「ホンネの議論」と言いつつ、ホンネが語られない社会。

少し、間が空いてしまいました。

今日(12/25)、朝日新聞のWEBサイトにこういう記事がありました。

http://www.asahi.com/articles/ASJDS6WFQJDJUCLV02G.html?ref=nmail

SMAP、寂しい幕引き 解散理由語られないまま

 年内いっぱいで解散するアイドルグループ「SMAP」。大みそかのNHK紅白歌合戦への出演も見送られ、8月の発表以来、メンバーの口から解散の理由が語られないままの幕引きとなりそうだ。一方で、従来のアイドル像を変える彼らの楽曲や活動に、心励まされてきた人々がいる。
(以下、リンク先の記事で)

 

この記事では、SMAPの解散の理由というものについて「本人の口から語られない」として深く言及することを避け、SMAPの芸能活動に勇気づけられた人達のエピソードを紹介して「プチ美談」を記事にまとめている訳ですが、実際の解散の真相なんてのは、既に一部メディアが報じてる顛末と、テレビを通じて出されてきた事態を見れば、明白な訳ですよね。
まず、SMAPを育て支えてきた飯島マネージャが、ジャニーズ事務所の実際のボスであるメリー喜多川の娘を出世させるのに邪魔になったから首を切られそうになり、飯島氏が独立を模索するのにSMAPの内の、木村拓哉以外の四名がついていこうとしたものだから、メリー喜多川が飯島氏を解雇し、芸能マスコミを通じて、あることないこと飯島氏を批判する記事を搔かせたり、テレビの情報番組で批判的な論調を流させた上で、独立を支援しようとした動きを潰し、テレビの生番組にSMAPのメンバーをさらし首のように出して「私達が間違ってました」と言わんばかりの「釈明」をさせるという「公開処刑」があり、そのことにマスコミの大半が批判をできずにいる間に、ジャニーズ事務所側が手を変え品を変え四名の慰留を試みたけれども、結局、「公開処刑」までしてしまったことで却って「処刑」された側のハラが固まったのか、契約切れまでは事務所に残留するが、SMAPの活動自体はやらない。と言う形に至ってる訳ですよ。
芸能マスコミの多くが既に、木村拓哉とそれ以外の四名との間に長年あった軋轢と、この間の状況で出来た溝が埋まらないどころかどんどんひどくなってるという話を報じてるわけで、そこをきちんと触れて、ジャニーズ事務所と言うよりメリー喜多川がやったことが、明白なパワーハラスメントであるという論調を取ることすら出来ないマスコミというのには、社会的な使命感がないのだろうかとすら思うわけです。

みんな、奥歯に物を挟んでるのに、決まりごとは歪んだ守り方をしてる


もう少し話を拡張していくと、最近年末の風物詩になりつつある「ブラック企業大賞」、今年のノミネートには、ジャニーズ事務所も入ってなければ、11月に給与明細が暴露され、偽装請負と超低賃金による搾取構造が改めて社会的な問題になったアニメ企業(暴露されたのはP.A.ワークス)についても何らノミネートがされなかった訳です。
これも、朝日新聞ジャニーズ事務所パワーハラスメントを言及できなかったのと似た状況ではないかと危惧するのです。

この国では、「コンプライアンス遵守」「法令遵守」と言う掛け声が盛んにあり、ちょっとした逸脱行為を個人が行なうと、ネットの多くの人達が袋叩きにして、個人が謝罪するだけではなく退職に追い込まれてしまうような事が頻繁にある一方、企業が労基法を守らなかったり露骨なパワハラをしても、それを批判したり炎上させる人はたしかに少なからずいるんだけど、それが「罰」として機能することは非常に少ないし、労働者や当事者が精神を病んで自殺でもして、遺族が記者会見をして会社を非難するような「おおごと」にでもならない限り、企業が態度を改めることも、社会的風潮に歯止めがかけられようとすることも、最低でも可視化されることが殆ど無いわけです。

そういう不公正さやそこになかなか切り込んだ話を、この社会の主流の人達が手控えすぎていると言うことが一つあって、その上で更に考えないといけないのは、そういう状況に対する人々の不満というのは確かにたくさんあるのだけど、それをマスコミやネット言論が汲み上げようとする場合に、非常におかしな方向に向けられてしまうことが非常に多いことも、もう一つ大きな問題として考えないといけないのではないかと思うのです。

「ホンネ」といいつつ、「敵」への憎悪を煽って利益を得ようとする人たち


首都圏以外で長年放送されてきた番組として、「たかじんのそこまで言って委員会」と言うのがあります。今はやしきたかじんが死んだので(敬称したくない)、番組の名前が変わっていますが。そして、最近では東京圏での似た論調の番組として「ニュース女子」と言う番組が、東京MXで放送されてるようです。
これらの番組の特徴というのは、「ホンネの番組」を目指すと謳った上で、今主流の政治体制と言うか、宗教がかった極右路線や新自由主義路線を賞賛しつつ、その部分に異を唱える人や実害を被って嘆いてる人たちに対して、悪いレッテルを一方的に貼ったり、本当かどうか怪しかったり嘘だと証明されてる話を繰り返し持ち出した上で、そういう人たちのことを悪いイメージを伴う言葉で馬鹿にしたりするところなんですよね。

