衆院選だから、敢えて、不条理な表現規制と闘ってきた人たち・政治家たちのことを書いておく。

 選挙に関連して、今日はちょっと特別なことを書きます。
 ネットの中で比較的ホットな流れとして、「表現規制問題」と言うのがあります。これは、漫画などの表現に関する規制の動きを推進したい人達と止めたい人たちが、ネットの中だけではなく、ネットの外でも闘い続けてるという話です。私の記憶に全面的に頼った話になるので、不正確なところや曖昧な表現が出てくるかも知れませんが、ご指摘はコメント欄かツイッターにてお願いします。(メールで送られても無視するか文章を公開します)

1980年代に話は遡る。

 事の発端は、1980年代の半ばだったと思います。当時は、漫画週刊誌に、主に男性向けの性的なものが大きく持ち込まれた時期で、この頃から、一部では「性暴力表現を許すな」「男性至上主義だ」と言う指摘があったのですが、大きくはなかった。それが変わったのは、1989年の連続幼女誘拐殺人事件でした。この時、犯人(死刑執行された)は、単なるコレクターでなんでもビデオやなんやで収集していた上に、所謂「ロリコン」ではなく、無抵抗の誰かを殺したかっただけだというのが後から判明したのですが、当時は、「ロリコン」で「オタク」だと、それこそ捏造までして報道された訳です。
 当時は、いわゆる「オタク」でも、男性のオタクに対する差別を超えてヘイトスピーチと言って差し支えない嫌悪表現が、テレビでも新聞や週刊誌でも、毎日当たり前のように流れていた時代ですから、この事件は「オタクの犯罪」とされ、「犯罪者予備軍のオタクを社会から排除しろ」という声すら、当たり前にマスコミで流されていた。
 それに勢いを得たのか、「純潔主義」を要求する、右派系のカルト宗教…念法眞教統一教会など…が、「わいせつコミックを全面規制しろ」とデモをしたり署名を集めたりし始めます。こういう流れに呼応するように、日本でフェミニズム運動を展開する人達が、「ポルノコミック排除」を言い出し、行政に働きかけるようになります。
 こういった、左右両方からの動きに、警察が乗っかる形で、男性向けの性的な表現を行ってる漫画家や出版社・それを販売していた関係者を、何人も逮捕して言ったわけです。確か、1991年。

 このことで、世の中が一気に萎縮しました。
 あらゆる漫画雑誌や表現媒体から、男性向けの(女性を性的に表現した)性表現が、一気に消えました。エロを売りにした漫画雑誌が、性表現と言えば申し訳程度の裸と性交だけという、今では想像のつかない状態に、数年間追い込まれたし、コミックマーケットでも、非常に厳しい検閲を行い、警察の介入を防ごうとしていた。
 当時、この事を強く憂慮する人達が、少なからずいて、その人達は「マンガ防衛同盟」と言うのを、西形きみかず氏主宰で作ったわけです。これは、比較的左翼の方から出てきた流れではあったのですが、「男性オタク差別」が強い社会状況だったのと、左派運動の一部にいるフェミニストたちが「ポルノコミックをなくせ」と主張して、色々無茶苦茶な話を正当化していたので、そのような左翼運動と、まず戦わされる状況だったと、記憶しています。

児童ポルノ・買春禁止法」を巡る攻防戦。

 この流れが一段落した時に、今度は、フェミニズム運動と警察が主導する形で「児童ポルノ問題」が持ち上がりました。児童の裸はポルノだ・青少年に性的な権利を認めるよりも、彼らを「まもる」為に、権利を奪い・彼らを性的に思う人達を犯罪者にせよ。そして、それを絵などの創作物であっても創作する人達やそれを好む人達は、すべて犯罪者だ。
 そういう流れで、1990年代の後半に、国際会議の場で事実に反する「日本は世界最大の児童ポルノ発信国」などの嘘を並べて国際世論を煽り・それを「外圧」にして文句を言わせないようにして、非常に厳しい法律を作らせようとした。
 当時、私は中途半端にしか関わってなかったので不正確な部分が出ることを予め書いておきますが、「マンガ防衛同盟」に参加した人達の中で、西形氏のやり方以外で色々と動きが出て、山本夜羽音氏たちが、国際会議での情報発信や、政治家への働きかけを始めた訳ですよ。
 その働きかけの中で、(いま立憲民主党代表である)枝野幸男氏や、(社会党副党首の)福島みずほ氏や(世田谷区長の)保坂展人氏が、これをきちんと受けとめ、周りの政治家たちを説得していったし、その流れの中で、共産党も、「流石にフィクションまで児童ポルノ扱いすべきではないだろう」と、合意をしていった訳です。
 そういう非常に粘り強い抵抗の中で、フェミニズム運動や宗教右翼からの誹謗中傷が沢山されるのにも絶えて、1999年に制定された児童ポルノ・買春禁止法から、フィクションや絵などが処罰対象にされなくなったし、その後、保守やフェミニズム運動側がそれらも入れろと激しく圧力をかける中でも、枝野・福島・保坂氏と彼らに説得された政治家たちによって、それをはねのけ続けてる訳です。

青少年健全育成条例の改悪と、それに対して立ち上がった沢山の人達。

 その頃、フェミニズム運動や警察は、別の方向から切り崩しを図っていました。各都道府県の青少年健全育成条例を、非常に厳しくし・検閲を全面的に行い、性的な表現(彼女ら彼らは、男性向けの性表現を考えていた)を社会から排除していこう・青少年の性的な行動や気持ちを、犯罪にしていこう。とした。
 これは残念ながら、彼らの思惑通りに進んでしまいました。反表現規制側の動きが、人手不足のために国会や国の法律に集中せざるを得なかったからだと、私はまとめることができます。
 そうこうしているなかで、2009年に、出版社が多くあり・出版取次も多くあって影響力が高い・ここでダメだと言われたら全国で売れなくなってしまう事になる東京都で、青少年健全育成条例を非常に厳しくし、検閲を拡大しようという動きが出ました。
 この時、今まで議員に働きかけていく事で法律の改悪を止めてきた人達が議員たちに働きかけると同時に、それでは不十分だと考えた人達が、議員や議会に仕事の邪魔にならないように声を届けよう。と当時日本で流行り始めていたツイッターなどを通じて呼びかけました。
 議会が始まってからの呼びかけで急だったものの、この条例案の議決までに三百通以上の請願書が、それもテンプレなどない状態で書かれた請願書が、東京都議会に届けられました。
 その事もあって、民主党がざっくり割れて、改悪に反対する議員が続出し、改悪案は一旦否決されました。

