異なる文化や民族を尊重することのない社会。

少し、話を変えましょう。

こんな事が話題になっています。

【「マジョリティ民族は許可なくマイノリティ民族の民族衣装を着てはならない」が、現在主流の考えになりつつある】との現状解説に、様々な反応〜丹菊逸治氏の解説を中心に - Togetterまとめ


要は、アメリカのファッション雑誌で、白人のモデルさんが、着物などの「日本のイメージ」をモチーフにした写真を撮って、その一部をネットに載せたら、「日本人に対する差別だ」と、*黒人を中心に*批判が起こり、日系人の一部を含めてアメリカの*白人や黒人が*猛烈にモデルさんや雑誌のアカウントを非難して、モデルさんが謝罪に追い込まれたという話なんですよ。

この中で言われてるのは、「少数民族の衣装や風俗・文化をそうでない人たちが模倣するのは、少数民族に対する差別だ」と言う理屈で、その理屈を世界規模にまで拡げてしまってる事なんですよね。

「世界の警察」から抜け出していない、欧米の「リベラル」。

私は、ここに、この人達・要は米国や西欧諸国の、「リベラル」などを自称する人達の、救いがたい傲慢を感じるし、日本でも、この人達に同調する人達が少なからずいるということに、その手の人達の思想的な怠慢や傲慢さをも感じて嘆かわしく思うのです。
アメリカ国内で、少数民族に対して同化を迫って白人と同じであるか、もしくは社会から排除されよと迫ると同時に、固有の文化や服装・肌の色などを「バカにする」目的であげつらったりすらして、それが差別や排除を拡げて行ってた歴史があったことは知っているし、その歴史に対する反省として、そのような話が出てきてるというのも承知はしていますが、しかし、この問題のように、他国の「差別された」と言われてしまってる人々がどう感じ取るか。と言う視点を抜きにして、正しくない行為だと糾弾しているというのは、逆に、「差別されたと言われてしまってる人々」を無視し、侮辱してるのではないかと疑わざるを得ない。

後、もう一つ大事なところとしては、人の感じ取り方は様々ですから、アメリカ国内に限っても「差別だ」と思う日系人の人とそうは全く思わない日系人の人に分かれると思うのですが、「差別された」と言う側の声ばかりが大きくて、まるで、それだけで日系人が全て凝り固まってるように外からは見えてしまう事なんですよね。

でも、日本にいる大半の人は、この「差別」とされる写真を面白がったり歓迎したりしてる。大半の人は、日本文化が諸外国で、地元の人によってアレンジされたりして独自のものとして枝分かれして定着するのを、面白がってしまってる。そして、米国の「リベラル」や彼らに同調している日本の人たちに対して「やりすぎだ」「当事者無視だ」と批判をする人まで少なからず出始めてる。

要は、「差別」と言うキーワードに囚われてると同時に、米国の、ある意味特殊過ぎる歴史的経緯が世界共通のものだという勘違いとか、米国の「正しさ」が正しくて、それ以外に正しいものはないんだ。と言う、言い方変えれば、「帝国主義」や「世界新秩序」を掲げて世界中に戦争を仕掛けていったり、内戦をけしかけていったりした「保守派」の人々と全く変わらないような傲慢さを自分たちが持ち続けていて、しかもそれを「世界共通の正義」と信じ切ってしまってるのを、「リベラル」の側が全く自覚できてないという話なんですよね。

日本の場合。

このような事は、日本でも起こってる訳ですよ。
例えば、「レイシストしばき隊」と言う人たちがいます。要は、民族差別やヘイトスピーチをしたり煽ったりしている「行動保守」の人たちの動きをなんとか止めたい。として集まった人たちなのですが、この人達や支持者たちは、在日韓国・朝鮮人の代弁者であるかのように振る舞い、少しでも「差別」だと思えば、物凄い勢いで口汚く罵り・リアルでの暴力すらためらわない。
そして、その物言いで在日韓国・朝鮮人に関わる部分やジェンダー問題の部分以外では、えげつない差別的な物言いを繰り返してるわけですね。「キモオタ死ね」「オタクはレイシスト」後、精神病者を口汚く罵ったり、自分と相反する意見の人たちに対して、いとも簡単に「キ○ガイ」などの言葉を投げつけてる訳です。
しかも、そのような言葉は、在日韓国・朝鮮人全体がそう思ってるという話に、頻繁に結び付けられる。
しかし、在日韓国・朝鮮人の少なくない人達は、彼らや彼らの周辺の人達が代表者もしくは代弁者として大きな声を上げて「暴れて」いることに、けしていい顔をしていない。彼らの、狭いコミュニティの中で大きな声でしばき隊の類を批判することは難しいようですが、しかし、彼らのおかげで差別がよりひどくなったという声すら、時折眼にしてる訳ですよ。

