殺人的猛暑の夏に、「正しく集団を見捨てること」について考えてみる。

 夏ですね。しかも猛暑です。何年かぶりに身の危険を感じる暑さで、全国の大半が殺人的な暑さになってるということで、皆さんお気をつけてくださいね。
 自分や家族の身を守れるのは、この社会では自分達だけなんだ。と言う事を思い出してくださいね。

酷い猛暑で、多くの人達が救急搬送される。

 さて、その猛暑が、大変なことになってるわけですよ。
mainichi.jp
 ニュースであんまり報道されてない東京都ですら、昨日の時点で、救急車の出動が史上最高となって、その多くが熱中症や日射病だったという事なんですよね。
 これが、テレビなどで多く報じられてる広島・岡山などの被災地や大阪・京都、今日最高気温を記録した岐阜県多治見市などとなれば、もっと凄まじいことになってるであろうことが、簡単に想像できる訳ですよ。
mainichi.jp
 そして、その対策というのに対しては、社会で敏感な人達と、鈍感な人達が、大きく分かれてしまってる訳ですよ。

学校で、猛暑とことなかれ主義に殺される生徒たち。

 昨日あたりから、多くの学校で部活動中や授業中に倒れる人が相次ぎました。死亡した生徒すら出てしまってる訳です。ネットでも、ある程度大きな騒ぎになり始めてて、私の見る範囲では学校やその上の教育委員会・役所などの「鈍感さ」が大きく批判されてはいますが、社会全体で見るとどうなんだろうな?と思う訳です。
togetter.com
熱射病:小1男児死亡 校外学習後「疲れた」 校長「判断甘かった」 愛知・豊田 - 毎日新聞
 こんなひどい猛暑でも、大豪雨・大洪水でも、通勤通学する人が減ったという話は殆ど聞かないし、学校が休みにされるのでもなく、NHKなんかが豪雨被災地の学校が高校野球の予選大会にでてるのを、美談めいて報道したりまでしてる訳で、マトモに人命や個人の健康というのを考える頭があるならば、こんな状況での通勤通学や企業活動を根本から見直すべきという形で自分達から実行したり、被災地の高校が、殺人的な猛暑と照りつける日差しの中で野球やるような事を美談なんかにする前に、そんな自殺行為はやめるべきだ。って論陣貼って批判してると思うんですよね。
www3.nhk.or.jp

 でも、現実はそうなってない。今ひとつ根拠が分かってなくて「いままでそうしてうまく行ってたから」「空気を乱すから」「クレームがつくから」「前例がない」と言う程度の理由しかないような話が、個人の人命とか健康とかに、優先しちゃってる訳ですよ。
 昔は確かに、暑さも今よりある程度緩かったから、どうにかなってた部分があるのでしょうけど、それでも、真夏となれば熱中症や日射病で病院に運ばれる人や、動けなくなって孤独死する人が少なからずいたんですよね。そういう人達を、当時はあんまし問題にしなかったから、社会全体からすると「見えなかった」だけで。
 人命を軽視し・個人の健康や尊厳をことごとく見下げて行くということは、それで困ってしまう立場の人達や困ったことに追い込まれていく人たちのことを、とことんまで無視する事につながるし、そういう形で廻される社会というのが、果たしてよかったのか?と言うと、良くないことが沢山あったように、私は思う訳です。

「コミュ力重視」=忖度重視の社会が、多くの人に悲劇を押し付けてる。

 さて、こんな記事が出てました。
gendai.ismedia.jp
 要は、「コミュ力重視」と言う言葉で言われてる最近の若い人たち(に実際は限らないのですが)のありようというのが、自民党なり政府なり安倍首相なりがメチャクチャなことをやっても支持が減らないで、彼らのやりたい放題を許す結果になってるのではないか。と言う中身の記事なんですが、要は小さい頃から多数派に属してる事や目先の偉い人に気に入られる事が大事だと教育された人達が、世間の空気を過剰に忖度(そんたく)し、現状がダメだと正面から言う人たち(野党など)を露骨に嫌うようになってる。と言う話なんですよ。