 そして、次の議会が始まるまでの間、警察に非常に近いPTAや宗教団体・フェミニズム団体の運動家たちが、反対した政治家たちに対し「エロ議員」などの、非常に醜い誹謗中傷をばらまき続けたのもあって、次の議会で、又出てきた改悪案に対し、民主党の態度が割れ・最終的に都議会民主党執行部に一任することになり、賛成を強制することになってしまいました。この時健全育成条例の改悪を民主党が賛成するように影響力を行使したと言われてるのは、今は希望の党に行って幹部になってる松原仁や、引退した小宮山洋子と言われています。

まだまだ、闘いは続き、そして心ある政治家たちが闘い続けてる。

 そのような流れがあり、その後、東京都が小池百合子を知事にした辺りから、急激に、女性向けの性表現・特にBLを厳しく検閲するようになりました。それまでに、男性向けの性表現が物凄く規制され・住み分けもほぼ終わってしまったがために、女性向けの性表現が標的にされるようになったのです。
 更に、家庭教育基本法の制定や青少年健全育成法を名前を変えた形で制定しようという動きが、主に保守や右派・自民党や維新の党…多分、希望の党もこの動きに乗るでしょう…から出てきていて、選挙が終わった後に、確実に動きが出てくるでしょうし、児童ポルノ・買春禁止法の改悪・絵やフィクションを児童ポルノとして規制しようという動きも、まいどながら復活して来るでしょう。

 その時、止める立場の人達が、少しでも多くないと、どんどんなし崩しに検閲が広がり・家庭生活への国などの介入も増え、ただでも貧しくなって、しかも窮屈すぎて生きづらい世の中が、もっと生きづらくなってしまう。
 この事を、選挙に投票する先を誰にするか決めてない人や、「保守政党」に投票しようかと思ってる人達は考えてほしいなと思うのです。

 所謂「オタク」の中では、立憲民主党社民党共産党と言った「左翼政党」が表現規制を推進してきて、自民党や維新の党がそれを止めてきた。と言う真っ赤な嘘が常識のようにされてることがあるんですよね。それは、自民党の言論戦略によるものなんですが、実際のところ、真逆です。

 立憲民主党社民党共産党の人達は「表現の自由」「言論の自由」をこの十数年間真剣に考え、闘ってきました。それこそ、「仲間」からの誹謗中傷や嫌がらせにすら耐えて。
 この人達を、優先的に当選させる・動ける人が選挙の手伝いをして、つながるように出来る、そういう状況を前に進めて欲しいと、私は思っています。

追記:こちらもお読み下さい:
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp

衆議院選挙・総選挙が始まりました。

 この間、希望の党が出てきたり、民進党希望の党に合流すると決めてしまったり、その途端に希望の党が「踏み絵」なるもので「選別」したのに多くの人がドン引きしている中で、「選別」「排除」されそうな人達が立憲民主党を作り・全てではないにせよ野党共闘が出来るという流れの中で、書きそびれてきたことが沢山ありました。状況がすぐに変わるので、落ち着いて何かを書こうにも、途中まで書いた所で捨てるしかなくなったこともありました。
 しかし、再来週の日曜日には、投票と開票です。自民党公明党過半数を占め続け政権に居座る可能性が高めだという話もあるし、少なくなれば維新の党と希望の党が協力するだろう。憲法改悪も避けられない。などの絶望的な話もあれば、憲法改悪を止められるかも知れないという話もあるし、うまくやれば、自公を過半数割れに追い込んで安倍総理を辞任に追い込めるという話もある。

 そんな中で、やってくことを整理し直さないといけないなと思い、書いてみますね。

立憲民主党・枝野代表の記者会見の更に一歩先に。

 立憲民主党の結党の記者会見で、枝野幸男党首が言ったことで、私がこれまで主張したりしてきたことの根本部分を半分以上言われてしまったような気になった訳ですよ。このようなことを、今の日本の状況で言える人が、民進党内部にいたというのが驚きではあったのですが、更にその先のことを言っていかないとダメになるな。とも思った。
 今まで、この国の社会や政治には何が足りなくて・何が奪われてきて、結果として、社会の崩壊や破綻が加速しながら誰も止められなくなってる。と言う事を書いてきて、その上で、止められないなら、ある程度行き着く所まで行き着いてから立て直すために何が必要か。と言う事を、拙いながらも書いてきた訳です。
 
 その上で、今回をその出発点にするいい機会かも知れないと思ったのですね。まだまだ問題点は山積みだし、述べてないことも沢山ある。それらを愚直だなんだと言われても書いていく必要というのがあると同時に、これを読んでる方々や話の種として伝え聞いた方々には、色々とやってほしいと思うわけですよ。

社会を変える実感のない・実感を奪われた、私たち。

 確かに、「立憲政治は奪われた」「政治は奪われた」のは事実ですが、それ以上に、「自分たちの力で何かをして自分たちが社会の些細なことであれ変えることが出来た」と言う実感や体験が、奪われ続けてた訳ですよ、特にこの40年間ほど。
 誰か「偉い人」が決めたルールに対して、そのおかしさを主張するよりも、無条件で従い・不都合があっても「下」の人が不都合を背負って、不満なんか冗談でも口にしないでいかないといけない。自分たちで何かを変えていく。と言う事を出来るのは、誰かに重い罰や罪を押し付けるためだけに許されていて、社会の根本を変えたり決めたりする力など、末端の人にはないのだと、躾けていく。
 これは何も陰謀論でもなく、1990年代頃の、欧米の新自由主義新保守主義の学者や政治家・思想家が、人々をどのように「しつけるか」と言う視点から論じた論文や言説に、頻繁に見られていた話なんですよ。
 ゴミの分別を過剰に進めたりするのも、そういう論点から道徳を再構築するために、推奨されてきたという経緯があったわけです。
 結果として、最低でも日本では、このような惨状に陥った訳です。「偉い人」は法律も無視できるしお役所の書類も捨てられるし、籠池夫妻のような邪魔者だけを牢屋に押し込める「権利」があるが、末端の人は、偉い人の尻拭いをする「義務」もあれば、偉い人がやりたい放題した分の「ツケを払う」義務もある。
 声の大きな人達が、憂さ晴らしのように、それまで大きな罪を負ってなかった人たちに罪をなすりつけ・ある種の罪を負った人たちや異国の人に対して罰を与えるような制度を作っていった事は正しくて、その事が不公平を産んだり・多くの不都合を人々に強いたり、差別や暴力を社会にはびこらせる事につながるから止めたほうがいい・止めてくれ。と言う声は、犯罪者に味方するかと言われたりして排除され、結局、社会を多くの人が辛くなくなるように変えることよりも、社会を多くの人が辛くなるように変えていくことのほうが正しいとされて、その結果として、人々がネットで晒し合うだけで物事を変えていく事の出来ない世の中になって、今のように急激に崩壊する中で、誰も方向を変えることができない状態になってます。

