の社会に及ぼしていますが、書くのは機会があれば。)

 この手の商売を利用する人の大半は、それ自体を後ろめたいと思わされてるから、なかなか意見を出せないですし、そもそも、そこで働く人達ときたら、もっと酷いと言うか低い扱いを社会全体から長年受け続けていて、自分たちの仕事にプライドがあるとか、それでしか喰えないのにどうしてくれるんだ。と言う、働く人として当然の言葉を出すことすら、えげつない攻撃と見下しの標的にされてきた訳です。

 この手の問題を取り上げると、必ず「彼女たちはかわいそうなんだ」「こんな酷い商売から救ってやらないと」と言うような声が出てきて、社会の中で声の大きな人たちは、そこになびいてしまいがちになります。

「かわいそう」と言う言葉や態度が、最大の侮辱となって傷つける事になる。

 しかし、そんな言葉こそ、彼女たちを最も侮辱する言葉だと思うのです。

 私自身、非常に若い頃、性風俗で働く人の権利を獲得しようとしていたり、女性の自立とは何だろうかと苦闘していた、当時の日本のフェミニスト全体から見たら非常に異質な「フェミニスト」の幸渕史氏と接点がありました。その方の運動に、何か参加したというのでもなく、別の事をやる場で、ウダウダと居座って、時折変なことを言って場の受けを獲ろうとしていただけではあるのですが、彼女の発言や主張、姿勢というものは、私のその後の物の見方や物に向き合う態度というものに、大きな影響を及ぼしています。
 彼女は、「運動ムラ」にとことん疲れたのか、「引退する」と言ってどこかへと去っていってしまい、その後接点がなくなったのですが。

 もう一つ、一見関係ないケースを書いておきましょう。

 1990年代なかばから後半。この頃、東京の新宿駅の地下街や駅の周りに、ひじょうに多くのホームレスが住み着いていて、その支援をやっていた人達とも、私は接点がありました。やはり、その人達のいる事務所で別のことをやってる人達とウダウダ話してるだけでしたが、後にノーベル平和賞を獲るICANの日本理事の川崎哲氏も参加していた、ホームレス支援団体がいました。
 その団体の人たちを通して私はホームレスの人たちを見ていたのですが、彼らにも物凄いプライドと、仲間と一緒にいたいという意識があり、それを、「街の浄化」を理由にした「ホームレス村」の強制立ち退き問題やその後の「保護」と称して、実際には晴海のハズレの埋立地にある狭いプレハブの収容所にぶち込んで後は面倒をろくに見ないような酷い事をやってた問題の中で、ずたずたに壊されていく、彼らのプライドや仲間のつながり、そういうものを、眼に耳にする機会がありました。

ホームレス問題と性風俗問題への「視線」に共通した、「意識高い人々」の病理。

 私、この二つに共通してる部分があると思っていて、「その人の行く末を勝手に決めたり、仕事や自分へのプライドや生活をぶち壊すことを、可哀そうだからやってやったんだ。的な言い方するのは、極めて失礼であって恥を知るべきだ」って事を、どちらにも感じるし、本題に戻すと、性的な風俗営業で仕事をしてる人に取って、「安全な職場で、危険を感じずに仕事をちゃんとやっていきたい」と言う気持ちが出てくる人が少なからずいるというのは当たり前のことなのに、それを、今までの社会運動なり「浄化」「きれいさ」を求める世論というのは、どれだけずたずたに踏みにじってきたんだろうか。と思うんですよ。

 そのような、ある意味傲慢な物の見方というのが、この社会を壊していった側面というのが、物凄くあると思ってます。

 今私たちが出来るのは、例えばソープランドで働く人が職場の危険さ・それも、法律があるから危険さが押し付けられてることに対して、嘆いたり「どうにかしてくれ」と嘆いてきたならば、声を上げてみてはどうか、署名を集めてみてはどうかなどと、彼女たちの背中を押す代わりに、私達一人ひとりが、やれる範囲でいいから最大限彼女たち・彼たちの「勇気」を支える姿を示すことなんじゃないかと思うんです。

 その事は、確実に、私達の中でも”そこ”にはいない人達の、仕事の有り様、生活の有り様に困った時に、声を上げることがいい方向に向かう、一つの道にもなるでしょうから。

短期的成果や「競争力」政策が招いた、日本の不正天国。

 やっと、天候が冬らしくなりましたね。何だか、最近は暑いのが長く続いたと思ったら、すぐに寒くなるので、体調も崩れがちになりますね。どうか、おだいじに。

企業も研究者も、不正がたくさんたくさん。

 さて、昨日・12月10日に、「追跡 東大研究不正 ~ゆらぐ科学立国ニッポン~」と言う番組が、NHK(地上波)で放送されました。
www6.nhk.or.jp

 内容をまとめてるサイトも出てるでしょうし、その内どこかに非公式にアップロードする人が出たり、NHKで再放送したりするだろうから見れる方は見てほしいのですが、幾らかの人が危惧して警告もしていたことが、完全と言ってもいいくらいに当たってしまった訳ですよ。
 あらゆる研究に対して短期的でなおかつ目立つような成果を求めると同時に、「競争原理」を要求して、研究費の配分やなんやを決めるようにした結果、大きな成果を出すために、論文や研究自体の不正行為が相次いでしまってる。
 予算配分では、世界的に有名な雑誌に載ることが大事にされて、研究の中身についてはあまり問われない状態になってるので、尚更、不正行為をしてでも目立とうとする研究室が相次いでしまってる。

