社会がもてはやす「正義の人々」が、酷い差別や無視をすることでの、社会の大きな損失。

 なんとも、気候の変動が凄まじくて、身体が弱りすぎてる昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか。
 更には足の筋肉が弱ってきてるようで、これをどうしたものか、ずっと考えてしまっております。
 みなさんも、お大事に。

「わたし達は買われた展」が称賛されてる影で起こり始めた「#MeToo」。

 「私達は買われた展」と言うのが、NHK Eテレで特集されたのもあって、非常に持て囃されてはいるのですが、この展を主宰してた仁藤夢乃氏が、いわゆる「オタク」的な人たちに対する悪意的なウソをつく人達と一緒になって「オタク」を誹謗中傷したり、秋葉原では児童買春や児童ポルノが野放しになってる。的な出鱈目極まりない話にのっかって、男性たたきなどをやってきていて、その事で、元から批判がされてきていた訳ですよ。
 で、仁藤氏が、中学生時代に非常にグレていて、いじめの被害にあった。と言う当事者の告発が、最近あったわけです。
 彼女は当時非常にグレていて、学校に携帯を持ち込んで男性客にこびた電話してたり、自分に対して酷いいじめを仕掛けて煽り、自分は散々な人生を送る羽目に追い込まれた。今、マスコミなどが彼女をもてはやしていい人のように扱っているのが許せない。
buzz-plus.com
 この告発の前に、被害者は謝罪を要求したりしたようですが、仁藤氏は無視してた。
 被害当事者にとって、非常に大変な告発と暴露であったと思うのですが、これに対して、仁藤氏と一緒に活動をしてきた人々・人権活動家たちが、揃って「顔を出せ、出せないなら黙れ」「嘘つきだから相手にするな」などの、誹謗中傷を始めてる訳ですよ。
togetter.com

 非常に「面白い」事に、この人達は、伊藤詩織氏の性暴力被害事件では加害者を非難し(これは事の経緯を見ても、当然のところだろうと私も思うのではありますが)、最近だと、財務省事務次官が酷い下品な発言や行動を、テレビ朝日の女性記者などに繰り返してるのに対して、財務省や麻生財務大臣が「本当ならば顔を出して言え」とか挑発していたことに対しては、けしからん、人権問題だから顔を出す必要はない。と言ってるわけですよ。
www.huffingtonpost.jp
 要は、自分達の「仲間」の蛮行とか酷い行いに対する活動に対して、被害を名乗り出た人に酷い脅しや圧力、中傷をかけてきてる人達が、「女性」それも、自分達が「仲間」だと思ってる「女性」が被害にあったら、手のひら返して「仲間の被害者」にやってるのと同じことをやってるのはけしからん!となってる訳です。

 こういう行いは、一つ二つならまだしも、何度も繰り返してるものですから、多くの人からは信用されなくなっちゃってる部分が相当あるわけですよ。

根強くある、「オタクは差別されてない」説に基づく、差別発言や差別行動。

 もう一つ。
 「反差別運動vsオタク」と言う、ネットでの対立がどんどん悪化してる訳ですよ。
togetter.com
※これを書いてる4/19、現在進行系で問題が進んでいるので、まとめがまだないようです。

 反差別運動というのは、「レイシストしばき隊」であったり「ANTIFA」であったりするのですが、その人達が、前から「オタクはキモい」「キモオタ死ね」「キモオタを取り締まれ」と繰り返してきてる訳です。
 そして、その理由というのが、大昔とはいっても十数年前に、オタクっぽい感じにしている・だけど、実際には、当時非常に差別を受けていた「オタク」の人達を取り込むために、オタクのフリをして世間を騙していたような、自民党ネットサポーターズにつながるような人達が、「嫌韓」であったり「朝鮮人へのヘイトスピーチ」であったりを、ひどく煽って暴れていたから、「男のオタクとは、全てレイシストだ」と言う、非常に間違った認識をしてしまい、その認識から全く認識を上書きせずに長年来続けてるからだ。というのですから、まるで、「韓国人はどうこう」と、20年前の話を未だに持ち出してバカにしたり嫌ったりしてるのと変わらないのですよね。

 もっと厄介なのは、その非常におかしな状況認識を、彼らの周囲にいる「リベラル」を自称してる人達が一緒になって持ってて、それは違うんじゃないか。という人が、殆どいないということなんですよね。
 この人達は、フェミニズム運動とも距離が近く、一緒にやってきた人も多くいますし、韓国の方で、「メガリア掲示板」と言う、フェミニズムを支持してるのはいいんだけど、男性に対する罵詈雑言・ヘイトスピーチを繰り返し、実社会でのテロに近いような真似もくりかえしたことから、韓国のネット社会を酷い対立に追い込んでる人々と、非常に深いつながりを持ってる人も少なくないという事もあって、「男オタク」に対しての、嫌悪感というよりも憎悪・憎しみのような物がはびこりやすくなってるのも、多分この「ヘイトスピーチ」の何がおかしいのかわからない「風土」に繋がってるのでしょう。
女性嫌悪もすごいが男性嫌悪もすごい メガリアのキムチ女子とイルベの韓国男虫の戦い – コリアのリアル
togetter.com
 で、この人達からすると「オタクは差別されたことはない」(注:この人達の「オタク」とは、男のオタクの事を指してると思ったほうがいいです)の一点張りで、今まで何度も、オタクの当事者たちが「こんな差別を具体的に受けた」と例を挙げてるのに、全く無視してる上に、ヘイトスピーチをくりかえし、警察や行政などに取り締まりを要求する動きに「連帯」したり、男オタクに限らず、男性全般に対する、目を覆いたくなるようなヘイトスピーチや憎悪感情(男性憎悪・ミサンドリー)を向ける人達の側に立って、言われた側からの批判を、罵倒して攻撃し続けてる。

 この二つの問題は、同じ「界隈」の人達が引き起こしてる訳ですよ。「仲間」がいじめの加害者だと告発されたら告発した側をうそつきなどと非難しつつ、「仲間」?がセクハラにあって加害者が嘘つきと言い出したら非難する。特定の人達への差別を批判し法律での差別取り締まりを要求している人達が、別の差別をしてるのを批判されたら、開き直る。
 こういう、ダブルスタンダード、自分勝手に基準を動かすことをくりかえしていたら、支持されるわけがない。と言う感覚・危機感が、全く無く、まるで、その場その場の感情とか衝動だけで、物事の善悪を決めて、それがいさめられたら、お前らは差別者だ悪だと非難するばかりで、場合によっては暴力も振るうし、いさめる人達や被害を受けたという人たちのことを、誹謗中傷してののしり、「勝った」気になってる。

自分達の理屈や感性だけで人々を決めつけないことが、社会を押し付けずに変える為に必要ではないか?