彼らからすれば、何が差別なのかとか日本人との距離のとり方とか、全く違うんだけど、それを言うと「差別者である日本人の犬」みたいな物言いをされてしまうので、議論がなかなか起こってないようなんですよね。

価値観の押しつけと、議論の拒否を乗り越えねば。

「独裁」「民主主義の無視」に対して対抗する側の方でも、「常識」を盾にして、大きな声の人が全てを代表するかのような事になって、内部で微調整が効かないで議論もされないという状況になっているし、そのことで、アメリカではトランプがのし上がるし、日本だと野党への支持がなかなか高まらないという話になってるんじゃないかと思うんですよね。

ここを、乗り越えていかないといけないと思うんですよ、私達の場合。この、崩壊してしまってる世の中を建て直したりしていく力として、リベラルで主流の人達のように「自分の正義」にだけ依存してるような人達は、全く力にならないと思うんです。彼らは、議論を本質的に嫌ってるという意味で、この社会を崩壊に追い込んだ人達となんにも変わらないし、彼らのやり方ではダメだという風に、私は思うのです。議論が自由にでき、色々な立場や趣味嗜好・文化を抱えた人達が、きちんと尊重(もしくは相手に噛みつかないで)される状況がないと、又、簡単におかしなことになりますからね。

何ができるのだろうか

「真面目に怒りましょうよ」「出来ることからやりましょうよ」と書いてるけど、でも、何を出来るのかというのがわからない人も多いのではないかと思います。何かやれば、マスコミもネットも袋叩きにする時代が長く続いてきてますし、その前は何かやる人は反社会的だ。と言う刷り込みをマスコミや学校教育などを通じて行なう時代が非常に長く続いてきたから、それ自体は仕方のないことです。
しかし、何もやれなかった・何もしなかった事が、今のどうしょうもない状況・社会が完全に詰んだ状況を作り出してしまってるのも、逃げようのない事実なのですから…

私が思いつく範囲で、幾つか書いていきます。これが全てではないし、全てが正しいかどうかも、実は自信がないのですが。

誰に対して行なうか

  1. 多くの人々に、事実を知らせて何かしようと呼びかける。盛り場や駅前などで、プラカードを持ったり抱えたりして立つ。
  2. 家族や隣近所、同僚や同級生と問題に思うことについて話して、その上で何かできないかなという話ができればやる。
  3. (特に野党の)議員や政治家の事務所に対して、頑張って欲しい、この事が今問題なんだと話しに行く。もしくは手紙などの仕事の邪魔にならない方法で考えや気持ちを伝える。
  4. マスコミに対して、事実を報道して欲しいとプレッシャーをかける。
  5. 事実を報道したマスコミに対して、頑張り続けてほしいと呼びかける。
  6. デモなどの場に出ていって、そのデモとの関係がなかったとしても、このことを問題に思う。もしくはこのことで辛いという気持ちを、プラカードやチラシの形で出していく。(エキスパート向け?)
  7. 何人か地元で同じ思いの人で集まれたのなら、少しのお金を出し合って、可能ならリソグラフのような安い印刷機を使える場所とツテを作って、自分たちの思いをビラなどにしてポスティングしてみる。(エキスパート向け?)


1.についてもう少し書いておくと、「自分はこれをやった/これをやりたいんだ」と言うのを、ネットなどを通じて出していくのが大事だと思うのです。知識を共有したり、実績を共有することで、もっといいやり方を考え出す人が出てくるし、勇気づけられて全く別の場所でやる人も出てくるでしょうから。

知識の共有とトラブル回避

知識の共有と言うところで行くと、

  1. プラカードの図版を、PDFなどで作っておいて、アップローダネットプリントにアップロードし、それをネット(Twitterや匿名掲示板など)で告知して、ばらまきまくる。
  2. やりましたよ。と言う写真をネットにアップする。(モザイク等推奨)
  3. 色々トラブルにされることもあるので(警備員が文句言ってきたり、通行人が文句言ったりなど)、生中継可能なら生中継しておく。


警備員などとトラブルになる場合やポスティングで揉めるというのは、どうしても出てくることがあるのですが、その場合は、頭下げて一旦引っ込めて、別の場所で少しやってみてどうなるか様子を見て、続けるかやめるか判断してみましょう。そのくらい、図々しくないと物事は動かせない。