 これは、今政府が進めている「文系の研究はいらないし、理系の基礎研究も絞っていかないとダメだ」と言う議論や政策とも重なってくる話なんですよね。
 すぐにお金になる研究と、「世界的に有名で権威のある」雑誌や研究者に認められるような研究以外は、直ぐにやめさせてしまえ。
 これが、番組中でも言われてますが、小泉政権以降の自民党政権霞が関の強い考えなわけですよ。

 予算配分を決めるのは、事実上財務省である。と言うのが、日本の予算制度の大きな問題な訳ですよ。そして財務省は、「取りやすいところから税金を獲る」「個別の予算はとにかく削るのが偉い」と言うポリシーで、最低でも小渕政権以降の20年間ほどやってきました。
 これは学術研究に限らず、例えば、生活保護を無理やり削減し、その事で色々な貧困者向けの助成制度や支援制度が酷いことになって、(生活保護を受けてない人も含めた)貧困な人の貧困が悪化してる。というのも、この財務省の有り様が、非常に大きく影響してると言っていいでしょう。

 そして、この25年以上、民間企業も、人を削るのが偉い。直ぐにカネにならない研究をしてる奴は排除しろ、カネになる研究が出来たら、それは二束三文で会社が独占して研究者から奪ってしまえ。と言う事でやってきましたし、今の(第二次以降の)安倍政権は、その事を法律の面でバックアップしてきた訳ですよ。例えば、会社員の研究者が行った成果の特許を、企業が独占できるように法律を変えたりとか。

 その事が何をもたらしたか。まさに、このような不正が当たり前になってしまった事と同時に、技術のある技術者や研究者が会社にいられなくされ、外国に流出し、彼らは高額の給料と破格の待遇で外国企業に雇われ、技術指導をしたり研究をして、日本企業を越える製品を作って市場を奪っていった。
 それだけでなく、日本企業自体が風通しが悪くなり、根本にある力も衰え・不正が当たり前になって、タカタのように一個の事故で破産する会社まで少なからず出るようになってしまった。

中国の事を軽視し、日本の問題を無視してきたネット世論がもたらした、いまの日本。

 少し、話を変えます。
 2001年位に「先行者」と言う、中国のロボット研究の基礎部分に当たる試作ロボットが、日本のネットで話題になりました。
 「中華キャノン」などと言って、「中国はこんなにしょぼいものしか出来ないんだ」「こんなものを作らずAIBOを作る日本の技術は素晴らしい」。
 そんな感じの事が非常に広く言われていました。
 当時、私は、出来たばかりのスラッシュドット日本(今のスラド)で、
 ・中国をバカにすべきではない。
 ・中国の兵器開発の状況や工業の裾野の広さを見ていても、中国の科学技術にかける力の入れようを考えても、10年〜15年位で日本は追い越される。
 ・日本で技術者のリストラや新規採用を絞って、技術者が韓国などに流出するのを止めない限り、日本は世界全体から完全に置いていかれる。
 こんな感じのことを書いたんですよ。未だ、小泉政権の「研究者いじめ」が始まったか始まらないかの頃に。

 ネットの反応は…
 「妄想」「そんなわけがない」「き○がいの戯言だ」。
 まぁ、こんな物ばかりでしたよ。他のところにも書いたけど、反応は似たようなものかもっとひどかった。

衰退を食いとどめるためにすべきことを皆が考えよう。

 それ見たことか。などと言っても何も始まらないから言いませんが、ミクロばかり見ていることが正しくて素晴らしい。と言う社会風潮や、予算配分のありようだけではなく、私達自身の視点や視野の狭さというものを、今の状況であるから尚更見直していかないといけないと思うんですよ。
 そして、目の前の成果ばかり大事にして、数十年かけてじわじわと効いてくるようなとりくみや、直接お金には繋がらないけどお金につながる事の行き過ぎへの歯止めになったり、その事が本当にいいことなのかどうか考える機会を与えてくれるような、文系的な研究も含めて、きちんと「それがあるべきだし、お金もちゃんと出さないといけない」っていう風に、私達自身がきちんと考えを持っていかないといけないように思うんですよ。