 こういう感性・品性では、人々に「善意」を押し付けることは出来ても、彼らを納得させたり、よかったと思ってもらうことは出来ないわけですよ。「善意」の範囲が一緒の人というのは、どんな思想であったりつながりであったり、価値観であったりするかに関係なしに、非常に狭い範囲でしか無いと私は思うし、実際、私が見てきた色んな人達の感じだと、あんまし間違ってないだろう。という程度には思えますし。

 ここを、私達自身が何かを動かそうという時に、きちんと考えていかないといけないし、私達自身が、「あのような人たちになってはいけない。なったら、後は無限の地獄の対立しか無い」って、腹を括っていくしか無いと思うのです。
 あのようなありようは、社会を壊すことは出来ても変えることは出来ないのだと。

所得格差が教育格差になっても仕方ないと諦めるよりも、身の回りを皆で自力で変えてく必要性。

 一気に気温が上がったと思ったら下がり、上がり…皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は、冬の間の耐乏生活がたたってか、身体が痛いのです。世の中を見ていても、私よりも若い人が急死したり昨年くらいに発見されたガンなどによって亡くなったりすることが多くなったように思います。七年前の原発事故直後に、チェルノブィリ原発事故の事を踏まえて何人かの人がしていた「予言」が当たってるのではないか。と非常に疑ってますが、今日はその話は後回しにしましょう。

「教育格差は仕方がない」と諦めてしまった半分以上の親たち。

 さて、教育格差に関して朝日新聞とベネッセが行った世論調査が、少し話題になってます。

教育格差「当然」「やむをえない」6割超 保護者に調査

土居新平、編集委員・氏岡真弓

2018年4月5日04時00分
 朝日新聞社とベネッセ教育総合研究所が共同で実施する「学校教育に対する保護者の意識調査」の結果が4日、まとまった。全国の公立小中学校の保護者7400人に聞いたところ、教育格差について「当然だ」「やむをえない」と答えた人は62・3%となり、4回の調査で初めて6割を超えた。また、子どもの通う学校への満足度は83・8%で、過去最高となった。
(以下略)

www.asahi.com

 これを格差の容認と考えるべきかどうかと言うと、容認してない人が大半を占めてると見てるんですよね。ただ、格差を容認したくなくても、現実にできてる格差に対して、自分や周りがどうにかできるものではなくなってるから、「現実を受け入れて」あきらめる。格差が開くにしても自分達が何もできないからそのまま受け入れるしかない。と言うムードが、物凄く強くなってるんですよね。
 これは、別に教育の格差に限らず、仕事の格差・給料や収入の格差、そして結婚や交際の格差まで、あらゆることに拡がってると思うんですよね。その上で、同じような「階層」・場所にいる間でちょっとした違いであっても、いい扱いを受ける人がいると許しがたいという話にもなってる。そして、更には、偉い人や空気を掴んでる人がだれそれが許せないと言って煽れば、そうだそうだと思うことが当然だと思ってしまってる。

 こういう中で、「格差は仕方ない」と言う「諦めムード」が、非常に拡がってるというのが、結構困ったことだなと思うんですよ。ある程度以上の地位を掴んだ人や、収入や資産が多い人でないと、身の回りの現実を変える権利もなければ、現実を変えることなんてできやしない。現実を変える資格があるのは、偉い人・空気を掴んだ人・総理大臣くらいのものだ。と言う諦めムードと、森友問題や加計問題のような「お仲間の私物化」問題や自衛隊の日報を隠してた問題なんかが、表現がしにくいんですけど、完全にかぶってるような感じすら、私には見えるんですよね。

国は・社会は、誰のためにあるのか?と言う事を見直さないといけない現在。

 前々から何度か書いてるように、私達がいるこの社会は、非常にわずかの「空気」を握ってる人と大きな権力を持ってる人が、自分達の都合だけで決めたことに対して、文句を言ってはいけないし・変えてもいけない。黙って従わないといけない。と言う事が、産まれてすぐから死ぬまで、叩き込まれ続けてる社会な訳ですよ。個人が自分として何かを考えたり言ったりすることに対しての、非常にふんわりとした形での締め付けというのが凄くて、何かを怖れてしまってる。
 そして、道徳や法律としてあれをしてはいけないこれをしてはいけない、これは犯罪だ。というものが、ものすごい勢いで膨らみ、それも又、ごく一部の人達が自分の都合や価値観で決めつけたものだから、その他の人達は殺気立って足の引っ張り合いをしてしまってもいる。

 その結果として、社会全体が壊れてしまってるわけですよ。非常に酷い労働条件で、物凄く安い給料と物凄く長い労働時間で働き、「福祉に頼るのは恥だし犯罪なんだと思え」みたいな道徳観にもとづく空気がはびこり、更に給料が下げられ、更に長い時間働かされる。
 そんな状況で、人がどうなるかと言えば、つぶしあう事になっていくし、子供も産まれなくなる。最後は、一人で朽ち果てるか自殺するかになる。

 そういう絶望の中で、多くの人が身の回りが勝手に変えられていくことに流されて、子供の格差は仕方ないと諦めてる訳ですよ。

 そうだからこそ、国はなんのためにあるのか?税金や年金はなんのために取られてるのか?ということに、立ち返っていかないといけないと思うんですよ。国は、私やこれを読んでるあなたの上に立って、お金を搾り取って使い捨てるだけのものでいいのか。国にせよ地元のお役所にせよ、会社にせよ、私やあなたが苦しむことを当たり前と言う形で物事が決められてしまってると言う事で、どれだけの大きな損失が出てるか…

集合知を作っていけば、諦めずにやれることはまだまだ沢山あるのでは。

 しかし、頭を使って・誠意と真剣さを常に持ち続けつつ立ち回っていけば、別に権力とかお金とか地位とかなくても、お役所や政治家とつるんでるような団体などのバックがなくても、身の周りを変えられることって、結構あるんですよね。空気を握ってる人達の言うとおりに動かず、かと言って、あからさまにこいつらは潰してしまえなどと怒り狂うことにならずとも、結構いろんなことが変えていけるんですよ。
 選挙だとか投票ではなく、それ以外にあるような色んな形でできることがあるように、私には見えますし、そういう事のノウハウや失敗したこと、成功したことを多くの人の間で融通しあって、この人がうまく行ったから同じようにやってみようとか、同じやり方だと今ひとつ良くないから少し変えてみようとか、こうするとうまく行かないからここは避けておこうとか。

 そういう事を積み重ねて、幾らかの人達が多少でも成果を上げていけば、今度はそれを積み重ねて法律なり条例なりで、そこまでそういう風に苦労して試行錯誤したことをやらなくても、誰もができるようにするように押して行くということも、できるようになる。

 こういうことというのは、日本の学校教育の中で、非常に嫌われてきたことではありますが、しかし、そこができていかないと、格差が広がるのを止めることはできないし、それは、社会が壊れていく時に、止めるのではなく壊すことを煽ることにすらなっていく。

 私達は・私やあなたは、既に、非常に危うい所にたたされていて、今までのように、流されていればどうにかなるという時代ではなくなってる。と言う覚悟をして、生き残りと多少はましな明日の為に、やれることをやっていく必要が出てると、思うのです。

森友問題での「被差別部落デマ」から、この国の言葉のありようを考えてみる。

 春になりました。この時期は、どうも天気やなんやの影響を受けやすいようで、色々身体的に困ってる間に三週間近く過ぎてしまいました。みなさんも、お気をつけて。

佐川元理財局長は、何を守ろうとしてるのか。

 さて、今、森友事件での財務省・佐川元理財局長の証人喚問が行われていて、この間の報道でどんどんと「ウソ」が本当にウソだったということが暴かれてるのに、佐川氏は必死になってウソを支えてしまってる訳ですよ。ここまで加担してしまっては、確かに、今更引くに引けないという気持ちもわかりますし、そもそも、これが、政権与党や一部野党(維新の会など)だけではなく、大阪の地方財界の経済犯罪と「保守」を自称してる人達の思想を人々に広める…強制と言ったほうがいいかも知れません…事が、複雑に絡み合って、引き剥がしようがなくなってる事件である。と言う事を考えると、まぁ、ここで「良心」を出して事実を言い出せば、それを良くないと考えて報復に出て危害を加えたりする人達も少なくないでしょから、仕方ないのでしょうね。
mainichi.jp