改めて、「水戸黄門」に任せてるだけでは、ダメだ。

 それを変えることを、立憲民主党であったり共産党であったり社民党であったりに「期待」してるだけでいいのか?投票していればそれで終わらせていいのか?と言う問題を、なるべく多くの人が考えないといけないと思うのです。
 彼らを「水戸黄門」に仕立て上げ・その役割を押し付けることで、この社会は変わることが出来るのだろうか?と。
 私は、それには否定的です。
 前の、2009年の民主党社民党政権への政権交代。この時に、私も含め非常に多くの人が、「政官財の癒着でグズグズになってる日本の政治と官僚を、一刀両断する水戸黄門」の役割を、彼ら政権に期待し・また求める声を届けたと思います。
 しかし、官僚が構築した利権構造は非常に根深く・マスコミや与党政治家の一部すら取り込んで「改革」の足を引っ張り・偽情報を流したりすらして、内閣を潰していった訳です。
 そして、「何も変わらなかったじゃないか」と言う失望と無気力が高まり、自民党に政見が移り、その後安倍晋三という人やその背後にいる今井尚哉ら経産官僚たちが独裁者としてやりたい放題し・マスコミも「忖度」して批判しなくなっていき、社会の崩壊と腐敗が、ものすごいスピードで加速し、人が生きることができない社会へと、既に追い込まれている。

 ここを変えるには、どうすればいいか?

 「独裁者」を引きずり下ろすだけでは不十分すぎて、なんとかして歯止めをかけ・今までの責任を取らせていき、人々の声を尊重する人を政権につかせるだけではなく、その過程で、そのような人たちの「後ろ盾」に私達一人ひとりがなると同時に、非常に多くの意見・方向性など定めようがない意見のやり取りをしていくことで、私達自身が「何か」を「とりもどしていく」必要があると思うのです。
 どうかみなさん、選挙でこの人やこの政党を推してみよう。と言うのがある人は、選挙事務所でチラシ折りやチラシのポスティングからなんから人手が足りないと思うので、一時間でも動ける時に連絡を取って手伝ったりして言ってほしいですし、心身の都合や仕事の都合で無理な人は、意見を届けたり、ある候補やある正当に対し、これをやってほしいとキャンペーンを張ったり、ネット関係のお手手伝いをしたりなど、色々とあるので、やれることをやっていって欲しいと思いますし、それが無理でも、身近の知り合いや家族や仕事・趣味の繋がりで多少政治の話をして、今の「タブー」を突き崩す一歩を踏み出して欲しいと、思うのです。

安倍総理の「わがまま解散」を、チャンスに変える必要性。

 この二週間、色々なことが立て続けにあって、書くタイミングを取りかねていましたが、いい加減書きますね。(こんな事件もありますが、あとで書ける時に書きます)
野党を叩き嫌韓を煽るブログ記事やYouTube動画、1本数十円のクラウドソーシングで大量生産されていた | BUZZAP!(バザップ!)

 安倍総理、動機はともかく衆議院を解散し総選挙をやると言い出しました。明日、9月25日にも正式に記者会見を行うようです。
 この間、色々な問題・特に、私が「日本社会の崩壊」と位置づけるようなことが、沢山起こりました。そして、その中で、安倍総理やその周辺を中心とした、汚職や法律無視・憲法だけではなく色々な人々の声と生活と心を踏みにじって捨てていくような事を、政府や霞が関や企業が先頭に立ってやっていくことが繰り返されていった訳ですよ。

 そういう流れの中で、森友問題や加計問題での、安倍総理や取り巻きたちへの追究は止むことがなく、東京オリンピック招致にしてもブラジルの捜査当局が、フランスが捜査を続けていた情報を基本にして「日本がブラジルのオリンピック委員を買収していた」と結論づけた訳ですよ。
 その上、原発に関しても、お手盛りで・安全も何も「オレオレ基準」で無理やり再稼働を決めて、強引に通した。
 そして、安倍政権におべっかを使うようなジャーナリストが、若いジャーナリストの女性から仕事の相談をされたのをいいことに、睡眠薬を使って眠らせて、寝てる間にむりやり強姦しようとしたのを、監視カメラの映像があるのにも拘わらず、警察も検察もお咎め無しにしようと必死になってる。
元TBS記者は「不起訴相当」 「性犯罪被害」で検審:朝日新聞デジタル

日本の腐敗は、1970年代前後から形作られたもの。

 これらのことは、「精神的なありよう」として、繋がってしまってると思うのです。それは、「目先の利益を独占できればいい」「他の人達に不都合や危険を押し付けて、自分たちは立場とお金を護ろう」「自分たちの気持ちを満足させるためには、法律なんて紙切れにもならない」。
こんなところなんですよね。
 こういう構造というのは、度々書いてるように、1970年代辺りから一気にこの国の方向を決める人たちによって作られていき、生活やこころの余裕や自分たちの身の回りを自分たちで決めるという事自体を、人々から「上」が奪ってく・そもそもそのような考えにならないように教育をしていく。と言う事を徹底してやっていったからこそ、これだけガチガチに出来てしまったし、その中では、「上」に立つことが出来て色々な事を支配できるようになった人達を、自分が何でも出来る神様に近い存在なんだと勘違いさせて、腐らせて行った訳です。