ここで大事なのは、下手に事を荒立ててしまうと、警察が出てきてカモがネギ背負って出てきたとばかりに色々言いがかりを付けて逮捕だなんだとやりかねないので、そこら辺は上手いことかわす必要があるということですね。
真面目に話ができそうなら、二言三言話して理解を求めてみてもいいでしょうが、警察は、警察官個人の考えで動いてなくて、上の方の意向とかで警察官が自分を殺して動かされるように教育が厳しくされてる組織ですので、この手の動きに対しては、上のほうが潰せと言えば、必死になって、やってもないことまでやったと言い張って潰してくるものですから、距離をきちんと置いてかないと、後々非常に大変なことになる。

総理夫人が汚職に関わったのがバレても、動かない世の中の腐敗の酷さ。

色々と、社会全体の状況が急変したので、上野千鶴子氏のインタビューに関する話は、少し後に廻します。

社会の当事者だという意識を奪われた、日本人。

私達が、社会を支えるどころか社会を形作っているのだ。という意識が、日本人には非常に薄いのではないかと思うのです。だから、総理大臣やその奥さんが関わってる学校法人に対して、政府や大阪府が非常にすごい「えこひいき」を重ねていても怒りの声がなかなかネットの外側には出てこないし、色々な問題があっても、黙って我慢するだけで改善しないままどんどん進んでしまってる。

でも、それが長く続きすぎたことで、物凄く沢山の問題が隠しきれなくなってるし、身の回りをふりかえれば、色々立ち行かなくなっていっている。

いい加減、そこを変えていきましょう。世の中が崩れるのはもう避けられないけど、でも、その先崩れたままではだめだから、あらゆる人達一人一人が社会の主役に返り咲けるようにやれることをやり直していきましょう。という事を、くどくどと書いていくのが、このブログなのですが。

貧すれば鈍する。

今までは、社会全体でみればそれなりに豊かだったし、上の方で豊かならば、多少は下の方にもお金などを廻して下も潤わせようとするような遠慮というものが、上にありました。
でも、それは、今やなくなってしまった。上がどんどん儲けて儲けを抱えて離さないことが「効率重視」で「正しい」んだ。という考え方が余りに社会に広まりすぎて、貧しい人・稼ぐに稼げない人にカネを廻すことも、カネを廻してくれと嘆くことも、まるで万引きかなんかをやるかのような「悪いこと」として袋叩きにされる「正当な理由」にされるようになってる。

みんな、そういう辺りに関しての善悪の感覚が麻痺してるのでしょうね。だから、総理大臣の奥さんが関わってる学校法人への官民挙げての「えこひいき」やそこにまつわる不正な金儲けがバレても、ろくろく動かない。
しかも、 マスコミはマスコミで、一旦取り上げた中身を、総理の奥さんが関わってる部分だけ削除したりしてる(https://www.youtube.com/watch?v=BK5eVCB7KXI 著作権を盾に消されるかもしれません)し、これだけあからさまな疑獄事件なのに、非常に軽くしか取り上げないから、このような問題がおこってる事自体を知らないままの人も多い。

この事件や東芝の破綻に代表される、「原子力」を巡る経産省と一部企業人の暴走というのは、日本の崩壊の中でも、「上」の崩壊と腐敗がどれだけ酷いか。「下」の側が無力化され尽くし、物言わぬ人々に追いやられ続けた結果として、それ以外の人達がどれだけ腐ることが出来たのか。と言う事を物語っていると思うのです。。

やれることをやっていきましょう。

このような、非常にふざけた状況を知ってる人、状況に対しておかしいのではないかと思ってる人が、ネットの中でも外でも、自分がやれることだけでいいからやっていき、事の存在を一人でも多くの人に知ってもらうように広げ、こんなことばかりでふざけるなと言う気持ちをも伝えて広げていくよりないのではないでしょうか。

そういう、「身近な・細かい所のネットワーク」が完全に壊されてるのだから、そこを作り直していくより、社会を建て直すために私達が動けることはありえないのではないかと思うのです。
社会が最早壊れだして回復しようがなくなってる時に、政治家の偉い人達や官僚の人達が、私達一人一人が納得できるような形で建て直すことができるとは全く思えないし(それが出来たのなら、とっくの昔に…それこそ、鳩山政権時代に…相当部分が成し遂げられていたでしょう)、私達が、多少は善意や理性のある政治家などの背中を押して、私達こそが主役なんだという形で、人とふとのつながりの中から色々やっていくしかないんじゃないかと、思うのです。