 これ、私が子供だった頃から、学校でも行われてきたことで、乱暴で自分の思い通りにならないと気がすまない教師とか、親が社会的立場の高い子供とそうでない子供を露骨に差別して「そうでない子供」に頻繁に暴力を振るうような教師とかが、何かにつけてやってきたのが「自分が気に入るような結論を出した生徒は贔屓する・内申点も高くつける」と言う事だったし、社会に目を向けてみれば、多くのバラエティとか情報番組とかニュースでも、社会のマジョリティ・多数派に属することが大事で、その多数派に入るには多数派の偉い人の言う事をそのまま受け入れなきゃいけない。ってメッセージを発していた部分が相当あった訳ですよ。
 学校でも、社会でも、そういう「多数派が大事」「多数派の偉い人を忖度しなきゃいけない」「少数派は見下げられて当たり前だし、不都合を受けていいんだ・仕方ない」ってメッセージを、色々な形で発信していたのが、最低でも1970年代以降の日本だったと、思う訳です。

過剰な集団重視・規律重視や前例主義が、この社会をじわじわと腐らせる猛毒へと変化していった。

 そういう中では、「前例主義」がまかり通りやすい訳ですよ。前に同じことをやってうまく行った人が偉くなって、そのやり方がいつも同じでいけるとは限らないどころか、時代や状況が変わったらうまく行かないで犠牲を払うことすら多くあるのに、違うやり方をしてしまうと偉い人の気を損ねるし、そもそもそれがうまく行かなきゃ責任取らされる。うまく行ったとしても、つまらない揚げ足取りや重箱の隅をつつくような事で、簡単に否定され責任問題になる。
 そういう、前例主義を前提にしたシステムというものを、日本では重んじてきました。そこに、80年代以降の「とにかく短期的な成果が大事で、長期的に問題になってもそれは無視する」「今起こってる問題は、徹底的に先送りして、とにかく目先の利益だ」って言う社会風潮や制度の「改革」が入っていった訳です。
blogos.com
 その結果、「偉くなったら、なんでもしていいんだ」「偉くなったら、他の人間を支配していくべきなんだ」っていう人が、より多く、のし上がり偉くなるようになっていった訳ですよ。
 それが、今の日本のひどい崩壊を生み出してる部分が相当あるし、それと同時に、私達一人一人が「多数派に入って偉い人を忖度しないとダメだ」って、ある種の神経症のように「しつけられ」てきてるんですから、どんなにデタラメやっても、文句が出ないし、文句言う人は徹底的に排除して、不都合や被害を受けた人は、努力が足りない・自己責任だから放っておけばいい。って意見が多くを・多数派を占めちゃってる訳ですよね。 

 これこそが、社会の崩壊のどまんなかにあることの一つ・それも、最大のものじゃないかな。と思うんです。
 個人を軽視し、集団をことさらに大事にし、その上で、集団に対して中からそのありようを疑うということ自体を間違いだ。とするのは、確かに、国なり集団なりが火の玉のようになって一つのことに当たり、例えば世界最大の経済大国になるとか、戦争に勝つとかそういう目的の時には、うまく行くものなんですよ。多くの犠牲者を、見捨てるという代償を払うのではありますが
 しかし、そのような目的を達成した後とか、それがうまく行かなくなってくじけてしまった後とかは、そのような考え方・精神論と言うのは、毒として働くんですよね。社会をじわじわと腐らせ、腐ったのに中の人達が気づいた時には呆けて腐るのを見ていくしかなくなるような、猛毒。

集団を正しく「見捨てる」事が、猛毒に侵された日本社会を救う道なのでは。

 今は、第二次世界大戦での敗北から、高度経済成長時代に産まれ育てられ、そしてバブル景気から氷河期にかけてまるまると太らされた「猛毒」に、社会全体が苦しめられ・人々がそれをどうしていいのかわからないまま、現実の腐りようを見過ごし・流される以外の事がわからなくされている状態だと、私は思うのです。

 だから、ブラック校則や熱中症で学校の生徒が死んだり苦しんだりするし、社会は社会で、死人や病人、貧乏人や被災者に過剰に「自己責任」をあてはめて、自己責任も努力もやりようがない人を叩いて孤独死や自殺に追い込んで反省すらしない。
 それを乗り越えるには、個人がきちんと個人としてやり直していくよりなくて、それには、集団というものをきちんと「見捨てて」行くことから始めてかないといけないのではないか。それでも人は集わないとダメだろうけど、集うならば今までのような集団とは違う・ましてやオウム真理教のようなカルト集団ともちがうようなものを、自分達の心と頭と力で、色々な人と繋がり、交わり合う中で作り直すよりないのではないか、そう思う訳です。