腐敗した社会を見せないための政治と、民進党の一部議員の振る舞い。

 何故選挙となるかと言えば、加計問題に代表される、総理と内閣などがやってきた汚職や無法の数々を追求される事から逃げることもあれば、今後確実に起こる色々な問題に対して、それが自分たちのやったことの結果なんだという責任論から逃げて・社会全体を締め付けるためには、一度選挙に勝たないとダメだ。と言う風に思ってるからだと思うのです。そして、いまならギリギリ勝てるだろうと、高をくくってた。野党四党(民進・共産・社民・自由)の選挙協力はごく一部のままだし、小池百合子にしても新党立ち上げがうまく行かない。マスコミにしても、選挙の公平性を理由にして安倍内閣汚職問題や結果責任を報道させにくくなるだろう。そうすれば、勝てるに決まってる。
 そんな辺りだと思いますが、しかし、既に北海道と熊本で、共産党民進党や他の野党が、候補者調整できたと公に出し始めてる。多分、この数日から一週間で、そのような県は一気に増えるでしょう。そして、今の民進党の前原代表は、表向きは改憲がどうこうとか政策での一致がない選挙協力はできない。などと言ってはいるものの、それらの発言に対する本気度はあまり無いと見ています。
 それはなぜかと言うと、原口一博総務相を始めとする、民進党内でも相当右寄りで共産党アレルギーの強いはずだった議員たちの中に、共産党との協力も限定的ながら前向きになってるようなネットなどでの発言が、昨年くらいから・特にこの数カ月非常に多くなっていて、その辺りに後ろ向きな発言をしてるのは、野田元総理の周辺や一部の連合系議員・電力労連などの非常に現政府よりの労働組合の支援を受けてる議員に限られてる状況があったからですね。

水戸黄門」を期待せず、人々が変えることを考える、歴史の転換をしよう。

 東京や大阪・神奈川などは、歴史的経緯もあって「野党共闘」はダメかも知れませんが、多くの所で、実現するだろうし、そうなると、今の選挙制度が「頭数争い」の要素が強くなってる以上、政権がひっくり返る可能性だって、けっして低くはないです。
 今の状況は、社会全体の崩壊を、一時的かも知れないけど喰いとめ・相当部分壊れてしまったこの社会を立て直す為の、大きなチャンスだと、私は思うのです。
 今うまく行かないと、もっと壊れたところから立て直さないといけなくなる。
 それでも、壊れてしまったのは直さないと、どんどん壊れていってしまうし、後々の社会として、人が生きられないようなものしか用意できなくなってしまう。
 どうか、投票に行くようにしてほしいですし、自民党などの与党や維新の会や小池新党のような「与党もどき」よりも、今まできちんと与党の問題点を出して抵抗したり汚職を追及してきた野党四党に投票してほしいと思います。
 そして、少しでも動ける人は、どんどん動いて、色々と凝り固まってもいる「野党四党」に対して、声を届けましょう。変えられるところが見つかれば、変えさせるように働きかけてみましょう。
 今までのように、水戸黄門を期待してるのではなく、一番「下」に見られてた、私達一人ひとりが政党やマスコミよりも上の立場で物事を変えていく必要があるんだ。と、やれることを、それがどんな些細なことしかできなくてもいいので、やっていきましょう。

いくつか参考にできそうな記事を:
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp

「男女交際する人がスクールカーストの最底辺に追いやられる」現象が起こってる。

 色々と問題が噴き出していて、世情が荒れ始めていますが、このことを取り上げようと思います。
『2017.09.08 「ボイス」宮台真司 「妊娠した生徒を排除する日本の教育のダメさをぶった斬り」』(10/8まで公開)
radiocloud.jp
www.youtube.com

 これは、「荒川強啓デイ・キャッチ!」と言う、TBSラジオ(東京)で夕方に放送してる時事系の番組で、宮台真司教授が今の若者の性に関する意識と性教育の関連を論じた部分なんですが、非常にショッキングな中身だった訳ですよ。
性感染症と望まぬ妊娠のことしか性教育で教えていない」事などにより、「高校生や中学生の中で、恋愛する人が無条件でスクールカーストの最下位に押し込まれるようになり、恋愛から撤退する若者が急増してる」と言う中身の話で、子供の言動やふるまいから薄々感じていた事が、事実であったのか。と思い知らされた訳です。

 要は、この25年間以上・多分40年近くの間、学校教育の場で男女交際を罰則込みで禁止していた事や、この20年間ほどは「青少年の健全育成」を目的として、子どもたちを如何にして性的なものから遠ざけるか・性交渉を犯罪化していくか。と言うことに、各都道府県や国が競争していったことの結果でもあるし、その中で、主に保守派の政治家が、性教育に対して「過激だ」とバッシングし、東京都の七生学園事件のように、自衛の為の性教育が特に必要な人達に対しての教育を止めさせるために圧力をかけ・人事にも介入してクビに追いやる事をしていった事で、性教育が著しく委縮した事がセットになって、このような事態を引き起こしてるのだと思うのです。

女性の権利を主張する人達までもが、「性の全否定」と「性の法規制」に走った結果として…

 それを推し進めたのは、実は、「女性の権利」を主張するはずのフェミニズム運動*でもあった*訳ですよ。1990年前後の「ポルノ漫画バッシング」以降、フェミニズム運動は、「子供の権利」を大義名分にして、性表現の強い規制や検閲制度の推進を、日本各地で進めていきました。
 男女雇用機会均等法に基づく、男女共同参画事業に、フェミニズム運動は参加していったのですが、その中で行われた議論の中には、「ポルノを社会から排除するための検閲推進」や「子どもたちの性交渉や男女交際を、違法化する事が出来ないか」と言う事が、何度も繰り返しあった訳ですよ。
 男女共同参画と言う美名のもとに、女性全体*のみ*を「被害者」として扱い、男性を犯罪者予備軍として懲罰できないか。と言う議論も、沢山行われてきたわけです。
 一時期、盛り上がっていた、若い人たちの「援助交際」に対する、世間の「ふしだら侮蔑」に近いような批判的で極めて保守的ななまなざしが、その動きを後押ししてきました。

 このような状況で、子供が性に対してどのように捉えていくか?と言うことは、相当前から私は指摘してきましたが、性というものの、本来ある面倒臭さを何万倍にも増幅していくだけだと言うことなんですよ。
 「男女交際すれば、社会的に罰を受ける」「男女交際の結果、妊娠でもしようものなら、学校から排除される」「学校教育では、性交渉を怖いこととしか言わない」。こういうメッセージを、若い人たちは社会全体から、長年受け取ってきた訳です。

少子高齢化や人口減の根本は、「性の社会的否定」と「対立煽り」にある。

 今の少子高齢化は、そのような「恐怖による性的行動の抑制」と、後は、「個人が性的であろうとすることの徹底的な否定」によって成り立ってると、私は思うのです。性的存在であることを表明すれば「ビッチ」だなんだと陰口を叩かれ、スクールカーストの最下位に追いやられ・下手に年上と交際して親バレすれば、相手が犯罪者になってしまう。
 しかも、主にフェミニズム運動側が、男性を犯罪者予備軍もしくは加害者として強く叩き続けてる。
 こんな状況で、若い人たちが性に関心を持つ訳がない。