 ただ、私が思うのは、この間の事件での「保守」を自称してる人たちに限らず、与党もそうだし、更には、左派とかリベラルを自称する側にも、「ウソを並べて人を動かして、結果がどうなっても知ったことではない」と言う事をやることが、あまりに多くなりすぎてる事が気になって仕方ないということなんですよ。最近だと、森友学園が「安倍晋三記念小学校」を建てようとした土地を財務省が格安で払い下げたのは、あの土地が被差別部落が関わってる土地だからだ。と言う、何重にもありえない上に人として流石にいけないだろう。と言うウソを、「保守」を自称する学者さんやジャーナリストやタレントが、派手に、本当に派手に拡散していった事があった訳ですよ。
須田慎一郎氏、森友問題に関連する『関西3つのタブー(アンタッチャブル)』解説 「この3つに一番毒されているのは既存メディア」 【虎ノ門ニュース】: テレビにだまされないぞぉⅡ

「ウソも大声で拡散すれば真実になる」社会で、殆どの私達は疲れ切っている。

 こういう、人の道としてどうなのか。と言うウソが、昔から、威勢のいい人たちによってばらまかれ、ウソがウソで事実じゃないと、ウソで被害に遭う立場の人が言おう物なら、「お前は差別的だ」「反日だ」などの、色んな暴言を有り難くいただくということが繰り返されてきたわけですよ。
 これは、「保守」「右翼」に限らず、一部の左翼・特に、フェミニズムを掲げる人達が、そういう事をくりかえして、世の中の流れや議会や警察などを、自分達の都合よく動かしてきたのが、日本の、特に1990年代以降のありようだったと、私は振り返る訳ですよ。

 その結果、日本は、壊れてしまったわけです。みんな疲れ果ててもまだ、何かに怯えるかのように暮らし、些細な違いを叩く人達の間で潰し合い、片方の側に立って、人として言っちゃいけないような事を大声で言う人をやんややんやと囃し立てるばかりか、自分もそうならないといけないとばかりに、大声で言う人の輪に飛び込んでいく。
 つぶしあいとお互いを監視し合うこと、そして、その上にいる人々や組織…警察であったり、今の与党や官邸にいるような人達であったり…だけは、どんだけむちゃくちゃやっても見逃されるし、酷いことをしても裁判所すらお墨付きを与えるし、そうなるから、子供が生まれなくなるし、経済はどんどんとやせ細る。

 経済なんかにしても、大半の人の生活は物凄い勢いで苦しくなってるのに、国は経済が良くなってるといい続け、経済が良くなってるから税金も上げます、福祉は下げます。とくりかえして、尚更生活が苦しくなってる。でも、その苦しさを言えば、「威勢のいい人たち」が「そんなことはない、お前は嘘つきか反日だ」と叩きに来るのを何年間も繰り返してきたから、苦しさを言う事を、殆どの人が控えてしまってる。

 日本は風通しが悪くなってる訳ですよ。ただ、昔は、少数派や世の中の空気・それもマスコミが言ってることそのままの事を写しただけの空気に対して批判したり、苦しめられたりする人達には、本当に情け容赦ない攻撃がされていて、それは、警察やお役所が法律を破ってすることから、「村八分」まであった訳で。
 風通しの悪さで言うなら、昔よりはマシと言えなくはないのですが、しかし、今は、それとは別の意味で、風通しが悪くなりすぎてる。まるで、少数派が無視できなくなったから・マスコミの作った空気が万能ではなくなったから、別の「圧力」で風通しが悪いままにしておきたい人達が、人々を煽ってるかのようにして。

「ウソが一番強い社会」を、どうやって乗り越えていくか。

 今、そういう「ウソが一番強い社会」「風通しが悪くないといけない社会」が、長年続いたことのツケと責任を、私達全てが払うことを迫られてるように私には見えるんですよ。
 森友問題や加計問題、後、今日の「週刊朝日」が後追い報道した、渋谷区の社会福祉法人・福田会(ふくでんかい)への、不可解な国有地払い下げ問題なんかもそうですが、この国が、あまりに少数の人たちによって…別に今の政権や取り巻きの人たちに限らず、フェミニズムを自称する人などの、一部の左翼やリベラルも加担してるわけですが…、その人達の都合いいように・その人たちが「正しい」と独りよがりに思う「正義」の為に、沢山の人達が、苦しまなくていいことまで苦しむことになり、それが「あまりに少数の人達」が勝手放題してるからそうなった。と言う事に、やっとのことで多くの人が気が付き始めたのが、今という時代なんだと、思うのです。
publications.asahi.com
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 結局、この「あまりに少数の人たち」がやった事に対して、きちんと罰を与えてやらせないことや、今までのように社会を仕切るかのような事が出来ないような立場に追い込むことも大事ですし、これからの社会の有り様として、「少数の人たちに任せる」「少数の人たちが言う事を、あんまし考えないで素晴らしいとかくだらないと言ってしまう」と言うところを、徹底的に減らしていかないといけないと思うんです。それができなければ、数十年もしない内に、今のようなことが繰り返されるどころか、もっと悲惨なことに簡単になってしまう。

集団が何かをすることから、小さな個人が集まったり離れたりして、大河を作っていくようにしよう。

 その為には、今のような「安倍辞めろデモ」に集まってる人たちのような有り様でもまだまだダメで(あのやり方を突き進めると、結局、「あまりに少数の人たち」が入れ替わっただけで終わってしまいますよ)、もう少し広い人が、政治とか関係ない身の回りのことでも、一つ一つの事だけ物事を決める輪に入り、他のことでは外れたり、反対側に廻ったりする。と言う、非常に細かいつながりを作っていき、それが大きないくつかの流れになって、ぶつかり合ったり交わったりすることで、社会が動いていく・社会が決まっていくように、私達一人ひとりが、物凄く注意しながらやってくようにしてかないといけないと思うのです。

 もう、水戸黄門にまかせておこうなんてのは、やめてしまおう。と言う覚悟が、私達に一番求められてるように、思うのですね。

東日本大震災の原発災害のてんまつと、森友問題での財務省「陥落」の報道の二つで、考えてみる。

 さて、東日本大震災から七年目になりました。14時57分(訂正)14時46分の地震の後に、15時半前後から壮絶な大津波が、北海道・青森から千葉にかけての太平洋岸だけではなく、東京湾などにも繰り返し押し寄せてきて、非常に多くの方々が流され命を喪いました。
 どうか、14時46分だけではなく、15時30分からの一時間半程度の範囲のどこかで、津波に呑まれていった方々に思いを馳せて黙祷などしてほしいと思ってます。

 最初は、そこから話を始めていこうと思います。

 そして、繰り返しあった大津波での原発設備の破損と杜撰な系統設計だった電源喪失によって、福島第一原発で、最低でも四台の原子炉がメルトダウンメルトスルーし、原子炉の中で臨界暴走をはじめてテレビカメラの前で大爆発を起こしたり、使用済み燃料をおいてあったプールで核燃料がぐちゃぐちゃにかさなり、触発臨界の疑いすらあったような事態にすらなりました。
 この時に、原子力発電所の周囲にいた人達の多くが津波に流されていると訊いていますし、又多くの人は、原子力発電所メルトダウンや臨界暴走、建屋の爆発に巻き込まれたかのような周りの所で、亡くなられて、野犬などに食べられてしまった方までたくさんいたと、「立入禁止区域」に無理やり入って状況をルポした何名かのフリージャーナリストたちの記事では述べられていました。