 マスコミにせよマスコミをいいように「操って」る一部の官僚や政治家や企業にせよ、目先のお金と自分たちの金儲けや天下り先の事ばかりで、その後世の中がおかしくなったとしても責任を取らないし、責任を取らないで済むように、この70年間を使って制度や法律をいじくり倒してきたのですから。

 ここを、変えさせる必要もあると思うのです。
 それをするには、水戸黄門を待望していたのでは、無理だろうな。水戸黄門として出てくる人は、皆「向こう側」なんだし…などとも、思うのですね。

子宮頸がんワクチン推進の世論に見る、強い危うさと象徴されてる社会の崩壊。

 このブログも、どうにか一周年を迎えました。
 このようなお硬いブログなのに、12150程のPVをいただきました。ありがとうございます。
 今後も、どうかお付き合いくださいませ。

「ジョン・マドックス賞」なる胡散臭い賞から始まった、嫌な流れ。

 さて、子宮頸がんワクチン問題というのが、あります。
 これは、子宮頸がんのワクチンを主に若い女性に対して使用したのはいいのですが、一部の人達が激痛を訴えたり激しい痙攣や知能の後退などの症状を見せるようになり、このワクチンは2012年に公費補助が入った物ですから、その「薬害」(厳密には違いますが)の問題がよりヒートアップしてしまってるという、医学というより科学の倫理に関係する話なのですが。

 その中で、「これら副反応・薬害は、ない」「症状を訴えてる人は精神的な問題を抱えていたから症状を起こしてるんだ」というような、原因に対するきちんとした研究が進んでない状況なのにきっぱり断言することで「人気」を集めてる、医療ジャーナリストを名乗る、村中瑠子と言うペンネームの方がいて、その方は、ワクチンの被害を受けた方の家族や支援されてる方からすれば余りに乱暴で怒りを持って当たり前の記事をWedge誌などに度々掲載していて、その事が、少なくない人から賞賛されてる一方、同じくらいの人達からは非難轟々になってる訳ですよ。

 その事で、「ネイチャー」誌が創設したとされている(実際には違うのではないか。と言う話もありますが調べきれてない)ジョン・マドックス賞を村中氏が受賞したことで、問題が再燃し、ワクチンの義務化に反対する人たちが、「頭のおかしい人・狂人」的な言われ方を再びされ始めてる訳です。

 この賞が出来て五年しか経ってない上に今まで受賞してきてる人が非常に胡散臭い主張をしてきたり、利益相反行為・要はお金をもらったり仕事をしている企業や団体に有利な発言を行ったことで社会的に批判されていたような人達だらけだというのが、大問題としてありますが、それ以上に、賞がどうこうはともかく、賞を村中氏が受賞したことで、最低でもネットの世論が「被害を訴えてる人は嘘つきか頭のおかしい人だから無視して構わない」的な方向に向かっているのを見ていて、胃が痛くなってきてるわけですね。

科学から倫理や科学哲学がなくされてしまった、現代日本。

 科学には、倫理的問題や慎重にすべき事柄というのがある訳ですよ。
 ある科学技術や薬品・商品で被害者が出たとして、それが全体の中からすればごく僅かだから見なくていい。無視して構わない。ましてや、そのような人は「社会の敵」だからうそつき呼ばわりしたりその技術・商品が原因だと言うのを黙らせないといけない。

 こういう「世論」というのは、村中氏の主張に限らず、多くの薬害や公害の被害者に、何度もくりかえし投げられてきてるわけです。いまだの、原子力産業の被害者や被曝を「保守的に」考えてる人達に対しても投げられていますね。例えば、「放射脳」とかそういう感じで。

 水俣病にせよ、イタイイタイ病にせよ、公害病の多くは、精神病扱いされたり伝染病扱いされたりしてきていて、その中で、「実はこの工場の排水が原因ではないか」と言う話が出てきても、それに対して、一部のジャーナリストがひどい誹謗中傷を浴びせ・狂人扱いすらして封じ込めようとして、それを社会全体で信じてきたけど、結局、原因が”そこ”にあるんだとわかり、汚染を取り除くための努力が何年も経ってから始められるということが、普通にあった訳ですよ。

 7年ほど前の福島第一原発の事故にしても、同じような過程を辿っていて、いくつもの被害があっても、それは「気のせい」「放射能が原因ではない」「過剰診療だからたくさん出てきただけだ」などの、大暴論がはびこってる訳ですよ。過去の事故…ウィンズケール核再処理施設の事故やチェルノブィリ原発の事故、秘密都市であったマヤークで度々起こってる核災害など…の被害に対して正直に向き合って出てきた研究成果や「わからなかったこと」との、連続性なんか全く無視して、希望的観測のようなもので話を継ぎ接ぎしたりしてますね。