要は、前に書いた「水戸黄門願望」に乗っかる形で、人々の不満に対する「わかりやすい」解答を示すふりをして、自分たちの一方的な話を人々に吹き込んだり、自分たちやスポンサーに都合の悪い動きを社会的に見て孤立に追い込んできたわけです。こういう「積み重ね」の延長に、今の政権の傍若無人さであったり、社会の崩壊があると、私は思うのですが。

「右ばっかし批判してたらいけないだろう」と言うツッコミがあるだろうからもう少し書いておくと、そういう悪意的な歪め方を使って、自分たちに都合の悪い人たちを攻撃したり、社会的に孤立に追い込んで行くというやり方自体は、左翼を自称する人達の中でも結構あって、最近の状況であれば、例えば「レイシストしばき隊」や「反差別男組」の系列の人達が、自分たちのやってることに対する批判を行なう人達を、右だろうが左だろうが関係なしに「差別者」「レイシスト」と罵倒したり、いろいろな所と連携して社会的排除を狙おうとしたり、フェミニズム運動を自称する人達が、自分たちがやってることが純潔教育と何ら変わりない部分が相当あって、その事で基本的人権を奪われそうになってる人達が、抵抗の意思を示し始めたら、「レイプ魔」「セクシスト」などの的はずれな罵倒を行ったり、その人達の切実な声を取り入れたりして、道徳観を強制する法律や条例に対して待ったをかけようとした議員たちに対して「エロ議員に投票するな」と根回しして廻り、心を折ろうとしたことがある訳ですね。

憎悪を煽ることで利益を得た上で、社会が破滅していく。


そういう流れで、相手に対してレッテルを貼り付けて、事実と関係なしに言いたい放題言ったりして人々からの憎悪を向けていこうということ自体は、自分たちが主導権を握ろう・難しい言葉を使えばヘゲモニーを掌握しようと言う時には、歴史的によく使われてきたことですが、その事が、実は独裁的な政治であったり、政治や社会運営を自分たちだけでやりたいような人達ばかりが賞賛されたり勝ち誇ったりするような不公正な社会のありようというものを形作ってきたんですよね。

その結果として、アメリカの場合には、社会が戦争依存症から抜けられないままに、多国籍資本がのさばって生きるか死ぬかのラインに一億人前後の人達が追いやられていますし、日本の場合には、そのことによって利益を受けるような企業や資産家だけが大儲けして、そのお膳立てをするような政治家だけが増えてしまい、社会では多くの人を不幸にするだけの道徳や倫理観だけが法律や空気で強制される一方、喰うに困ったり文化的に生きる権利やその他の多くの基本的人権を奪われたりして困ってる人たちに対しては、声を上げることすら暴力的な攻撃に晒されてままならずに、自分一人が我慢して朽ち果てることを迫られ・それらは個人間の相互不信や異性間の相互不信を前提とした社会づくりへとつながり、殆どの人が生きづらくも自分と同じか下の立場の他人を叩いて溜飲を下げるだけの社会になって行った訳ですね。

私達が決別しないといけないこと


だからこそ、今回挙げた2つの「態度」問題…波風立てないために本質に切り込まない事を美徳とする態度と、「敵」に対しては幾らでも罵詈雑言や嘘を並べ・悪魔的な振る舞いすらして叱るべきとする態度…を、私達は意識的に克服していかないといけないと思うのです。さもなくば、誰がトップになったところで、社会の破綻は深まり解決から遠のく一方、人々の生きづらさや苦しみというものは雪だるまのように増えていくでしょう。
人間は聖者ではないので、時折そういう方向に向かうこともあるし、それが悪いこととは限らないと考えているのですが、しかし、それが主流であったり、唯一正しいやり方や精神性・風土となっては、より拙い訳で。

結局、単一の文化性が正しいとか単一のイデオロギーや道徳に立って世の中がまとまって動くのが正しい、あるべき姿なんだ。と言う部分を、きちんと捨て去っていく必要があるんですよね。その部分の姿勢、物事に対する立ち位置というもののとり方がきちんと出来てる人たちであるならば、複数ある動き・流れであっても、それが時折対立することがあったとしても、大きな方向性や個別の物事への具体的な対処のありようとしては、概ね「よい」方向に向くのではないかと私は思うのです。
要は、違いを認め、言うことは言うし間違ってるとか辛いとか困るとか言うこともためらわず・情けもなく言うことこそが今の世の中を破綻から救うかもしくは破滅の後に立てなおしていくためには必要とされる態度で、そういう「流れ」が複数あるならば、それぞれ細かい方向性は違っても、ある種のイデオロギーに支配されるとかイデオロギーに序列がつくとかそういう社会ではないのかもしれないけど、今の状況よりは数段マシな社会や人と人の関係の有り様になるのではないかと、私は思うんですよね。