「絆」と言う言葉が好きだった私が、「絆」が大嫌いになった理由。

 生きて避難できた人々も、原発周囲と言っても郡山やいわき・丸森辺りまでの広範囲な「周囲」の住民たちは、事故時点でいた場所によっては高濃度の汚染をかぶることになり治療など受けてましたし、それ以外の人達も、困窮と放射能汚染の恐怖の中で、なんとかして県外に移住して家族の生命の安全を確保しようとすれば、色々な人達から「放射脳」「卑怯者」などの罵詈雑言を受け、テレビもテレビで何かにつけて「絆」(私はウルトラマンネクサス以来この言葉が凄く好きでしたが、震災後の一ヶ月後からの使われ方を見て、眼にしただけで吐きたくなるくらい嫌いな言葉になってしまいました)とか言って、避難すべき人を、今いる場所なり震災の前まで住んでいた場所なりに縛り付けることばかりに躍起になっていた。

 今や、原発被災者も津波被災者も、昔いた所に戻らなければならない・今まで避難してきた所に居続けるのは、お上に逆らうワガママに過ぎない。と、県職員が県外の被災者を戸別訪問して、補助の打ち切りだけでなく県内に戻るように「説得」してトラブルが起きたりまでしてるんですよね。

 そして、たべもの。
 放射能汚染にせよ、汚染されていても大したことはない。と当時「エア御用」などと皮肉めいたあだ名を付けられていた「科学者」「ジャーナリスト」「文化人」がたくさんいました。彼らからすれば、セシウム同位体ヨウ素同位体だけ測って、国の基準を0.1ベクレルでもクリアしていれば、なんの問題はないんだって、大声で言ってた訳ですが、それに対して、ウクライナベラルーシの現実に起こってきたことと全く違って信用できる話ではないと言う批判が沢山出て、それは、茨城・福島・宮城・岩手の農水産物ボイコットの動きにつながっていたのですが、それに対して片っ端から「福島を差別するのか」みたいな無茶苦茶な攻撃をして、とうとう、彼らの言う話に疑問を投げかける人がほとんどいなくなり、郡山のように土ぼこりなどでの汚染が深刻な状態にあった地域で、道路とかを除染しても除染してもすぐに放射能が増えて戻ってしまう。と居う状態になってたのに、子供にマスクをつけさせない・保護メガネも付けさせない。そう言うようなものすごい同調圧力が働かされたわけです。

東日本大震災原発被災者たちに押し付けられた、四重五重の苦しみ。

 東日本大震災の被災者たちは、地震に苦しめられ、津波で多くの財産と家族や友を奪われ、原発事故で家も奪われた末に、東京あたりが考えたような「わかりやすい」三文芝居で「絆」「郷土の誇り」を押し付けられて、がんじがらめにされて動けなくなってる。甲状腺がんや循環器疾患などの急激な増加や生命の危険に晒されても、そのことがなかったかのようにする「学者」「ジャーナリスト」「政治家」のちからがあまりに強く、実際に被害を訴える人、不安を訴える人、そして、そのような状況を改善して生命と健康を保証しろと迫る政治家達…山本太郎に限らず…の全てに対し、「被災地差別を恥じない放射脳」「放射能デマを並べる放射脳」などの、ものすごい酷いウソと中傷が投げられるという、「四重五重の苦しみ」を、専ら、前から言ってる「自分達の責任を取らないでいようとする人達」によって、無理やり押し付けられて背負わされている。

 この、特定の人々の生命と健康と財産を救うことを考えず、専ら自分達の保身や欲望、イデオロギーのような物が複雑に絡まった何かによって、他の人々・特に自分達が「目下」だと思う人達の人権や権利、生活や生命や健康、そして、ささやかな楽しみを縛り・奪い。更には「目下」の人達を自分達の都合よく操り、それらのために、外側にいる多くの人達を騙し・脅し、恫喝し、さらには都合いい話だけで洗脳までしてしまうような、厄介な人達が、あの大震災以降、どんどんと力を増して、菅直人元総理や菅内閣との権力闘争にはしったのだろうと、私は振り返っています。
それは、大体5月か6月位。地震津波の恐怖が一定程度治まって、ではどうやって復興すべきか。となった時に、マスコミが「食べて応援」「被災地の絆」とかの、ものすごいプロパガンダCMを洪水のように流していたじゃないですか。その少し前辺りから、菅政権の原子力政策のブレが見えてきて、どうもそれは、内閣はブレてないけど、特に経産省の中枢にいるような官僚が「ブレさせ」ようとしてて、その為に、当時の民主党内の一部の議員と組んで、菅内閣潰しと傀儡内閣の樹立に走った…要は、経産省などが菅内閣に対してクーデターを起こし、勝ってしまった事に、この十年間という範囲で考えての、今の崩壊がどうしょうもなくなってる状況につながる道があるのだと、思うのです。

野田内閣とはなんであったのか?そして、安倍内閣は誰によって作られたのか?

 野田内閣は、多分、野田元総理は真面目に求められていたことをやったのだと思います。真面目すぎるくらいに。でも、それは、いわゆる「国民」を向いてなくて、ましてや原発を動かして又生命の危険を感じさせられる人々や、マトモなケアや避難の権利を求めているような、原子力災害の被災者たちのほうはほとんど向いていなかった。クーデターで勝った経産省やその背後にいる政財界の人々の方しか向いていなかった。そのことが、多くの人たちに「民主党ではダメだった」と居う失望をもたらしたと同時に、「政治に関わっても自分の周りは良くならない。政治に関わっていてもしょうがない」と居う人たちを、膨大な数産み出してしまったんですよね。「自分達は自分達の力で何も変えられないんだ。政治については。」と言う、絶望の闇のようなものが広まっていった時に、自民党の中でも「極右」に近いような人たちが台頭し、安倍晋三を相殺に担ぎ上げ、2012年12月の選挙で勝ってしまった。

 その後安倍内閣がやったのは、マスコミと霞が関全体をアメとムチで「飼いならし」、社会システムもネットを含めた言論も、勿論税金や公共財産や法律も、あらゆるものを私物化していくことでした。
 そして、自分達・安倍晋三個人ではなく、彼を担ぎ上げてきたカルト宗教や日本会議原子力業界や経産省、そして、官邸の人事を見ていて気がついたところでは、公安警察も含めた形で、この国を徹底的に私物化し、国民や住んでる人たちから徹底的にお金を吸い上げるだけではなく、色々な権利・特に、健康でおだやかで文化的な生活を送り続けることを国が保証してきたいろんな制度や福祉やなんやを全て「ぶっこわし」、国と言うより国の看板で権力振るってるような人たちの下で文句を言わずに24時間働き、大した教養も現実への疑問も持たず、むりやり背負わされた苦しみを一人で抱えて、それに耐えきれなくなったら孤独に病気や自殺で死んでいく。という「模範的な」国民を、「教育改革」と称して、本格的に大量生産しようとした訳ですよ。

一年前に「全国区」になった、森友問題と籠池理事長証人喚問を振り返る。

 その中で、森友学園問題が全国的な問題になり、当時の籠池理事長が安倍総理大阪維新から切り捨てられかけた時に、人のつてで野党の人たちや左側で沖縄などに行ってるような個人活動家の人達が話を訊き、話をし、「自分は素直で勤勉で信仰にも敬虔だったから、悪いのにハメられてたんじゃないか」と気づきはじめて色々マスコミでも言い出したら、国会にいきなし証人喚問で呼び出された訳ですよ。
 証人喚問の中継は、全て通してみてますが、その前後の官邸や自民党の発言を含めて考えると、自民党や維新、公明党は、「愚直すぎるくらいに働き者の籠池氏だから、国会で喋らせた上で追い込みかければ直ぐに土下座するか、土下座しないなら簡単に『公開処刑』できるだろう」と確信して、籠池氏の証人喚問をいきなりやった感じがあるんですよ。籠池氏を「公開処刑」すれば、他の関係者は口を閉ざすし、野党もマスコミも追求できなくなっていくだろう。そういう目論見があったんだと思います。