 性に対する面倒くさい事が、40代以前のの人達の何倍にも膨れ上がっていて、多分、60代以上の人には全く理解できないような巨大な所まで、来てるんですよ。
 そんな状態で、お互いを理解することなど出来る訳もなく、対立を煽る人がいれば、そこに乗っかる人は沢山出るし、そもそも自分は一生孤独でなければならないんだという強迫観念すら、広く蔓延する訳です。

若者を「おじろく・おばさ」に追い込む「純潔社会」を変えていこう。

 これは、人々を奴隷以下の存在として、一部にあった風習である「おじろく・おばさ」のように、人々を追いやり・どんなにひどくて先がない社会であっても変わらないようにして利益を得ようとする人たちに取っては、この上ない「地上の楽園」となるでしょう。実際、今の社会状況や、森友・加計に代表される大疑獄や政治家や官僚の犯罪的な行為が表に出ても正されることがないのは、このように「おじろく・おばさ」に追いやられて無力化された人達が大半を占めていて、ストライキ一つ起こらないからだと、思いますし。
おじろく、おばさ

 ここを、きちんと変えていかないといけないと思うのです。分断されてる人達・「おじろく・おばさ」に追いやられて無力感を自覚できない所まで植え付けられてる人達を、何とか個人として引き上げるためにも、「ふしだら侮蔑」や「純潔主義」、その背後にある「ことなかれ主義」を、法律からなくしていくと同時に、学校教育や社会風潮でも、若者の性的行動を当たり前かつ素晴らしいことだと推奨するように、変えていく努力を、この社会にいる一人ひとりが意識していかないといけないと思うのです。

追記:こちらもよろしかったらお読み下さい:
rebuild.hateblo.jp
rebuild.hateblo.jp

北朝鮮のミサイル発射で、ありもしない話を国がばらまき、拡散して大騒ぎした日本社会。

 昨日(8月29日)朝、北朝鮮が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試験をして、日本列島の上を飛んだらしいとか、Jアラートが発動してテレビも防災放送も大騒ぎになったということで、色々騒がしくなっています。
北朝鮮は、正確には「朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)」ですが、通りがいい北朝鮮を使います。

 しかし、色々と問題が、物凄い初期から出てる訳ですよ。要は、騒ぐ必要がないのに、わざわざ騒ぎを大きくする方向で政府が情報を出してきたと言う事など、日本側の政治的思惑のようなものが露骨に出てしまってる訳で、そこにマスコミも踊らされて、冷静な議論というのが余り出来なくなっている訳です。
 実際、Jアラートは、日本上空・550キロという領空ではない宇宙空間を、まさにミサイルが飛んでる時に発動されて、「ほとんど意味がない」としか言いようがないタイミングで出てきた上に、中身にしても、実際には津軽海峡の真上・公海上を横断したのに、北海道から群馬・長野までの非常に広い範囲で刑法が出され・その癖、その延長線上にある東京や埼玉・神奈川、静岡・千葉などは、警報が出されなかった。
 漏れ伝わる話だと(ネットの噂話としてしか認識できてませんが)、これら警報出さなかった都県については、人口が多く経済活動も盛んだから、悪影響を怖れて警報から外したと…本当に、警報を出す必要があるなら、余りに本末転倒ででたらめな警報だったとしか言いようがないわけですよ、この段階で。

ミサイル防衛で作られた設備が、国民防護に全く役立たず。

 更に問題なのは、日本は米軍と共同して、ミサイルが発射された直後に、ミサイルが飛ぶコースを予測し、必要ならば撃ち落とすシステムを多重に整備してるわけですよ。それこそ、京都府京丹後市日本海近くに、米軍のミサイル警戒専用レーダを、地元にある批判を押し切る形で置いてもらったりしてるし、ミサイル防衛を日本で担当してる自衛隊と、米軍は、情報ネットワークの殆どを共有していて、特にミサイル警戒に関係する情報が流れてるネットワークは、完全に一体化してるといって過言ではないのです。そこまで、日本の防衛は米軍に握られてるとも言えますが、反面、情報共有の面では、相当細かい情報は共有されてる。
 要は、ミサイルが発射されて一分するかしないかで、ミサイルがどこをどのような高度で飛んで、どの辺りに着弾するか。と言うのは、かなり正確に予測されてると考えられるわけで、なぜ、Jアラートが出るまでに何分もかかったのか?とか、それ以上に、その出てきた警戒情報が、あたかも日本の領土や了解にミサイルが落っこちてくるんじゃないかという、ありもしない危機を煽るような中身で、マスコミもそこに同調して大騒ぎすること自体、技術的に考えたらありえない訳ですよ。そこには、首相官邸など政府の政治的な思惑がふんだんに盛り込まれてる訳です。

 騒ぎになれば、「北朝鮮の脅威」とかいう話が盛り上がるわけですよ。事情をよく知らない大半の人からすれば、北朝鮮が攻めてくるとか、自分の住んでるところにミサイルをバンバン撃ってくるとか、核兵器をすぐにも撃ち込んでくるとか、そういう、非常におかしな危機感や恐怖を書き立てられてしまう。
 そうなれば、今の、森友問題や加計問題のような汚職や横領に限らず、防衛省日報隠蔽問題などメチャクチャな防衛運用をしてる今の政府からすれば、自分たちの抱える問題をごまかせるし、外国へのあらぬ脅威を煽ることで、人々の気持ちを、自分たちの支持回復や選挙で勝てる状況に向けることが出来る。
 このことは、陰謀論でも何でもなく、最低でも1940年代に第二次世界大戦が終わった後には、多くの国で言われ始めてた事な訳ですよ。例えば、ジョージ・オーウェルの「1984年」には、こんな一節があります。少し長くなりますが…

一九八四年 第一部 第八章
突然、通り全体が騒ぎに包まれた。そこら中から警告の叫び声が聞こえる。人々はうさぎのように戸口に飛び込んでいった。ウィンストンの少し前の戸口からは若い女が飛び出し、水たまりで遊んでいた小さな子供をつかむと自分のエプロンで覆い、再び戸口へ飛んで戻った。まるで流れるような早業だ。それと同時にアコーディオンの蛇腹のような黒服を着た男が横の路地から現れると興奮した様子で空を指差しながらウィンストンに向かって走ってきた。