 そして、子宮頸がんワクチンの被害にまつわるエピソードも、そういう経過を辿り始めてる。

 そういう、危なさに対して、多くの人が「科学の進歩なんだから被害を受けたなんて言うな」「被害を受けたのはあなたの精神的なもので、あなたは精神病者だ」と言う主張にうなづき・それを広め、被害を受けた人の側に立った人達や、被害を危惧する人達を、自分から進んで攻撃してる始末な訳です。
 そこには、被害者の側に立つことが多い「リベラル」「左翼」への感情的反感も見受けられますが。

科学にとっての倫理と、それがない事の結末は。

 科学というより、科学技術の成果であるもの、例えば原子力やワクチンと言うのは、非常に影響範囲が広くて、何か問題を起こした時に、ものすごい数の人や社会を破滅に追い込みかねないという、本質的な問題がある訳ですよ。
 その部分で、科学に携わる人達には、本当ならば「この研究を進めた場合、人や社会を破滅することはないのか・環境汚染を拡げてしまわないか」などの、比較的高い倫理観が求められないといけないはずなんですよ。

 何しろ、自分が関わった研究で、その研究の中身によっては数十万人の人を死に追いやったり廃人に追い込んだり、果ては遺伝的な意味で根絶やしに追い込みかねない訳で。

一歩踏みとどまり、周りを見渡し慎重に考えていくこと。

 その事から考えると、今回の子宮頸がんワクチンにせよ原子力にせよ、「一歩踏みとどまるか、場合によってはやめてしまうべきではないか」ということも、求められてるはずなんですよ。
 しかし、そのような考え方というのは、お金儲けをしている側からすれば非常に都合が悪い。そして、そのような物は古臭くて有害だから、もっと、科学技術を進歩させて、そこで起きた問題なんか見てみぬふりしてしまえばいい。と言う人達が、マスコミでも学界でも持て囃されてきた訳ですよ。

 その言葉の裏には、そこで、何らかの被害を受けた人たちは、うそつきか詐欺師か狂人だから、無視してしまいましょう。と言う物が潜んでいたりすることも、実は多い感じが、私には見えます。

 そこに、多くの人々が同調してしまってる。と言うのが、実は、この日本社会の崩壊を加速させたし、又、崩壊していることの象徴なんだろうな。とすら、私は思うのです。
 きちんと踏みとどまり、周りを見渡して考えるという作業が、余りに笑われることになってしまいました。そして、踏みとどまる人々・学者やジャーナリストなどは、全て愚か者でバカで嘘つきだから信頼するな。と言うことすら、隠さずに言う人が少なからず出てしまってる訳です。

 こんなことをしていたら、どんどんと社会は小さくなっていくんだと思いますし、そこを乗り越えない限りは、この社会が再び栄えることなどないのではないか…そんなことを薄っすらと考えたりも、しています。

「北原みのり・香山リカ対談本」問題から、当事者不在の社会/政治運動について考えてみる。

 母の死に伴う葬儀を、先々週末に行うことができました。20名弱ほどのご参列を頂きました。本当にありがとうございます。
 まだまだ、残された事をやっていかないといけないので、法的な関係だけでも多分一年くらいはかかってしまいそうですが、葬儀の後エネルギーが完全に抜け落ちたのもある程度溜まり直してますので、少し書いてみましょう。

又、フェミニズム運動と反差別運動(のそれぞれ主流派)がやり玉に挙げられてる。

 この数年間、ネット上で特にホットな問題として、「(主に男性の)オタクの文化と、フェミニズム運動や反差別運動を筆頭にする左派リベラルの対立」と言うのがあって、それ自体は度々書いてきたと思います。
で、又、そのような話が噴き出し始めたわけですよ。
togetter.com
 「フェミニスト」であり、最近PAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)の理事となった北原みのり氏と、反差別運動にのめり込んで、別の方向に対する差別発言をくりかえし問題になってきた香山リカ氏の対談本が、その事実誤認の酷さや差別的な発言のオンパレードで、問題になり始めてるのです。
 これ、非常に困った話で、さんざん指摘されてる中では「反差別や人権を主張してる人達が、自分たちの都合で『敵』を決め、罵詈雑言や差別に満ちた言葉をぶつけるだけでなく、隙きあらば法制度の形でその差別を合法化しようとしてる」ということに対して、そのスケープゴートに長年上げられることが多かった、主に男性の「オタク」が苦言を呈したり怒りを表明するのに対して、更に逆ギレしたり、自分たちの差別的な部分を正当化することをくりかえして揉めてる。ということの一エピソードなんですよね。
 巷では、なんで今の時期にこのような事を「蒸し返す」ような本を出したのか不可解だ。と言う話もあるんですが、私には非常に単純に見えてるんですよ。