 しかし、籠池氏にせよ籠池氏に「助言役」で付いた山口貴士弁護士にせよ、彼らのほうが、頭のキレだけではなく能力も胆力も「考える人」としての誠実さも、圧倒的に上だったので、色んな場面で切り替えしたりなんだりして、「公開処刑」を返り討ちにしていったわけですよ。

 ここから、籠池氏夫妻が無理やり牢屋に入れて周囲から隔離されたりなど非常に許せないことが沢山あったし、加計の問題やスパコン詐欺、レイプ隠蔽事件などでも総理と総理の周辺は逃げ回ってますが、証人喚問から一年ほど、色々な人達が諦めず、粘り強くやり続けると同時に、ネットという「場」が中心だったとは言え、色々な議論が深まり、情報交換も進み、集合知の力も発揮され、今まで安倍総理や警察の恫喝などを怖れて「忖度」していた新聞やテレビも、本気でこの内閣を退場させようと始めた結果、財務省が森友問題に関係する決済文書を、国会議員に渡したものに関してねつ造したり、今日になって、「複数の政治家の名前が乗っかっている部分を削除していた」なる財務省からのリークの報道が、始まりました。
https://mainichi.jp/articles/20180311/ddn/001/100/005000cmainichi.jp
www.news24.jp
 なんとも、長かったですし、ここからも、非常に長いと思います。

今の政権は、安倍総理だけの「独裁」ではなく、背後にいる邪な人々による「独裁」だったのではないか?

 今の政権は、安倍晋三という個人や菅(すが)官房長官、麻生財務大臣などの有力政治家だけが悪さをしてるのではなく、彼らを前に出して、その後ろで酷い悪さをしてきた一部官僚や警察の一部、経営者などの経済人や文化人の類の方が、もっとえげつない悪さをしてるようだし、そもそも論で言えば、安倍晋三氏が自民党の総裁になる2012年春辺りまでは、安倍氏自体が注目されてなかったことを含めて、彼が総理大臣になることを、カネで支援してる人達だけでなく、警察などが握ってる「情報」で彼を批判する人々や対立候補をねじ伏せたのではないか。とすら考えてます。
 要は、この国を…このブログで色々な形で書いてきたことですが…壊してきた・人々から色々なものを奪い、社会を息苦しく・動きが取れず、そもそも生き延びることすら辛くなる社会にすることを加速させたような人々が、安倍晋三氏や麻生太郎氏、菅義偉氏を正面に立て、政権を奪わせ、その影で、法律を組み換え・対立する人を警察力も含めて排除し、独裁政治に向かっていたわけです。

 そして、それは、311の原発事故以降、それまで原子力を使ってこの国を食い荒らしてきた官僚や企業人たちが起こしたクーデターを完成させて、この国が後で滅んでもいいから、とにかく自分達だけがこの国の富を吸い尽くし、この国の人々が自分達に向けて立ち上がれないように、学校教育から飼いならしていく。と居う感じに向かっていったんだと思います。

この40年間の、「上」で出鱈目をやる欲深い人々が作り上げた「邯鄲の夢」が覚め始めた今こそ、自分の目と手と足と頭で考え、議論していこう。

 しかし、そのような出鱈目が長続きする訳がないのですよ。国は、上にいる偉い人が作って決めて、その事で下の人達を支配するというやり方だと、どんどんと腐敗するだけでなく、社会が疲れ果てて、子供もできなくなり、犯罪に走るか自殺するかをみんなが迫られ、最終的にはぺしゃんこに潰れるんですよね。
 そういう、教養と言ってもいいような部分の知識が、自分の血肉になってるのならあまりに怖くてやりたくても出来ない事を、この国の「上」の人達は、311以前から、中曽根政権の前後から積み上げて行って、「天下」を掴んだのです。そして、それは、この一年ちょっとで破滅していっている。まるで、天皇が昨年頭に詠んだ句にある「邯鄲の夢」そのもののように。
天皇陛下の御歌に隠された凄み

 311の件にしても、嘘偽りのない・ありのままの汚染情報や被災地の状況、原発が楽観視出来ないことを、正面から逃げずに見た上で、自分の頭で、何らかのイデオロギーとか政治的正しさとか権威とか有名人の物言いとかに絡め取られないように、豪快かつ繊細に、しぶとく考え続けていくことが、今のような「邯鄲の夢」が覚めつつある状況では、その次の社会を私達一人ひとりが、きちんと議論を重ね、いくつもの流れを作っていく中で、殆どの人が幸せだと実感できるような社会にしていく。生命や生活の不安を最低限にするような社会や「国」のありようにしていく。と言う事を、誰かどこかの『エラい人』の「邯鄲の夢」になるような社会に再びおとしめない為にはなおさら、真剣に考え・覚悟する必要があるように、思うのですね。

森友学園問題での公文書ねつ造問題からみる、国への信頼感の裏でうごめく悪い人々の、影。

 色々と書こうとは思いつつつ、別件にかなり力を入れていて、こちらを書くだけの時間を確保できない内に、なんだか色々と世の中がうごいてしまいました。

 森友学園への国有地払い下げ問題で、財務省と近畿財務局が国会に出した書類が、露骨に改ざんされていた。と言う事を、朝日新聞が報道しました。金曜の朝からその話がTwitterでも、多くのテレビ局でも、くり返し飛び交っています。
 これ自体は、この問題が浮上したかなり早い段階から「なんか書類のねつ造みたいなことをやってるんじゃないか」と言う声・意見が、少なからずネットでは言われていたんですよ。多くの人が、国が出してきた「証拠」が胡散臭いと思っていた。
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 加計学園今治市に無理やり獣医学部を作った件で、情報公開請求した市民団体に対しても、単なる「ノリ弁」・要は黒塗りで何が書かれてるのかわからない公文書に限らず、明らかに中身がおかしい・必要な情報が抜かされてる書類が情報開示されたりしてるわけですよ。


国会の記録を都合よく書き換える人達が、役所に強引に書類を書き換えさせない訳がなかった。

 なんでそんなことを考えるような人が多くでたかと言えば、2012年の末に安倍内閣になって一年もしない内に、国会での内閣側・特に安倍総理の行った問題発言が、与党側の要求で議事録から削除されたり、山本太郎参議院議員の厳しい追及に代表される、安倍総理や政府に対するいくつもの厳しい追及や叱責とも言える議会での発言が、議事録から削除されるという事態が、当たり前のように頻繁に行われてしまっていたからなんですよ。
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 こんな事をする連中が、国や自治体の書類を書き換えさせないわけがない。そういう疑いを持たれて仕方ないだけのことを、やってきてるわけですよ。それも、半分以上流れ作業っぽい感じで。
 しかし、証拠が掴めてなかったので、そのような事を言ったり書いたりすれば、「妄想だ」「いい加減なことを言うな」と、強い非難を受けてきたわけですよ。その位、世間一般が「国」「自治体」「役所」というものが間違ったことをしない。と言う信頼感や信仰のようなものが非常に強かった訳です。
 でも、実際には、行政とトラブルになった人の裁判とかを見ていても、おかしなねつ造やこじつけを行政(国や自治体、警察など)が行って、それによって、やってもいない罪で捕まって犯罪者にされる人なんてのも、大昔から沢山いたわけですよ。「転び公妨」とかで調べると、色々と見えてくると思います。

 話が横道にそれましたが、この国では「こんなことをやるはずがない」と言う一般のふんわりとした信頼感・でも、そこには昔そうだったという以上の具体的な証拠がない危うい信頼感に支えられて社会が廻ってきて、そうであるが為に、信頼感を逆手に取って、表に出てこないようにして不正を働いたり、不正が表に出てきても被害者を社会的に孤立させ・場合によっては「恥ずかしい」犯罪者に仕立て上げることで孤立させていって、悪いことをしてきた人達というのが、沢山いるんですよね。
 そのような人たちは、大抵の場合自分達の力を過信し、社会を腐らせる先頭に立ってきていたと言えるでしょう・