また番外:いい加減、自分の為にならないで勝手に進められてる事に本気で怒りましょうよ。

数日前、大阪府豊中市にある、安倍晋三総理大臣と近い幼稚園経営者の方が、今年開校する小学校について、土地を市価の十分の一で財務省から払い下げてもらっていただけではなく、国交省財務省から、色々な名目で開校のためのお金を貰ったり、普通一年以上かかる文科省の審査を、たったの一ヶ月でパスしたことが、朝日新聞などの取材で報道されました。
地元の市会議員さんが、余りに不公平でおかしいだろう。と裁判を起こす事になったというのが、最初の報道でしたが、調べれば調べるほど、色々とおかしな・えこひいきと言っても問題ないような優遇を受けていました。

この小学校は、「日本で初めての神道の小学校」を名乗り、副校長や幼稚園の理事に、安倍昭恵・総理夫人を据えたりなどしていて、少し前からおかしいんじゃないかという声が細々とは上がってましたが、どんどんと酷い証拠が出てきています。

このようなことは、表に出ていないだけで、沢山あるでしょう。「愛国」と言う言葉の美しさに隠れる形で、おかしなお金の流れが正当化されたり、与党の偉い立場の政治家たちが、自分たちの理想の社会を作るという表向きの目的で、国の財産を不当に安く手に入れたり、税金を沢山自分のお金として使ってる。

 

キーワードは、「私物化」。

東芝の破綻問題だって、似たようなもので、経産省原発推進したい官僚たちと経営幹部の一部が、東芝という大企業の経営実権を握った上で、原発を推進するという目的のために、むやみやたらに買収や事業拡大を繰り返し、当然それでは大赤字が出るからと、他の部門に対して粉飾決算することを強要し、それらがバレて赤字を素直に出したら会社が倒れるからと、まずは儲かってる事業から、タコが自分の足を食べてしまうかのように、売り払い始めてる。

そういう、偉い人達・権力を握った人達だけが、当然のようにお金や財産だけではなく、人々の仕事を奪っていくのと同時に、福祉も何も、お金がないからと削っていく。と言う、日本の崩壊の酷さに対して、きちんとやってかないといけない時期が来てるのだと思います。

例えば東芝の経営者たちは、きちんと警察や検察が逮捕してこうなったことの中身を調べ上げた上で、然るべき処罰を受けるべきであるし、今の総理大臣や大臣、取り巻きの人達は、今までやったことの責任を取ると同時に、政権から身を引いていくより、本来ないはずなのですから。それをできるのは、実は民進党とか共産党だけではなく、私達一人一人であるのです。

何をやればいいのかわからない人たちへ。

別に、集会をやったりデモをやったりするために、多くの人で集まって…などという形から入る必要はないのです。自分一人で駅や繁華街の当たり障りなさそうなところで適当な紙でも持って数十分間立ってみるもよし、地元の、与党や与党に媚びてるような人達ではない議員さんや政党の事務所に言って嘆いたり、手紙を書いて出したりするもよし。地元で何人か話があう人がいるならば、デモをやってみるとか街角で立ってみるのもいいでしょう。
それらをやる余裕や気力がない人は、家族や友人、職場の人に話して、何かできないかと考えてみてもいい。その事自体が、物凄く敷居の高い話になってしまってますからね。

何しろ、シールズに代表されるような、ガッチリとした組織がないと何も出来ないというわけではないし、今の何を言ってもいけないんだ。何を言ってもムダなんだ。と言う所を、どうにか食い破っていかない限り、この国は、回復しようのないところまで破滅しますから。どうにかそれを防いで、そして、立て直していかないといけませんから。

色々な流れは、つながっていって、そして、何本かの大きな流れになり、お互い潰し合わないでやっていけるのならば、十分に世の中を変えていけるのです。別に、一つの流れで押し切らなければいけないということではないのですから。

番外:野党、特に民進党の中の人達と支持者の皆さんに、今こそお願いしたいこと

今、国会中継を見ていて、野党と言うか民進党の追究の甘さ・時流の話題をキャッチしきれていない意味でのズレを感じて、少し書いておきます。

素朴な疑問

民進党、なんで、これだけ内閣と霞が関のスキャンダルが噴き出しているのに、適切な追究を加えられない人が揃ってるんですかね。

安倍晋三記念小学校」事件(問題どころか事件でしょう…)をタイムリーな頂点にして、数々の利益相反行為や私物化行為を追究して内閣のクビを取ることで共謀罪を潰していくくらいのあくどいやり口をやっても、誰も怒らないだろうし、今こそ、街頭や何やで、内閣と政府の不正行為を喧伝して、政権交代して膿を出せというキャンペーンを始めるくらいの、「図々しい」事をすることを、野党全体に対して多くの人が期待してると思うんですがね。