1960年代以降の、左翼の迷走の歴史から、この批判の根本を考えてみる。

 「批判が相次いだり自分たちのやり方と違う形で目的を達成しようとする組織が出てくるような組織や運動体は、組織や運動体の内側を締め付けて、『新しい運動』に人が流れたり、自分たちの運動から人が離れないようにするために、『敵』を増やすと同時に、『敵』をムダすぎるくらいにあざ笑ったり罵ったりする」

 こういう歴史が、日本に限らず世界の多くの政治運動や社会運動には起こってきてるわけですよ。
 「運動」に限らず、内部分裂をした宗教組織や、オウム的な意味での大犯罪をやって追い詰められたカルトなんかも、そういう形で締め付けることが結構あるのです。

 一つ例を挙げましょう。 
 1960年代、日本の反安保闘争を担ってきた新左翼の人たちは、主導権争いや運動路線の違いなどで、分裂に分裂を重ねていきました。この分裂が決定的になったのは、1970年代半ば以降の成田空港反対闘争での、現場の農民の態度の違いに対して「だれにつくか」で分裂した辺りなんですが、その前に、革共同革命的共産主義者同盟)と言う新左翼組織は、路線の違いなどで複数に分列した訳です。
 例えば、中核派革マル派など。

 その一つ、革マル派が、「解放」と言う機関紙を発行していて、一部はネットでも見れるはずですが、その革マル派は、中核派に限らず他の新左翼組織や日本共産党(今国会に議席が有る共産党)に対して、機関紙や活動家の発言の中で、繰り返し罵倒していた訳ですよ。
 中核派に対して「ウジ虫」と言ったり、動労千葉に対して「うどん屋の駄馬」と言ったり、解放派に対して「青虫」と言ったり、政治党派に属さず左翼運動に参加してきたノンセクトと呼ばれてた人たちに対して「ゴキブリ」と言ったり。
 それら、他の組織の主要人物に対する、目を背けたくなるような罵倒やおちょくりも普通にあったし、何より、新年号には見開きでマンガ絵巻が載っていて、その絵巻は、最近は非常におとなしくなりましたが、昔は、他の左翼党派や運動家を、非常にバカにして道化にし、自分たちこそが正しいのだと主張するものでした。

 このようなことにならないようにするには、運動組織の内部の道徳的な意識の共有とか、新しく入ってきた人たちに対する教育をきちんとやって引き継いでいかないといかんともしがたい所が、あったりするのですよ。

フェミニズム」が、当事者である女性自身のプライドを折ってるという、おかしな状態。

 さて、本題に戻りましょう。
 最近の、日本で主流派と主張するフェミニズム運動の人たちは、長年、「男性は男性であるだけで性暴力の加害者である」「わたしたち女が性暴力と思うものは、絵や写真であっても性暴力だ」と言う世界認識を深めていったと同時に、「女性とは唯一の性暴力の被害者であり、男性と違う弱者なんだ」と言う論理を、一緒に深めてきた訳です。

 そして、今の女性の多くが困ってる問題として、「(コンドームなどでの)避妊に失敗したときの緊急避妊薬の値段が高すぎて、しかも、薬局で買えずに医者に行かないといけないから、危険を覚悟して予め個人輸入するか、避妊に失敗したら諦めるかしないといけないように追い込まれてる」と言う話があるわけですよ。
 この問題は、一部のフェミニストが、「薬を外国並みに安くしろ」「薬局で簡単に買えるように指定しろ」と、やってきてはいましたが、しかし、こともあろうに、大多数のフェミニストたちは「性暴力を許すことになる」などの理由で、それを潰そうとしてきて、実際、政治や右翼的な宗教や警察とのパイプを確保してる人たちなどが動いて潰してる訳ですよ。
togetter.com
ascii.jp
 日本のフェミニズムの中で、「女性にも自分で自分の行き先を決めるプライドを保証しろ」「フーゾクなどで働く人たちを、差別するな。デスクワークなどと同じ、仕事をするプロとして尊重しろ。」などということを言ってきた人は、最低でもこの35年間に関しては、非常に少なかったのです。おかしな話に聞こえますが、それが、現実なのです。

おかしな状態を乗り越えようとして「ネオ・リブ」を名乗り始めた人々。

 大半の人は、「かわいそうな被害者としての女性」「許せない加害者としての男性」と言う、非常に旧く・そもそもそんなに単純化出来ないような構図を持ち続け、その事で、夫(連れ合いと言ってますね)に対する暴力を正当化する人まで運動家には少なからずいたし、法制度の中でもそのような条文や運用をするように、行政に入ったり、政治家や警察に働きかけてやってきました。
 それは、今「保守」を自称してるような右寄りすぎの政治家や、彼らのバックにいる宗教勢力、国民をとことん縛って自由を奪うことが治安のために必要だと考えてるような警察の一部にいる人たちにとって、非常に相性が良かったので、この手のフェミニズムが、日本では、非常に政治力を持ち、発言力を持ち続けてきました。