「不正選挙問題」の内容は間違っていても、そこにある感情や疑いは、正しかったのかもしれない。

 不正選挙問題という話があります。
s01.jazz75.com
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 2011年の東日本大震災の半年後くらいから、頻繁に眼にするようになった物言いですが、要は、選挙の機材を作っている会社が、安倍総理らの一族が大株主であったりする事などを「具体的証拠」に挙げて、選挙の票の集計やその他のところでの不正が大規模に行われてるのを隠してるのではないか。選挙は信頼できない。と言う話です。
 これ自体、結構色々と穴があって、具体的な信頼性があまり無い話ではあるのですが、しかし、それは、裏返すと、今の自民党政権に繋がってる人達や、原発事故以降の霞が関やマスコミの「おかしさ」「ウソを真実だと言い張って世の中の空気を壊していくさま」みたいなものを敏感に感じ取った人達が、当時の民主党など今の野党勢力議席数が急激に減っていくのを見て、選挙に対する信頼を失っていったことが引き起こしたことだったと思うのです。

 これを、狂人の妄想だと言って切り捨て、排除するのは簡単だったと思うのです。実際、世間の大多数の人たちは、そうした。でも、その背後にある「社会」への不信感は、実は正しかったのではないか。と私は思うのです。この間表に出てきた色々な問題を見ていても、「今まで通りにやってれば間違いない」「この人達は悪いことはしないし間違ったことはしない」と言う社会の信頼を逆手に取って、ひどいことや悪いことをする人達が、あまりにのさばりすぎてるわけですよ。
 そのようなものを、特に東日本大震災以降自分の身に降り掛かったことと世の中の「無関心さ」のギャップの酷さから感じ取ってた人たちのことを無視するどころかあざ笑い・安易に狂人扱いしてしまった事が、この状況を招いてしまった部分が、少なからずあるように、私には見えてるのです。

 あらゆる社会システム・行政などのシステムは、なかなか変わらないように見えるけど、それが揺るぎなく間違っていなくて信頼できる。と考える人が多くなれば多くなるほど、裏で悪いことをする人達がやりやすくなるし、大半の人々が苦しむような形にシステムの中身自体を書き換えてしまうことも、やりやすくなるんですよ。
 「なんとなく」な信頼感は、世の中の関心や危機感を薄れさせ、システムに対する監視がされなくなるどころか、システムやその中の人達によってひどい扱いを受け苦しめられた人達を、「頭のおかしな人」「悪人」などとして、一瞬で社会が切り捨てる事を頻繁に起こすことにつながりますからね。

社会システムの主役がだれか、改めてシステムを書き換える好機。

 今後、この6年間で色々と悪い方向に書き換えられてしまった社会システムと、それをやったろくでもない人たちによって、私達一人ひとりが苦しめられることが多く出るかもしれません。
 苦しめられた事を言ったり、苦しめるのを止めろと「お上」に突きつけたりする人たちに対して「ただのわがまま」「自己責任」だと攻撃して孤立させようとする人たちも少なからず出てくるでしょう。
 しかし、私達はそのような事に抗うと同時に、このような不都合を個人に押し付けるシステムを、私達一人ひとりの議論や行動によって、私達寄り・世間で苦しみもがきながら生きてる人々の側にとりもどしていくようないい機会として、色々やり直していくことが必要になると、思うのです。
 今のシステムの有り様は、森友問題や加計問題に限らず、色々なことで壊れてきています。オリンピックの裏金問題でも、もうすぐ、フランスの警察が国際逮捕状を取る可能性が高まってますし、この一年間は、今まで疑ってこなかったことが疑われるのだから、それは、正しく状況を疑い、私達がシステムの主役なんだと改めて考え直すいい機会になるだろう。と、思うのですね。

下町ボブスレーのグダグダぶりと奨学金問題から見えてくる、日本の産業と社会の崩壊。

 さて、オリンピックが始まりました。私自身は、どうでもいいどころか、次の東京オリンピックが明らかに上級国民が国の富を火事場泥棒みたいに自分のポケットに奪っていくための方便になってしまってる(と言うか、最初からその目論見があったように見えています)から、やめてくれという気持ちしかないのですが。
 その中で、下町ボブスレーと言う話が、美談として取り上げられてきたようですね。
 私は前にちらりと見て、余りの胡散臭さと言うか広告代理店っぽいステマ臭さを感じて、無視するようにしてきていたのですが、作ったボブスレーを使うはずだったジャマイカの選手チームが、使うことを拒否して、日本側から億単位の賠償金が請求されることになりそうだ。と言う事で、先週の金曜日辺りからネットではちょっとした騒動になってる訳ですよ。
togetter.com

「下町ボブスレー」と言う美談の顔をしたステマが、グダグダになった日。

この経緯というのが、無茶苦茶で、

  • 大田区などの町工場がオリンピックで使うボブスレーを作ろうと言う事で、お金を集めだす。
  • なぜか、東レを筆頭とした大企業や研究所が、素材を提供するだけではなく、ボブスレーの本体の設計までやりはじめる。
  • その事で、国からこれまた億単位の補助金が、取りまとめ役の会社(町工場とは全く違う会社)などに支払われる。
  • マスコミでは、大いに盛り上がり、大田区が車の「ご当地ナンバー」として、下町ボブスレーを採用したり、スカイマークが下町ボブスレージェットを企画するなど盛り上がりが加速する。
  • その間に、日本チームは、「出来が悪いから使えない」として、下町ボブスレーの使用を拒否。
  • 仕方ないので、外務省が先頭に立って売り込みを行い、ジャマイカが採用しましょうかと答える。
  • 予選的な世界大会に出来上がったボブスレーを持ち込もうとしたが、安全基準上の問題があるからと拒否された(ストライキで会場に持ち込めなかったとの説もありますが)
  • ジャマイカチームは仕方なしにラトビアの会社の使ったボブスレーを使ったら、非常にいい成績を残せた。
  • そんなこんなで直前には、「使えないものを渡されても困ります」と言う事で、ジャマイカチームは、違約金を覚悟して下町ボブスレーを使わないことにする。
  • そして、なぜか、日本で下町ボブスレーを取りまとめていた会社や周辺の会社が、「ジャマイカに損害賠償請求する」といきり立ち、ゴタゴタ…

www.nikkei.com

 こんな感じだったようですが、出来の悪いものしか作れないのが果たして最初に始めた町工場の問題かと言うと、どうも、この町工場はソリの部分しか作ってなかったようで、その他は最初にも書いた名だたる大企業や有名大学が携わってるわけです。
そして、取りまとめ企業の主は、安倍総理との距離の近さを自慢して講演会を沢山やったり、自民党のネット番組で「安倍総理に一番近い中小企業」とヨイショされたりしてたし、このプロジェクト自体が道徳の教科書に載せられただけでなく、なぜか、使われてた写真が安倍総理が試作品のそりに乗っかってる写真だったりした訳ですよ。

下町ボブスレーの挑戦 ジャマイカ代表とかなえる夢

下町ボブスレーの挑戦 ジャマイカ代表とかなえる夢

blog.goo.ne.jp
togetter.com

 これ、物凄い問題ばかりが見えてくるわけですよ。町工場のイメージとか日本の中小企業が健在だという「美談」を広めるために、有象無象の人達がプロジェクトを異常に大きくし、マスコミやネットメディアもステマよろしく持ち上げて、その後側では、今の政権と密接に関わり(国会でも安倍総理の施政方針演説で取り上げられましたっけ)、「日本はまだまだ優れてる」と言う、メッセージのために使われてしまった。
 それだけではなく、個別の部品を作ってる会社たちはともかく、全体の設計や設計図書いてる人達が技術力がなかったり、お客(今回はボブスレー選手団ですね)が必要としてる事を全くわからず、物を押し付けて優れてるんだから、さぁ、使いなさい。と押し付けようとした。

大企業の国内での高飛車さが、胡散臭い人達を呼び込んだ?