どうも、野党、特に民進党は、世論の関心がどこにあるかを見誤りすぎてる気がしてならないです。

市井の人達は、年金や国保やなんやが「増税」され、食料品のお値段が同じでも分量が相当少なくされたりなどで物価も事実上大きく上げられ、その反面、年金や生活保護だけではなく色々な福祉的給付や教育に関する公的支援が削られていく中で、苦しんでいるのです。

その中で、政権のみならず、政権に近い人達や思想を同じくする「取り巻き」の人達は、国有地の極端に安い払い下げに代表されるような大きな便宜を得たり、アベノミクスでの株の国有化や極端な為替介入・軍拡路線や原発推進路線によって、株などへの「安全な投資」をたくさんして儲かったリターンで、大儲けしてる訳ですよ。

そういう、物凄い隔絶・人々の二極分化にこそ、人々の不満の根源があるわけで、そこをきちんとすくい取り、不正を不正として撃つことこそが、野党への国民の支持回復では最重要な要素だと思うのです。

物事の重要度を一度考え直そう

多くの国民から見たら、「本当に危ないのかどうかわからない」共謀罪や、「沖縄の問題に過ぎない」辺野古問題を一旦ストップしてでも…そこら辺は、全て、今の政権の不正行為と密接に繋がってるのを丁寧に説明しつつ…内閣のクビを取り、この国の上の方に溜まりに溜まってる膿を全て出すことを国民に呼びかけないとダメですよ。

マスコミがなんと言おうが、無視しようが、きちんと言う事言えば多くの人に届きます。そして、口コミを通じて、予想外に広い範囲の人たちに拡がり、ポジティブな受け止められ方をします。

今は、そういう時代ですから。

そのことを、きちんとやっていき、きちんと人々の行動につなげることこそ、民主主義や議論を重視することを標榜する政党の、やらなければならないはじめの一歩ではないでしょうか。

 

移民問題は「リベラル」も排外主義と同じ穴の狢…上野千鶴子インタビューについて(1)…

別のことにかまけていたら、二週間も間が空いてしまいました。
女性学の学者さんのこのような発言が、物議をかもしています。


http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=435172&comment_sub_id=0&category_id=562

◆平等に貧しくなろう 社会学者・東京大名誉教授 上野千鶴子さん

 日本は今、転機だと思います。最大の要因は人口構造の変化です。安倍(晋三)さんは人口一億人規模の維持、希望出生率一・八の実現を言いますが、社会学的にみるとあらゆるエビデンス(証拠)がそれは不可能と告げています。

 人口を維持する方法は二つあります。一つは自然増で、もう一つは社会増。自然増はもう見込めません。泣いてもわめいても子どもは増えません。人口を維持するには社会増しかない、つまり移民の受け入れです。

 日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。

 移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。

客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。

 主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。

 だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。

 日本の希望はNPOなどの「協」セクターにあると思っています。NPOはさまざまな分野で問題解決の事業モデルをつくってきました。私は「制度を動かすのは人」が持論ですが、人材が育ってきています。

 「国のかたち」を問う憲法改正論議についても、私はあまり心配していない。国会前のデモを通じて立憲主義の理解が広がりました。日本の市民社会はそれだけの厚みを持ってきています。

 (聞き手・大森雅弥)

国が極端に外国人を差別してきた、日本という国

幾つか非常に問題のある言説で、すでに多くの批判がされてる訳ですが、私もいくつか指摘しておこうとは思います。

まず、「移民は日本にとってツケが大きすぎる」と言う話ですが、私が思うに、すでに多くの「外国人」が日本に来ていて、今は日本が経済的に衰退傾向なので、今後増えるかどうかはわからないにせよ、共存するより無い状況なのは避けようがないと私は見ていて、その上でどうすべきか。と言う話になるならばまだしも、移民を受け入れる受け入れないで議論が成立してしまうという問題設定自体が、余りに古臭い話ではないかと思うのです。
そして、日本の問題というのは、外国から来た人たちに対して、入国行政や警察行政が、余りに冷たく・偏見に満ちたことをやってることと、後は、研修生制度に代表されるように、不当に安い給料で不当にこき使う為だけに外国人を半ば奴隷として「輸入」する制度がまかり通っていることじゃないかと思うんですよ。
普通の日本人や在日韓国・朝鮮人の眼には映らないような形で「二級市民」が制度化されていて、日本に来た外国人の少なくない人々が、既に日本に定着しているというのに、そのことにはほとんどの人たちが見てみぬふりを決め込んでる。

例えば、私の知り合いには、長年ビルマ人の人権問題に関わってる方がいるのですが、ビルマミャンマー)は軍政時代に政治弾圧が激しかっただけではなく、ロヒンギャなどの非仏教徒に対する過酷な弾圧を行っていて、民主化されても異教徒弾圧が激しいまま続いており、多くの難民が日本にも逃げて来てるんですよね。
でも、日本政府は難民申請した方に対して、殆ど難民認定を出さないで、要は、不法滞在扱いしてる訳です。