 しかし、その事で日本社会は疲弊しました。
 多くの男性は、痴漢冤罪に限らず色々なことに怯えざるを得ない所に追い込まれ、女性も、疑心暗鬼を拡げてしまい、そもそも、個人を個人として尊重する事を徹底的にぶち壊す教育を長年やってきたのですから、人・特に異性と繋がったりすることよりも、生涯孤独であるほうがいいのだ。と、ある部分では人生を諦める人もたくさん出始めてしまってる。
 そして、女性が自分で自分の行く先を決めたくても、男性から圧力を受けるだけではなく、女性・特に「進歩的な」女性からの圧力や彼女らが決めた法制度に阻まれ、自分の行く先を自分で決めるのを諦めることすら、当たり前の光景になってしまってます。

 そのような中で、「男性オタクとフェミニズムの対立」「オタクと反差別運動の対立」(このことはまた後日)と言う問題が、特にこの数年表面に出て盛り上がってる訳ですよ。
 その中での、フェミニズム運動家やフェミニズム学者達の発言や行動に対して、「フェミニズムとは、女性が自分のことを自分自身で決めることではないか?」と言う考えでやってきた人達が、フェミニズムやめます。ネオリブって名乗るようにします」と、今年の半ば辺りから表の場でいい出した訳ですよ。
togetter.com

「ネオリブ」への人の流出を押さえたい、フェミニズム運動の人々。

 そして、その主張の論理的な真っ当さや、今までのフェミニズム運動の姿勢的なことへの反感から、多くの「オタク」が支持するだけではなく、フェミニズム運動に関わってきた人達の中からも、「フェミニズムをやめてネオリブになる」って人がちらほらと出始めてる訳です。
 それへの危機感は、多くのフェミニズム運動家や学者たちから、出始めてて、それは、ネットで可視化されてる範囲に限れば、ネオリブの人達への誹謗中傷であったり、罵倒であったりが中心な訳ですよ。
 きちんと議論をして、お互いのすり合わせをしていこう。と言う姿勢で議論を働きかけてるのは、どうも、見えてこない。

 そういう中で、最初に出した、北原みのり氏と香山リカ氏の対談本が出てきて、非常に批判されるような差別や罵詈雑言が並んだ中身になってる…と、私は読み解くわけですよ。
 これは、外に向けて何某か理解を求めるための本ではなく、内側に対して、運動がバラバラになってしまうのを防ぐ・新しい動きに人が動かないようにする為の本なんだな。

 そう、私は思うし、そのような事に頼るよりなくなるような運動というのは、その外側にいる人だけでなく、内側にいる、人間の心が残ってる人たちによって、乗り越えられ、作り変えられ、きちんと議論をして議論がきちんと表に出てきて、絶えず自分たちの事を買えていけるような動きにされていかないといけないと、思うのです。

 そのためには、「当事者」である、多くの男性も女性も、必要な時に議論に入ったり動かしたりするようにしてかないといけないのだろうな。私は、そんなことを考えて、社会をそういう風に向けてほしいな。と、これを読んでる全ての人たちに対して思うのです。

【告知・随時更新】母・太田久美子死去のため

※11/7追記:葬儀は、11月10日午前某時より、某所にて簡素に執り行います。詳細は、私の方(下記メールアドレスなど)にお問い合わせ願います。11/8にも末尾に追記しました。※

母・太田久美子は、2017年11月2日の15時48分に天に召されていきました。
76歳、最期の数カ月間は細菌感染からの多臓器不全に苦しみまして、息を止めるまでの間、悪あがきに悪あがきを重ねて生き続けようとし、魂の炎の全てを燃やし尽くし、最後の最後はおだやかになり、天に召されました。
前日危篤となった時に電話で呼び出されて付き添い、その一ヶ月半ほど前には病名は不確定でしたが体内状態が悪いと告知を受けてはいたので、覚悟はしていましたので、母の最期の約24時間ほど、病院の検査の時以外は横に付き添うことが出来ました事を、ご報告させていただきます。

当面、このブログのテーマのような事を書くエネルギーが産まれないかも知れません。
母は非常に交友範囲が広く、私も把握しきれていない範囲が沢山ありまして、葬儀等の詳細や今後計画してる「送る会」についてお知らせしたりご相談したりさせて頂きたいとおもいますので、どうか、母をうっすらとでも覚えてらっしゃる方がいましたら、どうか、お知り合いに覚えてらっしゃるエピソードとともに、私の方にコンタクトを取ってみて欲しいとお伝え・拡散するよう、おねがいもうしあげます。