 日本国内で、特に大企業はそうやって商売をしてきた部分が相当あるわけですよ。外国相手には、真面目に物を作らないとという締め付けがあったでしょうけど、日本国内のお客に対しては、なぁなぁで出来上がったものを押し付けて、不具合が出たり使いにくかったりしても、それはユーザの問題だから知りませんよ。そんな商売が、大手企業に限っては、本当に当たり前のように、最低でも2000年前後からは当たり前のようにあった訳ですよ。
 大企業に部品やなんやを納入したり、IT業界だと現場で実際のプログラムを書いてたりする中小企業に対しては、理不尽すぎるほどの品質要求があって、しかも、大企業の側がマトモに設計書や図面を書いてくれるかと言えば、いい加減に「大体こうしてね」みたいな話しかなかったり、図面にしてもそのままじゃ部品が作れないから製造現場で勝手に図面書き直したり職人さんの努力でアレンジしたりしているのが当たり前な訳ですよ。

 そして、そういういい加減なお仕事で、大企業が取りまとめて、国や自治体であったり、他の企業であったりに、製品を売る。大企業はものすごく高いお値段で売ってても、下請けにはどんどん値下げしろ・値下げしたら、もっと値下げできるはずだ。納期も守れ。納期の何日も前に部品を納入するな。と言う事を、当たり前にやってるわけです。

 そんなだから、ブラック企業がはびこるし、町工場なんかは特に後継者が取れなくて廃業に追い込まれてきた訳ですよ。

 その事や、前にも書いたような「日本の技術は優れ続けてるというおごり」が日本の世論にはびこっていたことで、日本の技術力が急激に衰えていくと同時に、口先と偉い人とのコネだけでカネを集めたり宣伝して行くような、胡散臭い人々が…その中には、暴力団やハングレの人達も少なくないでしょう…、はびこり、一番お金を持っていってしまう。という構図が当たり前になってしまってる。

 東京オリンピックでは、他人のデザインを「パクって」適当にでっち上げたエンブレムがバレた件に限らず、沢山の胡散臭い人達や偉い人たちとのコネだけで仕事してる人達がお金を持っていって、末端で働く人達には「ボランティア」と称するタダ働きを無理やり強要する動きすら、普通に出てしまってるから、もっとひどいことになるでしょう、

奨学金問題も、貧困の連鎖も、「階級」の固定化と、国の衰退を招いてる。

 もう一つの事を書いておきましょう。

 生活保護を取ってる人や、その他の事情で非常に貧しい人たちなどの子どもたちが、大学などに行くと(場合によっては高校でも必要になるようです)、奨学金を取らないといけなくて、日本の場合は基本的に利子付きの貸付ですから、返すことが困難な金額になってしまい、返せなくなって本人だけでなく親も破産しないといけない。という話が、万単位の人に対して起こってしまってる訳ですよ。
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 「マトモな」就職のためには、大学をでないとどうしょうもない。と言う問題が、より話をこじれさせてるのですが、その部分は置いておいて、奨学金を貸付で行い・利子まで回収する。と言う事が当たり前になってる国というのは、そんなには多くないんですよね。アメリカみたいに学生ローン破産が深刻になってる国は、あまり無いのに、日本はアメリカの真似をしようしようとしてる。
 ヨーロッパの多くの国など、長年技術的な競争力を保ってる国では、大半が、高等教育は無料であり、誰にでも生活費などを貸し付ける。と言うのが当たり前になっているのと比べても、日本やアメリカのようなやり方というのは、異常としか言いようがないのです。

 高等教育を国民に広く「施す」と言うのは、国民が教養を持つことでもあるのですが、日本では「貧乏人や一般人の子供に教養をもたせるのは無駄」「奨学金も返せないのに借りるな」と言うような、あまりに乱暴と言うか第二次世界大戦の前ではないかと錯覚しそうな意見が大半で、国と保守政治家達がそれの先頭に立ってしまってる訳ですよ。
 人々が教養を持つということは、無駄でも何でもなく、「下町ボブスレー」にたかってたような胡散臭い人達のウソや、ステマを見抜いて、騙されないようにする。振り回されたり財産などをむしり取られたりしないようにするためにも、大事なことだと思うのです。

 しかし、この国では、それは贅沢であり無駄だという意見が非常に強く、「下々の一般人や貧乏人たちは、自分たちの言う事を黙って聞いて、文句言わずに江戸時代の牛や馬のように働き、辛くなったら自殺しなさい。自分達は責任持ちませんからね」という事が「社会常識」であるかのように、はびこってしまってるんですよね。

「だまされないための教養」がない国だから、このグダグダな崩壊に至ってる。

 そして、なぜか、この国の人達の多くは…そういう「騙されないための教養」と無縁の教育を小学校から大学などまで施され続けたからでしょうけど…、その事を怒るでもなく、そもそも気づくこともなく、黙って働き黙って朽ち果てるだけでなく、たちの悪い人達がばらまいてる「ウソ」や「いいがかり」にハメられて、やれ誰それが悪いだ誰それに罰を与えるべきだと、小説「1984年」の「二分間憎悪」よろしく、いきり立ってネットに書いたり世間話のネタにしたりしてる。
二分間憎悪 - Wikipedia

 これでは、この国は衰退して当たり前なんですよ。社会が衰退するのを薄々感じていても、それがなんで起こるのか。ということに対しては、それを見据えるような・見抜くような教養的な態度と教養を、国の側が与えないようにしてきたのもあって、胡散臭い人々が、あたかも正しいかのようにばらまいてる、おかしな解釈やウソに乗っかってしまい、そうであるがために、胡散臭い人々やたちの悪い人々に騙されたり、ステマに騙されたりしてもそれが自覚できない。
 そういう中で、私達は生きてしまってるんですよね。そして、そのような状況を良しとし続けることは、実は、この急激に崩壊してる社会の中では、自分自身や家族などの命に関わることに簡単になってしまうわけです。私達は、自分のやり方で・いろいろな人と話したりネットなどでコミュニケーションしていく中で、教養を身に着け、教養を深めていかないといけないと思うのです。

 それが、実は、このひどい乱世を、崩壊している社会と言う時代を、なんとかして生き抜くために最低限やらないといけないことでもあると、思うのです。

名護市の選挙や陸自ヘリの墜落を後回しにして、バレンタインデーと日本社会のブラックさを考えてみる。

 色々と忙しく、間が空いてしまいました。いくつか書かないといけないな。と思うことがあれど、書こうかと重い腰を上げて中身を考え始めた途端に、大きな事件があり…と言うのを、繰り返してきてズルズルとここまで来てしまいました。沖縄の名護市長選で、現職だった稲嶺氏が負けたことや、昨日起こった陸上自衛隊のアパッチ攻撃ヘリが墜落したことを書こうかと思いましたが、それは書いていて余裕が出たら書くことにして、まずは、これを書いてみます。