「蒸気船だ!」彼は叫んだ。「見ろ、だんな! 空襲だ! はやく伏せろ!」

「蒸気船」はどういった理由からかプロレがロケット弾につけたあだ名だった。ウィンストンはすぐさま頭から身を投げ出した。何か警告を発している時にはたいていいつだってプロレが正しいのだ。彼らはロケット弾が襲来する数秒前にはそれを察知するある種の本能を備えているようだった。ロケットは音よりも速く飛んでくるというのにだ。ウィンストンは両手で頭をしっかりと抱えた。歩道を持ち上げるような轟音が響き、なにか軽い物体のシャワーが彼の背中に降り注いだ。立ち上がる時になって初めて彼は自分が近くの窓から砕けて散ったガラスの破片に埋もれていることに気づいた。

彼は歩いていった。爆弾は通りの二百メートルほど先までの家並みを破壊していた。黒い煙の柱が空にそそり立っている。その下の漆喰の埃のもやの中では既に廃墟の周りに人が集まっていた。目の前の歩道には漆喰の残骸でできた小山があり、中央の辺りに鮮やかな赤い線が見えた。近づいてみるとそれは手首で切断された人間の手だった。血の気を失ったその手はまるで石膏像のように真っ白だった。
(中略)
一九八四年 第二部 九章
しかしこれは戦争行為やそれに向けられた戦意高揚の野蛮さが減少し、より文明的になったことを意味しない。それどころか戦争におけるヒステリー状態は全ての国で一般化し、継続し続けている。レイプ、略奪、幼児の虐殺、全人口に対して課せられる重労働、捕虜に対する報復措置としての生茹で、生き埋めは一般的に観察されるし、敵国を唾棄し、自身の国に献身することは大いに賞賛される。しかし物理的な意味においては戦争に携わる人間は減少した。ほとんどの人間は高度な訓練を受けたスペシャリストであり、引き起こされる死傷者数も比較的少なくなっていると言える。戦闘が起きるとしてもそれは普通の人間には想像するしか無いような不確定な国境線上か、シーレーン上の戦略地点を防御する浮動要塞の周りでのことである。文明戦争の主要部分は日用品の継続的な不足や少数の死傷者を出すときたまのロケット弾による空襲以上のことを意味しないのである。実際のところ戦争はその性質を変えたのだ。より正確に言えば戦争が引き起こされる理由においてその重要性の順位が変更されたのだ。二十世紀初頭の大戦においてもわずかながら存在していた動機が支配的になり、意識されるようになり、影響を与えるようになったのだ。
(中略)
戦争の本質的活動は破壊行為だがこれは必ずしも人間の命だけに限定されず、人間による労働の生産物も対象となる。戦争は資材を粉々に砕いたり、成層圏にちりぢりにさせたり、深海に沈めたりするための方法なのだ。そうしなければその資材は大衆を過度に裕福にしてしまい、その長期的な結果として彼らに過度の知性を与えることになってしまうのだ。戦争兵器が実際には破壊されなくとも、その製造は消費に供される製品を一切生産せずに労働力を浪費するためには依然として適した方法であると言えるだろう。例えば一つの浮動要塞は数百隻の貨物船を建造することができるだけの労働を奪い取る。最終的にそれは時代遅れとなったことを理由に誰にも物質的な便益をもたらすこと無く廃棄され、より大量の労働を必要とする別の浮動要塞が建造されるのだ。原則的には人々が最低限必要とする要求が満たされた後に残る余剰を使い尽くすよう、戦争の継続は常に計画されている。実際には人々の需要は常に少なめに見積もられ、結果、生活必需品の半分は慢性的に不足状態に陥る。しかしこれは良いことであると見なされているのだ。恵まれている集団ですらどこか困難の瀬戸際に追いやられてしまうのも意図的な政策である。なぜなら一般化した貧困状態はわずかな特権の重要性を増大させ、これはある集団と別の集団の間の違いを明確するからである。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

戦争や外国の脅威をむりやり煽ることで、色々な利益を得る人々。

 この作品・「1984年」の世界では、核戦争の後に世界が3つの大国に分かれ、どの国も独裁的な体制を維持するために、決して終わることもなければ決して何処かの国を滅ぼしたり制圧したりすることもない戦争をずるずる続けていて、その事は、実は、多くの人達を「ゆるやかかつ回復できない貧困」に追い込み、支配する立場にあるひとにぎりの人達の特権をこの上なく高めているのだ。と言う事が、時折あるけどそんなに人が死ぬわけでもない「中途半端すぎる」ミサイル攻撃を例にして示させてるのですが、何か、今の日本と物凄く似ているように思うんです。
 確かに、総理大臣にせよ官邸にせよ、北朝鮮は許せない・断固たる対応を取る。などと頻繁に言っていて、マスコミもそれをいいことだとして報道してますが、しかし、安倍総理が総理に出世するきっかけになった北朝鮮拉致問題にしても、自分が出世した後は拉致被害者の団体全体を「見捨てる」格好になってたし、そもそも拉致被害者を帰国させなかったのは安倍総理の功績なんかじゃないことが、蓮池透氏によって暴露されてますし、朝鮮総連とか在日朝鮮学生に対する嫌がらせ的な事を、北朝鮮のミサイルとセットにして推し進めてはいますが、それ以上のことはほとんどせず、ただただ北朝鮮が悪いと言うだけで、北朝鮮と真面目に交渉して拉致被害者を帰国させようとか、ミサイル開発を妨害しよう。と言う流れには全くなってないし、そういう動きは非常に自粛してしまってる訳ですよ。

既に、「総理が金正恩に電話してミサイル撃ってもらってる」と皮肉られてる時代を乗り越えないと。

 そして、安倍政権が不利に追い込まれるようになったり、色々な悪法の強行採決で支持率が下がると北朝鮮がミサイル実験や核実験を盛んにやるようになるのが繰り返されたものだから、影でひっそりと「安倍総理北朝鮮にお願いしてミサイル撃ってもらってるのだろう」と言われていたのが、森友疑獄の問題が出て以降は、ツイッターでですらおおっぴらにそういう風に言われるようになり、今や、北朝鮮安倍総理が裏で連携してるという話が、当たり前にネットで飛び交う体たらくになってる訳ですよ。

 それにも拘わらず、政府も官邸も北朝鮮の脅威を煽り・いざミサイルが撃たれたとなれば、昨日のJアラートのように、自分たちが掴んでるであろう事実に近い情報と違うような中身で警報を出して、危機感や恐怖を煽ろうとしている。そして、マスコミも、この間のネット世論の変貌ぶりを知ってか知らずか、大昔と同じように、政府の流すお話を、あたかも事実であるかのように流して大騒ぎしてる。