2017年11月3日
おおた きゅうま(もう、ばらしちゃいましょう、大半の人が感づいていただろうけど)
whatisthis.sowhat@gmail.com

11/8追記:
【母とご縁のあった方に拡散希望】母・太田久美子の葬儀ですが、
• 某葬儀場(私・おおたきゅうまにお問い合わせお願いします)にて、11月10日(金)午前9時45分より葬儀を行い、10時より火葬に入ります。
• 9日夕方まで、母に対面できます。某葬祭会社(私にお問い合わせお願いします)に、事前にお時間などご予約お願いします(準備がありますので)
• 火葬場の都合により、9日16時頃までに、おおまかな参加予定人数もしくは参加のご意向を、喪主に、ご連絡頂きますようお願い申し上げます。それ以降、参加可能になりましたかたは、直接、現地に向かうようにお願いします。
• 又、火葬場の都合により、当日に故人の棺に花や物を入れることが出来ないので、前日16時ないしは17時頃に、私が葬儀会社様の方に行って母の棺に花など入れてまいります。当日ご参加可能な方は、現地の方にお伺い下さいませ。
• 服装等は、喪服にこだわらずご自由にお願いします。又、香典などをお持ちにならなくても、ご参加していただければご参加を優先させて下さいませ。
• 後日、母の法的手続きや埋葬などが終わった辺りからの準備となりますので、数カ月後・年を越してしまいますが、「母・太田久美子をしのぶ会」(仮称)を、会費制にて行うことを、考えておりますので、その節はどうか、多くのご参加をよろしくお願い申し上げます。
 上記のような形での葬儀となります。

生徒に「黒髪」を押し付ける学校と、社会が転落していくことの、大きな繋がりについて。

 選挙から一週間が経ちました。金曜日に、大阪の公立高校で、元々髪の毛が黒くない生徒に対して髪を黒く染めるようにくりかえし強要し、それに従っていたところ頭の皮膚がただれるなどしたためにできなくなったのにもかかわらず、学校側が黒く染めることを強要し、文化祭や修学旅行への参加もできなくされたりなどのハラスメントを繰り返されて登校拒否にされた生徒が学校を訴えました。
 このこと、選挙の結果と根本では繋がってないか…という事を、少し考えてみます。

地域社会も一緒になって管理教育を進めて、生徒が無気力に追い込まれた学校。

 この学校の口コミサイトを見ると、非常に校則が厳しく、校則を守らない・守れない人に対してのモラハラとも言えるハラスメントが日常的にあり、しかも、出来ないことを無理強いしたりなど、非常に嫌なものを感じる部分がある訳です。(ただし、半分くらいの口コミはほとんど中身がなく学校は素晴らしいと言ってるので、どうも、そちらの方はその手のステマ業者を学校か大阪府が雇ってるのではないかと疑いたくなりますが)。
懐風館高校(大阪府)の情報(偏差値・口コミなど) | みんなの高校情報

 批判的な口コミを見てると、「校則が厳しく理由のわからないものも多い」「勉強への意欲がなく、学校側も進学に対してサポートがあまり無い」「文化祭等のイベントの規制が厳しく、学校側の要求を呑めない生徒を参加せなかったりする」「学校が汚れていてすさんでる」などの書き込みがあるのですが、これは、日本の縮図なんだな…と思った訳ですよ。

 この手の、理不尽でなおかつ理由もわからずとにかく、生徒を一つの基準で縛り付けてはめようとして、はめられない生徒を徹底的に攻撃する。という管理教育は、1970年代以降進められてきていていることはここでも時折書いてきましたが、兵庫の高校で無理な登校時間規制のために校門に挟まれて殺された生徒が1990年代なかばに出てからは、下火になっていたと思ったのですが、しかし、温存されていた訳ですよ。
 そして、これは5ちゃんねるでちらりと書かれていたことなので信憑性は微妙なのですが、今回の高校の周辺では、「優秀な」卒業生が生徒を監視していて、はみ出るような生徒を見つけたら、学校にクレームというより密告する体制が出来上がってるという話も持ち上がってる。*1
 この学校に入らざるを得なかった生徒たちは、二重三重に監視され・苦しめられ続けてる。

 このような学校や地域社会で、自分から勉強しようとか何かを作り上げよう、自分たちが社会の主役であるんだ。という気概や自覚が出来るわけがないのです。出来るのは、「上が決めたことはめちゃくちゃでも自分を殺すような中身でも、笑顔で喜んで実行できる、ロボットのような人間」でしかない。
 これら管理教育は、「均質で従順な労働者」を無理やり作る為には、一定の効果があったのでしょう。愛知県が先頭に立って過激な管理教育を進めた背景には、トヨタ三菱自動車などへの単純労働者を大量に確保する必要があったという事の影響が指摘されてますし、実際、日本の産業が数を作って売りつけることで成長してる時には、そのような労働者が求められていたのでしょう。
 