不法滞在扱いされると、些細な犯罪ですら無いような落ち度が見られただけでも、簡単に入管の収容所に送られたり、本国に強制送還されてしまう訳で、物凄く不安定な地位のままで長年過ごすことを強いられてる。

既に、奴隷を大量に「輸入」して使い捨てにしてきた、日本という国

研修生制度に至っては、制度自体が「技能研修」と言う名目になっていて、最低賃金を大幅に下回る給料で、労働基準法に違反する中身の労働をやらせてもお咎めないようになってる。経済的に貧しい外国で仲介人(ブローカー)が「家が建てられるようないい仕事がある」的なことを言って、渡航資金だ何だで借金を作らせ、研修生として日本に送り込み、粗悪なタコ部屋に押し込んで一日15時間とか働かせたり、雇い主が暴力やセクハラを日常的に行ったりする職場で、一日数千円の手取りすら危ういような形で働かせることを認めてしまうような状況が続いてきてる訳ですよ。

こんな国で、経団連自民党なんかは、移民を100万人単位で呼び込もうとか言ってる反面、移民がマトモに人扱いされてない現状に対しては殆ど変える気がないようなのですから、そんな状態で移民を入れること自体が人としてクズとしか言いようのない話ですし、移民は受け入れるべきではないと、私は思うのです。

要は、移民を受け入れるならば、事実上の二級市民に外国人を追いやってる制度をマトモにするのが先でしょう。と言う話なんですよね。

外国人を人間扱いせずに上から目線で説教しても何も変わらない。

で、上野千鶴子の件のインタビューを見ていると、こういう構造的な問題をどうにかして変えていきましょう。というのではなく、紋切り型に「外国人を受け入れないなら衰退する」と脅しに近いような事を言っている。

こんな事言ってて、人が動くもんですかね。

問題なのは、自分のいる「集団」とは違う、異質な人たちに対する嫌悪感のようなものが、この国では余りにはびこっていて、それは日本人の間でもごくごく普通に飛び交ってるわけですよ。例えば、「フェミニズム」を標榜して「左翼」を自称してる人たちですら「キモオタ死ね」「オタクはセクシストの犯罪者」などと言ってヘイトスピーチ同然の罵倒を繰り返したりとか。

そこの部分に目を向けつつ、移民が沢山入ってくるのは、もう、避けようがない。と言う現状認識をきちんともった上で、では、移民や既に日本に来てる外国人の待遇をちゃんとしましょう。と言う前向きな話には、上野氏の話…実は、この手の物言いは、「リベラル」の多くにある…は、全くなってない。

このいびつさこそ、きちんと問題なんだという考えを持つべきだと思うんですよ。

私はひねくれてるし、極端に空気を読まないので言いますが、上野氏にせよ、その周辺の人たちにせよ、日本にいる外国人・特にアジア系や中東系の外国人を「異物」として捉えてるという感じがするんですよね。色々な人たちが混在するのが社会ってやつなんだから、「異物」があってもあるがままの姿でどうにかするしか無いんだ。と言う感覚ではなく、「異物」が入ってきたけど、それを排除するのは政治的に正しくないからお情けをかけてやる。的な感じがありありと透けて見えてくる。

その上で、「自分はこんなに(外国人に対して)寛容なのに、世間の人たちはなんで寛容ではないんだ?バカじゃないか?」と言う奢った意識をちらつかせてすらいる。

 

外国人が入ってくるのは避けられないという認識を持つより無いのに…

繰り返しになりますが、外国人は既に多く日本に入っているし、日本が社会的/経済的に崩壊していく中で、しかも、日本の外国人に対する扱いの酷さが広まっている状態でどのくらい増えるかはわからないですが、どのような存在であれあるがままとして捉えるよりないのは、最早避けようがないことなんだ。と言う諦めのような物を持っていくより、今の流れはやりようがないんですよ。
外国人と隣り合わせに暮らしてる人からすれば(私もですが)、お互いの文化が違うからと言って疎遠にできるわけでもなし、かと言ってこちらが日本人だからと上から目線で何か要求するなんておこがましすぎるし軋轢の種にしかならないのだから、上手いこと距離を作ってくしかない訳ですよ。
そういう、生活に根ざした実感というものが、上野氏の言葉には全く見られないし、多分、この国の多くの「インテリ」「リベラル」にもそのような実感がないか非常に薄っぺらいものでしか無い。