 これでは、信頼を失うし、そこを(自分からは)変える気もないのでしょうから、私達が変えていかないといけないと思うんですよ。

 ネットの中でも外でも、ミサイルに関する政府の対応は不正確で「狼少年」だ。迅速かつ正確な情報公開をきちんとしなければ、信頼しないぞ。と言う意思表示をしていかないといけない時期に来てると思うんですよ。地元の、与野党の議員の事務所に行って話をして、もっと情報公開を迅速かつ正確にするように迫れと言ってみたり、メール等で要望を出していってもいいでしょう。
 このままでは、何も信頼されなくなってしまうということを、知る義務のある立場の人たちにきちんと知らせて・きちんと今後の行動に踏まえてもらういかないといけないと、思うのですね。

自分の感覚と視点だけで物事を動かしてきた人達と、それに排除されてきた人の、大きな闘いが始まってる。

 又、間が空いてしまいました。
 最近、色々と揉めているな。と思うのです。日本だと、サラリーマンが家族より仕事を取ってしまったことへの反省と言うか自己嫌悪のようなものを描いた牛乳石鹸のコマーシャルが、何故か強い非難をされて「炎上」、大きな議論へと発展し、アメリカでは、Google社で、社内の男性と女性の仕事ぶりを見ていて、女性は(相対的に)ITの仕事に向いてないのではないか?と問題提起したレポートを書いた人が、社外からの批判に晒されて、クビにされてしまった。そして、白人至上主義に反対する集会に白人至上主義を支持する人が自動車で突っ込んだ事件をきっかけに、反対する側が、賛同する側を社会的に完全に抹殺しようとする動きが脚光を浴び、それが、白人至上主義を支持しない人達からも、ひんしゅくを買い始めてる。
togetter.comwww.huffingtonpost.jpwww.bbc.com

自分たちの視線しかない、「政治的正しさ」の暴走。

 これらの事に共通するのは、「政治的正しさ」こそが絶対に正しいということと、「自分たちが正しいと思うこと」が「政治的に正しい」と言う、揺るぎない信念で、その事が、その「政治的正しさ」を共有することのできない人達からの猛烈な批判にさらされ始めてる。ということであろうと思うのです。
 「政治的正しさ」ということは、得てして、自分たちの中で共有されてる感覚で「正しさ」の基準を決めてしまうことに繋がってる側面が物凄く強いんですよね。その「正しさ」に納得しきれない人・「正しさ」によって「悪」と扱われてしまう人達を、総じて「遅れた人達・愚かな人達」とせせら笑ったり、悪人だとして攻撃する事が当たり前に行われていて、そうであるがために、対話しようということは殆どなく、その代わりに、そのような人達を、法律で罰したり、いどころが無くなるように法律を制定したり、時には、暴力で攻撃することすら、「正しい」行為であるとして、人々をそのような方向に駆り立たせてしまう。

 かと言って、何でもかんでも対話してればいいかと言えば、そうでもないことがある訳ですよ。自分たちの生存が脅かされたり、社会的な生存や居場所を奪うような事を、無理やりやってくるような人々や、特定の人達を「正しさ」によって追い出したり、押しつぶそうとしたりする事をやってくる時に、話し合いが通じることは非常に少なくて、大抵は「話し合いが通じた」と思い込ませて、思い込まされた側に一方的な不都合を呑み込ませることになる訳で。

「自分たちの感覚」だけを、社会全体に押し付け・「相対化」を悪だと拒否し続けた運動の、限界。

 横道に話がそれましたが、「自分たちの感覚こそが唯一正しい」と言う人たちに、運動が引っ張られた結果として、外部との対話を拒否するどころか、外部からの「それは流石に問題なんじゃないか」と言う声すら、攻撃対象にしちゃってるわけですよ。要は、自分たちが外部からどう見られてるかとか、一旦自分たちの視点を離れて、どれだけ真っ当な考えか考え直してみる。と言う事自体が、「相対化してる」などといわれて「政治的に悪い」事になってしまっている。
 その結果、自分たちの独りよがりな価値観こそが唯一正しくて、それを受け入れられない人は、悪人で成敗するか、もしくは、無知で愚かな人達だから、教えてやらないといけない。と言う事が、普通になってて、その事で、社会の現状がどんなにひどくても、それがこの人達主導で変えられていくよりも、社会をひどくしてきた人達がよりひどくするほうがまだマシだ。と言う、ひっくり返った状態を望む人が、少なからず出るようになってる訳です。
togetter.com

「タコツボ化した運動」を乗り越えるのは、今までの運動から排除されてきた人達だ。

 私が、25年以上前に提唱した「タコツボ化」と言う言葉があります。タコが入るタコツボや、戦場で兵隊が一人用に掘ってる穴の中に閉じこもり、自分たちの言葉と感覚を共感し合うことで、他の人を見下し・自分たちの正しさを確認し続けてる人達に対して、向けた言葉でした。
 今起こってることは、「相対化」を悪だと考えて自分たちの感情的な感覚にだけ信頼を置いてる人達の「タコツボ化」が、極限まで来たことで、大半の人達との対立関係が激しくなり、社会が変わらないと沢山の人が不幸をより酷くするのにも拘わらず、変えられなくなってしまってるということなんですよね。
 今までの、社会を変えていく運動というのは、ごく少数の、タコツボ化してる人達の中で共感しあった末に決められた事を、その外側にいる立ち多数の人達に押し付けていくことで行われてきました。それは、暴力の形を取ることもあれば、法律の形を取ることもあった。その事は、社会に対する信頼感をなくすと同時に、社会を変える運動自体への、信頼感も壊していったのですね。
 多くの人のいろんな考えをぶつけ合って、その中で話し合いやら何やら沢山やって、その中から一人一人が受け取ると同時に、その流れの中で、社会を変えていくことをしないと、最早、社会が悪い方向・多くの人をより不幸にする方向にしか変わって行かなくなってると、思うのです。
 今まで、社会運動に参加せず、参加するにしても非常に限られたことしかしてこれなかった人達こそが、社会を、今までにないような形で変えていかないと、どうしょうもない。私は、そう思うのです。

人々の義憤につけ込み、誤った道に進ませる事をし続ける人々について。

 終戦と言うより、敗戦の記念日が近づいてきました。昨日(8/6)は、広島に原爆が落とされてしまった日でしたが、安倍総理が「非核三原則の法制化はしない」と言明したことが、その前に、国連核兵器廃絶条約の採決を日本がボイコットしたのとセットにされるような形で批判されたりも、していますね。