バレンタインデーに無理やり義理チョコをばらまくのをやめよう。と唱えたゴディバの広告の波紋。

 もうすぐ、バレンタインデーがありますね。2月の14日。日本の場合は、物凄くややこしい日になってて、やれ、本命チョコだ義理チョコだ友チョコだ、挙句の果てはもらった人は3月の14日のホワイトデーにお返ししなきゃいけないだ、更にはお返しの金額が二倍返しだ三倍返しだ。正直、私自身はあんまし貰わない人ですし、世間の風潮見ていて呆れてすらいるのですが、チョコレートの大手(高級)ブランドゴディバ社が、日経新聞にこんな広告を出した訳ですよ。(引用は、話題にしたねとらぼの記事の一部から)
togetter.com

 この広告は2月1日の日経新聞に掲載された一面広告。「バレンタインは純粋に気持ちを伝える日」「この時代、義理チョコはないほうがいい」とバレンタインにチョコレートを用意してきた日本の女性をねぎらいつつ、男性に対しても「“義理チョコ、無理しないで”と伝えてほしい」と呼びかけるものでした。世界的に有名なチョコレートブランドが出したこの広告は、SNSを中心に大きな話題となることに。

 チョコレートメーカーにとってはビジネスチャンスとなるはずのバレンタインデーですが、なぜゴディバジャパンはこの広告を出したのでしょうか。この広告についてゴディバジャパンに取材を申し込んだところ、社長を務めるジェローム・シュシャン氏から回答がありました。

―― なぜこの広告を出したのでしょうか。

シュシャン:まず、私たちが大切にしたいのは、バレンタインデーの主役は、「もらうひと」ではなく、「あげるひと」ではないか、ということです。「あげるひと」にとって「楽しい」バレンタインデーかどうか、それがもっとも重要なことではないかと考えました。

 ですから、義理チョコをあげるのが楽しいと考える人、ごあいさつとして知り合いの方に配る、それが自分にとっても楽しい、と考えている方には、今後ともぜひ続けていただきたいですし、そのような方のための商品開発は続けていきたいと考えます。でも、もし義理チョコが少しでも苦痛になっている人がいるのであれば、それはやめたしまったほうがいいのではないか、と私たちは思います。それが今回の新聞広告の趣旨です。
「義理チョコをやめよう」バレンタインに向けたゴディバの広告が話題 ゴディバジャパン社長が広告に込めた思いは - ねとらぼ

 詳しい歴史的経緯は後にして、職場とか学校によっては、義理チョコを女性の間でお金を集めたりしてまとめて買ったりする場合が結構昔からありましたし、「義理チョコを出さないと、職場などの空気が悪くなるのではないか・自分が裏で非難されるんじゃないか」的な、怖れと言うか同調圧力を感じてる人が、結構いるでしょうし、「お返し」をする男性にしても、同じようなものを…チョコを貰ったのだから、、なおさら強く…感じてる人も多いでしょう。
 結局、単なるイベントで任意参加のはずが、参加しない人は頭がおかしいか人付き合いする気のない偏屈者だ。と言う空気が、物凄く拡がってる様に、私には見えるのです。そして、その空気は、場の雰囲気を和ませるどころか、一人ひとりの心情のようなものを、ささくれ立たせすらしてる。
togetter.com

チョコレートの材料の「ブラックさ」をスルーして、私達の社会もどんどんブラックになった。

 この広告が出た背景には、もう一つの理由があるのではないかと思うのですよ。
 チョコレートの原料のカカオマスは、この20年ほど、欧米諸国では、「児童に対する強制労働や人身売買で連れてこられた人を働かせて作ってる」「そうでなくても、農民に非常に安い報酬しか渡さず、長時間働かせてる場合が多い」と言う批判が、繰り返しされてる訳ですよ。特に、義理チョコとして大量に流れてるような、安いチョコレートは、そういう原材料が使われてる可能性が非常に高いし、では、「フェアトレード」と称してきちんとした価格で買い上げてそれなりのお値段を付けているチョコレートがどうか?と言えば、それはそれで、フェアトレードのやり方のまずさから、末端の農民にお金が行かなかったり、農民が商社などと直に取引するのを組合が妨害していたりで、トラブルになることがあるようですね。
acejapan.org
 フェアトレードの場合は、フェアトレードと認定するやり方に問題の原因があったりするのでそこは今回は棚上げしますが、問題なのは、大半のチョコレートが非常に拙いやりかたで作られていて、現場にお金が行かないし、無理な働かさせられ方から働いてる人が抜け出せないという構図を、義理チョコにせよ私達が気づかずに後押ししてる。ということなんですよね。
seize-stone.com
 かと言って、高いものを買えば、この悪循環の構図に加担しないで済むわけでもなく、せいぜい出来ることと言えば、安いチョコレートを買った時に構図について考えることやむやみに買わないこと、後は、そのような行為をやってるメーカに対して改善するよう突きつけていく程度しかやりようがないのですけどね。

全ては、円のようにつながってるのかも知れない。

 このような構図、私達日本に住んでる人も、大半の人は無縁ではない訳ですよ。ブラック企業の問題や、ブラック企業に適応させることが目的に入ってるように見えるブラック部活の問題は、大多数の個人を不幸に追い込むことで、ごく一部の人達が大きな利益を挙げるだけではなく、それの「言い訳」的な理由にもなってる、低賃金カルテルや低価格競争、際限ない品質向上要求を含めた形で、この社会全体をブルドーザーのようなもので、めちゃくちゃに破壊し尽くしてる。

 そのような状況が形作られていく中で、バレンタインデーの際限ない高級化とか同調圧力化があったと思うんですよ。
 1970年代の終わりくらいまでは、義理チョコなんて言葉もなく、本命チョコだけはあったけど…と居う感じで、70年代と80年代の間くらいから、「チョコを貰えない男子はどうするんだ?」的な話が出てきて、義理チョコに相当するものが急激に広まり、80年代のバブル景気の中で、広告代理店の後押しもあって、チョコレートの高級化が進み、その中で、義理チョコが定着していきました。
 そして、90年代の頭くらいから、ホワイトデーの話が広告代理店主導で出てきて、二倍返しだ三倍返しだと煽られた末に定着したわけです。
 その流れの中で、大体80年代の終わりくらいから、職場でもなんでも、空気を悪くしないために女性が義理チョコをばらまくという風習が出てきたように、私は記憶しています。

誰が作った同調圧力でも、それを一人ひとりが壊していく努力をしないと社会も身の回りも、壊れたままだ。

 なので、日本の、最低でも80年代以降のバレンタインデーというのは、「広告代理店が作って、人々が同調圧力に転化する」というのの繰り返しだった訳ですよ。
 そのような同調圧力で、安いカカオマスが沢山買われて沢山消費されるというのは、私は「ロハス」的なものや主要な「脱成長論」は余りにスノッブで醜いから余り好きではないのですが、やっぱし、なんかなぁ…と思うんですよ。
 今も幾らかはありますが、ステマ的なやり方で拡がった分、こんな拙いことが伴ってるからちょっと立ち止まって考えようとか周りを見よう。と言うことを、言いにくくされてしまってる。今はともかく、少し前までなら、そのようなことを言う人間は「頭のおかしな非国民」扱いすら平気でされてきてました。

 結局、その事が社会の荒廃の一部になってしまってるように見えますし、そうならば、やっぱし、同調圧力をきちんとはねのけて、自分の考えを他人に説明して、バレンタインデーに乗る乗らないとか、義理チョコばらまくのに乗る乗らないとかやってかないといけないように思うんですよ。
 身近な関係性・職場などの人間関係に関わる話ではあるんですが、そこの部分からそういう事をやっていける状態をつくっていかないと、やれ総理が誰だとかどこそこの市長がどうだとか動きがあったとしても、世の中を、これを読んでる一人ひとりの人が多少は今より楽しく・楽に暮らせるようにすることすら、実はうまく行かないのではないかと、思うのですね。