この部分を、どう考えていくか。と言うのが、実は、この、崩壊し始めて崩壊が加速していく日本という国を、どのように建て直していくかという事にとって、非常に重要ではないかと考えるし、そのことに対して、私達一人一人が考えて、その上でどのようにやっていくか自分自身で振る舞いなどを決めていくしか、実は無いのだと思います。

余談:社会と科学者から科学哲学が欠落してる件について。

※追記:2018年12月28日にnote.muで有償公開しました。100円です。気に入られましたら、投げ銭購入をお願いします。

 

昨日、こんな匿名ダイアリーがあることを知りました。

その1 「■早野龍五のやっていることは決して科学的手続きではない 」 (1/9)
http://anond.hatelabo.jp/20170109214808

その2 「■早野龍五のアウトリーチとやらはどちらかと言うとニセ科学である」 (1/19、その1の続きの投稿)
http://anond.hatelabo.jp/20170119160109

 


これらは、実は昨日まで存在すら知らなかったのですが、私が1/11に書いたエントリやその直後にスラドに書いた中身と同じ主旨の話をしているという所が相当あって、それが、科学の現場に携わってる方から出たというのが、なんとも救いようのある話だと思うのです。

この人の主張は、

  • 早野龍五・東大教授は、原発事故直後から放射能が安全だと繰り返してきたが、そこに対しては、過去に決められて、既に問題点が多く出されてるIAEAなどの国際基準をオウム返しに主張してるだけだ。
  • そして、その基準の決定の不透明さや、放射能被害の実態に合わないと言う批判的な指摘に対して、ニセ科学だと切り捨てている。
  • 絶対に安全。などの、未来未知の話に対して、「絶対」などと言う言葉を軽々に使いすぎており、それは、科学者として根本的に問題がある態度だ。
  • ストロンチウム90に関しても、汚染や健康被害がないかのような主張を繰り返しているが、ストロンチウム90は測定困難であり、しかも、体内に入れば長期間体内にとどまって臓器を破壊することが分かっているが、ストロンチウムが実際どのくらいの割合で体内に入るかは、未だに確定した割合の数値が出せないくらいに未知の状態だ。そもそも、どのくらいの環境汚染になってるかという具体的なデータも未だに出来ていない。
  • 早野氏が行ってきたような主張の仕方は、多くの人を安心させると同時に、放射能被害を危惧する人たちに対して「放射脳」などの悪意のこもったレッテルと攻撃を招くことに繋がっている。
  • 本文(リンク先の匿名ダイアリー)では、福島の汚染や食品汚染が安全かどうかは論じないが、早野教授たちが安全である(もしくは被曝被害は軽微だ)と主張する時の言い方が、余りに断定調であることは、現実に起こってることや、今分かってる知見の程度を考えると、到底科学的とは言えるものではない(追記)。
  • 早野教授は、科学に対して科学的な態度ではなく、政治的な・自分や周囲の立場を高めるための政治的な態度で接し続けている。このような態度を取る科学者と、そうではない科学者が半々づつという状態が、日本の現状だ。

まぁ、こんなところだと思います。

私が1月11日に書いた「権威主義が壊してる社会」( http://rebuild.hateblo.jp/entry/2017/01/11/151905 )では、科学界で主流である人が、科学的な態度から大きく外れた態度を、2011年3月11日以降取ってることと、その言葉が権威の言うことだから。と言う理由から、多くの人たちが信じてしまい、放射能被害を訴える人々や放射能被害の恐怖に怯える人々を、孤立と社会的排除に追いやってることの酷さ。のような事を書きました。

そして、翌日、議論サイトのスラドで、冒頭に出した匿名ダイアリーが書かれるきっかけになったであろう、早野龍五教授が行った発言に関するトピック(『早野龍五教授曰く、「福島に生まれたことを後悔する必要はどこにもない」』 https://srad.jp/story/17/01/12/0457222/ ) が出て、そこでも私が幾つか書いて「荒らし」扱いされたのですが、その中の一つを再掲しておきます。

https://srad.jp/comment/3142988

棄民を推進する言説(Re:住めなくなったことだけで (スコア:-1, 荒らし)
by Artane. (1042) on 木曜日 1月 12, @06:00午後 (#3142988) ホームページ 日記

こういう言説を、原子物理学とか放射線医学の「権威」の人達が取り続け、それを後ろ盾にして世の中の権威や権力におもねりたいだけの人達が、そうではない人たちを「放射脳」などと、狂人のように扱い続けるという地獄絵図が、今の日本にはあるわけです。