「フクシマの未来予想図」を報じられたくない人達に乗せられた人々。

 さて、そのような「広島原爆の日」に、テレビ朝日が、「ザ・スクープスペシャル ビキニ事件63年目の真実〜フクシマの未来予想図〜」と言う番組を放送しようとして、「フクシマの未来予想図」と言う副題が不謹慎だ・福島の人に対する人権侵害だ。などとネットで「炎上」し、結局副題が外されただけではなく、福島の事はほんの一瞬・ビキニ環礁のロンゲラップで被害にあった人が福島の強制避難区域を訪れたと言う1カットだけ入れられる形で放送されるに至りました。

 私は、この番組を見ていたのですが、福島のことをきちんと報じるか。手に汗握ってみていたら、二回目のCMでTOKIOが出演する「ほんとうの福島を知ってほしい、美味しい福島を知ってほしい」と言う、キャンペーンCMが流されたことで、「潰されたな」と思った訳です。
ビキニ事件63年目の真実~フクシマの未来予想図~テレビ朝日が8月6日放送 - Togetterまとめ

 このようなことは、前からあったんですよね。原発建設や核燃サイクル誘致に批判的な番組や論調の番組が、放送直前に差し替えにされて、その番組枠では流れてなかったはずの電力会社や電事連などの、原子力業界のCMが流れるようになるとか、後は、福島第一原発の事故の時までは電力業界のCMや番組をやっていた、ニュース系のCS放送局・朝日ニュースターが、原発事故の少し前から反原発系の運動家や論客を番組に出すようになり、原発事故以降は、反原発系の論客や学者等をきちんと出したことで、電力業界から広告を引き上げられ、経営ができなくなって、翌年にはテレビ朝日に買われてしまった事が、ありました。
books.google.co.jp

 要は、この国では、原子力を推進していくことに対して批判的な番組や、原子力事故での汚染や健康被害をありのままに報じることが、二重三重に「自主規制」を迫られてしまうという、歴史的なものが物凄く大きな壁として、ある訳ですよ。

ネットもマスコミも、原子力業界などの都合のいい状況に。

 前にも書きましたが、ネット言論も同じで、原子力業界の都合のいい言論を展開したり、そのような言論に誘導したりすることを、経産省が主導してるわけですよ。PA(パブリック・アセプタンス)とか言って。
 その中には、当然のことですが、反原発とか放射能の被曝で健康を害したとか言うことに対して、「デマ」「嘘つき」「妄想」「電波」と攻撃することや、一緒に攻撃するように人々を煽ることも入ってると見ていいと思います。
togetter.com

 最近、安倍総理に非常に近いジャーナリストの山口敬之氏が、TBS社員時代に女性のジャーナリストが仕事探ししてるのにつけこんで、サシで呑んだ時に睡眠薬を盛って昏倒させた挙句にレイプした事件で、警察上層部(この人達は、7月の人事異動で更に偉い地位になってる)がもみ消しに動いた事や、この山口氏自体に対する批判を「潰す」為に、内閣調査室(内調)がネットに対しても、言論誘導や被害者等への攻撃を煽るための工作を行っていたことが、週刊新潮によって報じられていましたが、原子力に関して批判的な言説や反原発運動は勿論、原子力業界にとって都合の悪い研究結果や研究者の見解自体に対しても、そのような攻撃が日常的に(ネットが普及し始めた00年代以降は特に)行われてた訳です。

 原子力に限らず、今政権の座にいる人達や、「保守」を自称してる大日本帝国復活願望のある人達、著作権関連などの大きな権益を盛ってる人達、そういう人達や利権に対しての批判や被害報告は、長年ずっと、攻撃の対象になってきた訳ですよ。それも、非常に強引な理屈で、暴力的なやりかたで、とにかく声を上げさせないために物量で押し切ろう。的な事は、1990年代の終わりくらいから、ネットの言論空間では普通にあった光景ですし。

 そういう事の延長線上に、今回のテレ朝のザ・スクープに対する圧力があるのだと、私は考えざるを得ない訳です。

 文句をいいにくい理屈を使って、問題の所在をすり替え、的はずれな「義憤」を煽り、「正義」に目覚めた人々を操るかのようにして、ありのままの姿や報道側の見解を公にさせないように、卑劣な形で動いてく。

他者への「人権侵害」を叫んで人をけなすひとたちが、最も人権侵害をやっている矛盾。

 もう一つ書いておくと、この件を「福島県民に対する人権侵害」と騒いでる人達は、一体何を見てるのだろうと、思うのです。
 声の大きな人達は、言ってます。「汚染が酷いとか健康被害が酷いというのは、福島県民を侮辱してる、嘘をついてる。人権侵害だ」などと。

 よく考えてほしいのですが、福島第一原発の汚染が、チェルノブィリ原発よりも軽いという、具体的な証拠は非常に少ないわけですよ。殆どのデータが、数値を低く見せるために基準を弄ったり測定方法を変えたりなどの「努力」の末に、小さく出てる数値や疫学上の統計の基準を昔とは違うようにしたり、雑な検査でも認めたりとか、ものすごい数の「数字のごまかし」が横行してるのを、見せないように見せないようにして、「汚染は大したことない」「もうすぐ事故は収束できる」と繰り返してる訳です。

 このような状況で、福島県の、特に汚染が酷い地域に人を住まわせ続けるとか飯舘村のように無理やり住民を戻してしまうとか、福島や宮城で、県外などに自主避難した人達への公的な援助を打ち切り・住んでる人達を戸別訪問して脅してまで戻そうとしてると言う事が、果たして「福島県民のプライドを護り」「人権侵害を止める」ことなのか?ということです。
 しかも、「絆」とかそういうきれいな言葉を常にTV等で流すことで、それに疑問を持ってる人達、辛くなってる人たちに、声を上げさせないように暗黙の圧力を、国がかけ続けてる。
 「人権侵害」と言い立ててる人たちのほうが、却って人権侵害の構図を見えなくして、今まさに起こってる人権侵害を推進してしまってるのだ。と言うことに、どうか、皆さん気が付いて欲しいと、思います。

 そういう事を、きちんと、改めて行かないといけないと、思います。

 この国の政府も、霞が関の官僚たちも、この件では「人々のため」には全く動いてない。「自分たちが間違ってない」事を証明することばかりに明け暮れて、そのためには放射能などの被害を受けた人たちは全て見殺しにしていいとすら思ってるのだと疑いたくなるのですから、私達「下々」が、きちんと状況を見て、口先の言葉や強い言葉に惑わされない「芯棒」を自分の心の中に持ちつつ、きちんと人々の下に政治や行政を取り戻していかない限り、社会の滅びは加速するだけだと、思うのです。