「自分を出すな。上の言う事を素直に聞く兵隊こそ求められる」と言い続けた先に…

 話を少し横道にそらします。

 「トランジスタ技術」と言う、電子工学に仕事で関わった人なら、一度は通読するであろう月刊誌があります。この雑誌では毎年四月や五月に新入社員向けの特集が組まれてるのですが、確か1994年か1995年の春に発行されたそれで、どこぞの大企業のそこそこの地位の人がとつとつと技術者の心構えを書いてて、そのなかで「自分を出すな。上の言う事を素直に聞いて実行する兵隊こそ大事なのだ」と書いてて、「そんなこといって、これから日本が優位でも無くなるかも知れないのに何を言ってるんだ」とあきれた記憶があるんですよ。
トランジスタ技術

 当時は、日本の電子産業がイケイケで行っていたのが、会社法の改悪やなんやで暗雲が立ち込め始めてて、技術者のリストラが毎週のように報道されてる時代でした。その中で、クビになった技術者が韓国の会社に非常にいい待遇で雇われ始めてるという噂話も、電機業界の末端にいた私ですら、耳に入り始めていたわけですよ。
 そんな状況では、「言う事を素直に聴いて実行する兵隊」ではどうしょうもない部分が沢山出てくるのが目に見えていたのに、大企業に限らず、私が当時働いてた中小のブラック企業でも、上の人達は似たようなもので、自分たちが決めることは正しい・口答えするな・何か問題が出たらお前が悪いのであって上は悪くない。と言うことが当たり前のこととして共有されてた訳です。
 その会社は、毎月数名辞めては人を入れてるような会社でしたが、大企業は、大企業の正社員という事の価値があるから、なかなか辞めたりしないで、そういう「兵隊」がのさばっていた。

 結果として、日本の電子産業や電機産業は、総崩れになりました。労働者への待遇の悪さと、派遣社員を使い捨てにしすぎた事、それらからくる開発作業のデスマーチ化が当たり前になったこと、そして、著作権のような、ごく一部の人にだけ利益になる利権構造に対して過剰に配慮しすぎたことで、殆どの創造性・イノベーションがなくなり、諸外国の企業にお客をさらわれてしまっただけでなく、そのような「素直に言う事を聞く兵隊こそ必要」と言っていた人達が経営を続けたことで、東芝やシャープや富士通のように誤った経営判断をくりかえしても止める人がいなくなり、新しいことをやる人の足を引っ張ったり、社内の風通しを良くしようという動きを真っ先に潰すことが当たり前になり、皆が保身だけを考えて振る舞い、会社だけでなく、日本社会をも朽ち果てさせていってる。

日本の分断は、「無力感を叩き込まれた大半の人」「自分を勘違いした少数の人」の分断でもある。

 この風土と、管理教育がはびこって、地域社会まで管理教育に関わってしまったことは、実は、「主役になろうとすることを徹底的に抑え込まれ続けて、無力感を叩き込まれた大多数の人」と、「家柄や人脈に恵まれたり、偉い人にお世辞を言う事で偉くなったのを、何でもやれる権利だと勘違いしてしまう、人間として程度の低いごく少数の人」に、日本を分けてしまった・分断させてしまったと思うのです。

 この事は、衆院選参院選でも出てきてるわけですよ。多くの人が「政治に期待してもどうしょうもない」「選挙に行ってもムダ」と無力感を出してるのは、現実社会が大半の人の心を折るような社会を、主に自民党や財界、霞が関地方自治体が主導して作り上げてきたことが、物凄く影響してる訳です。
 今も、自民党が野党の質問時間を全体の3割まで削ろうという話が出て問題になり始めてますが、これも、「勘違いした人々の暴走」「大半の人の心を折る行為」ですが、そのようなことが何をもたらすかと言えば、上の方の無責任によって悪いことが起これば責任と不都合を普通の人達が全部背負いつつ、上の方は責任を取らず、それに下のほうが耐えられなくなっても自殺以外の選択肢が認められないという現状なわけですよ。
 それを、変えていかないと日本という社会が盛り返すことはないのですが、それは「勘違いしてる偉い人達」が変えることは全くない・あるとすれば悪くするためだけだろう。と私は思うのです。

 私達自身が私達自身の手で、変えていくしかないし、そのためには、自分たちの実感として、「何かを変えたことから来る自信」を、私達一人ひとりが取り戻していくしかないと思うのです。
 「水戸黄門」を待ちわびてもしょうがない、私達一人ひとりが水戸黄門となることが出来ないまでも、心ある人達と繋がり、繋がった人同士で又繋がり、身の回りの一つ一つを変えさせていくことから、政治に対しても変化させていくしか、この詰み手も詰み手の日本社会の中で、私達が生き残る方法はないのだと、思うのです。

*1:補足:5ちゃんねる・嫌儲板での今回事件のスレッドでの書き込み( http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1509177563/176 )から。「これ、黒髪拘束を守ったOB、OGが地域で監視活動してるんやで 茶髪が制服着てるの見かけたら即クレームの電話や さらにそんなOBが地元企業の人事担当だったりするんやで 」