偶然昨日書いたBlogの文 [hateblo.jp]の続きとして、気力体力が出来たら書いてみてもいい問題ではあるんですが、福島県が事故直後に、県民を縛り付けるために、ものすごいコストを払ってるわけですよ。
県内マスメディアが、県が招請して講演活動を始めた「放射線医学の権威」の言葉を援用する形で、浜通り放射能被害の大きかった郡山市などから避難する必要はないとか、NHKを中心に「絆」(今は一番嫌いな言葉です)を強調して、地元で頑張れと、暗に強要したりとか。

メルトダウンが確実に起こってるのがデータから明らかなのに起こってないと強弁し、テレビカメラの間で原発が爆発しても、なんだかんだ言って、認めず、五年経って東電が【メルトダウンでした」と言っても、過ちを自己批判一つしない。
同じような構図が、放射能汚染や「除染」、食品汚染でも起こってるんですよね。

要は、上からの同調圧力と、そこに沿った権威達の言葉によって、宮城の南部や福島や茨城の北部や山形の一部、千葉のホットスポットと言った、放射能汚染が深刻で除染は焼け石に水にしかならないような状態になるのが目に見えてた地域の人達を、棄民に追いやろうとしてるんですよ。
自分たちが間違ってなかった。と言う事を続けたいだけの人たちによって。

そういう流れがなんで起こったかと言えば、今考えるに、原発を推進してきた側が強調している「クリーンな原子力」「温暖化対策には原子力」と言う、根本的に間違ってると考えていいような命題に対して、この国の主流派の学者たちが、総じて自縄自縛に陥ってしまったんだと思うんですよね。

その中の、自縄自縛に陥るに至る大きな役目を果たしてきたのが、今回の早野龍五であり、阪大の菊池誠ではないかと思うんですよね。

マトモに民主主義が機能し、もしくは、公正な刑事行政や司法が機能している国ならば、真っ先に逮捕されて、東側の国なら強制収容所おくりになっていても、当然なくらいの犯罪的行為を行ってるのに、気がついてないとでも言うべきか。

# あ、このままブログに書いてもいいかもしれないな(;´Д`)

 
このブログで、特定個人を非難することは極力避けたいのですが、しかし私は、早野龍五教授にせよ、大阪大の菊池誠教授にせよ、根本的な科学的態度が欠落していて、広い意味での「政治的利用」を、科学に対して行ってると同時に、知的に怠慢で科学哲学の類が著しく欠落していると見ています。
そして、この国で発言力が強くて、しかも研究予算やスポンサーを付けて大きな研究をできる学者さんたちやそのお弟子さん達の大半が、そういう状態なのではないかとすら思ってます。

そうでない学者さんが少なからずいることも、私は知っています。しかし、そのような学者さんの多くは、特にその事を主張すればするほど、最低限の予算での研究を強いられたり、そもそも講師や助教や助手よりも上の地位にはなれないという状態になってる訳ですよ。例えば、昨年京大を退官された、小出裕章先生のように。

そして、更に嘆かわしいのは、この、「主流的な学者さん」達や、そこに追随してる「ジャーナリスト」に、著しく科学哲学や広い意味での倫理観・科学というものに対する根本的な態度が欠落していることと同時に、そのようなことを見抜けず・見抜かず、「被曝を怖れてる人たちや放射能汚染を批判してる人たちは、根本的に頭がおかしい」的な言葉自体やそれを間接的に煽る言葉に対して、コロリと染まってしまってる人が、今の日本では存外に多いということなんですよね。

なんで、そんな状態なのか?確かに、科学は難しいんだけど、どのように現象に向き合うか、常識を抱えつつ、常識の外側にも問題はあるんだ。という事を自分に律し続けるような原理原則で物事に臨むという部分や、科学というものは、なんのためにあるのか。と言う、基礎的な倫理観の部分だけであるなら、多くの人が、この人にはそれらがあるのかないのか。と言う部分は感覚的に見抜けると思うんですけどね。しかし、今の日本では、「常識」に、左翼の多くですら絡め取られていて、常識を超えた状態が起こってると言うとことで原理原則に立ち戻れない人は資質に問題があるし、そのような人たちが信奉して広めてることには、まずは眉に唾をつけて疑わないといけない。と言う慎重さ・臆病さすら、持たないことが正しいかのような話が蔓延してるわけですよ。

こういう、多くの人が根本的な倫理観とか原理原則に注意を払わないで、相手の社会的立場にだけ配慮して、そこで物事の良し悪しを判断してきたことが積もりに積もって、誰もが抜け出したくても抜け出せないような形で、日本社会が破壊されてしまってる。と言うのが、私の主張の根本で、そこを乗り越えていくためにも、放射能汚染とか被曝被害の問題というのは、非常にいいケースだと、私は思うのです。

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